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小説と探偵小説と江戸川乱歩

◉江戸川乱歩の推理小説と一般小説について、その書き手と読者の違いについて言及している一文を、芦辺拓先生がTwitterにアップされていました。江戸川乱歩といえば、日本の推理小説というジャンルを切り開いた先駆者であり、第一人者でもありますから、さすがにその分析は深く鋭く、たいへんに興味深いものです。以下に、転載しておきますね。併せて個人的な考察を、少しばかり。興味のある人だけどうぞm(_ _)m

添付画像も、資料的な価値が高いので、転載しておきます。

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たとえ探偵小説味は薄弱でも小説のうまい作家は一般文壇に乗り出すことが出来るが、探偵小説としての構成がいくらよく出来ていても、小説が下手では狭い探偵読者にだけしか愛読されないということ、それにもかかわらず探偵読者は小説の巧拙は第二として、探偵小説味の強い謎構成のあるものでなければ満足しないということ、しかも、謎構成の巧みな人は概して小説がまずく、小説のうまい人は謎構成に興味を感じないし、努力もしないということ、これが常に問題なのである。

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■完成度が高すぎた始祖■

江戸川乱歩は、推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーをもじって、ペンネームにしたわけですが。そもそも、推理小説の始祖であるポー自身が、まだジャンルが分化・確立する前の作家ですから。怪奇小説と推理小説が、渾然一体となった作風でもあります。これは、日本の岡本綺堂などの作風も、近いですね。江戸川乱歩も、名探偵明智小五郎と怪人二十面相を生み出しましたが、『人間椅子』のようなフェティシズムの作品や、猟奇的な作品も多数。

そもそも始祖ポー本人が、SF作家としてジュール・ベルヌにも影響を与えていますし。自身が評論家であり、編集者でもあり。その詩論は、ボードレールにも影響を与えている、詩人でもあります。ちなみにボードレールはアルチュール・ランボーに影響を与え、ランボーはローリング・ストーンズに影響を与え。ローリング・ストーンズは世界中のロックンローラーに影響を与え。天才としか言いようのない、文学界の巨人です。

自分はポーや綺堂の、ホラー小説と推理小説が未分化の時代の作品の方が、好きです。しかし、『モルグ街の殺人』と『マリー・ロジェの謎』と『盗まれた手紙』の3作品でオーギュスト・デュパンという名探偵を生み出し。これに影響を受けて、アーサー・コナン・ドイルがシャーロックホームズを生み出し、チェスタトンがブラウン神父を、アガサ・クリスティがエルキュール・ポアロを生み出すのですが。

■第二世代の苦悩■

『モルグ街の殺人』は密室トリックで、いわゆるワトソン役による一人称での記述形式などが既に確立されています。『マリー・ロジェの謎』は実際の事件をモデルにし、現場に出向かない安楽椅子探偵の原型でもあります。『盗まれた手紙』では最初に犯人がわかっている倒叙もの──刑事コロンボや古畑任三郎の元祖──も既に世に問うています。推理小説というより冒険小説の『黄金虫』では暗号解析を、『おまえが犯人だ』では意外性のある仕掛けで犯人に自白させる手法まで披露していますし。

始祖ポーがあまりに 完成度が高かったため、ドイル卿らジャンルを発展普及させる第2世代以降の推理小説家は、ポーが持っていた雑味を取り除き、本格推理小説に舵を切ったのですが。日本でも、黒岩涙香や岡本綺堂、野村胡堂らを第一世代とすると、そこには大岡政談など江戸時代からある推理小説の原型的な、犯罪小説というか法定小説的なルーツはあるんですよね。その文化を、捕物帖モノは引きずっています。で、江戸川乱歩も実は第二世代の作家。

探偵小説という用語にも現れているように、探偵役とトリックという、本格的な推理小説を希求していたわけですが。乱歩自体は前述のとおり、ホラー小説も書ければ猟奇小説もフェティシズム小説も書ける、上手い作家だったわけで。でも、オールラウンダーであったが故に、もっと言えば見巧者・評論家としても一流であったがゆえに、自身が読みたい本格推理小説が、日本人作家から出現することを強く願っていたのでしょう。

■あらすじ屋から作家へ■

ゆえに、小説としての巧拙よりも、トリックがしっかりした推理小説としての読み応えを重視していたわけで。芦辺先生はそこを端的に、「だから下手でいい、トリックに勝る悪文なし。どうせ下読みするの僕じゃないし、バンバン投稿せよ! なるべく叙述トリックと日常の謎でないのを」と意訳された訳です。ちなみに芦辺先生は、乱歩が言う小説の上手さを、文章と人間描写のことと理解されています。自分も同意です。

コレって、実は「あらすじ屋」とバカにされていた頃の、漫画原作者に編集者が求めていた能力に近いんですよね。梶原一騎先生も小池一夫先生も、小説家として挫折して、原作者になった面があります。漫画は、セリフは文章なんですが、小説における地の文の部分を、絵で表している部分があります。逆に言えば、名台詞は書けても地の文がイマイチだからこそ、小説家としては挫折した訳です。

そう、映画やアニメの脚本もラノベも、セリフを書くのは得意だが、情景の描写や人物の内面描写は苦手なタイプが多いわけです。これは三島由紀夫もそうで、彼の才能は戯曲にこそあったという評価は、割と一般的。整ってはいるが固い感じがして、やや過剰修飾気味の三島の文体が苦手という人もいますね。これは上下優劣を言ってるのではなく、小説の難しさは地の文の表現力にある、という自分の仮説に過ぎません。

■努力で埋められる溝■

結果的に、推理小説読者の特殊性を、江戸川乱歩の時点で気づいていたのが興味深いです。小説の巧拙より、トリック重視のファン。だから小池一夫先生は、キャラクター主義を講義するとき、『点と線』や『砂の器』といった松本清張の大ヒット作を小説でも映画でも見たことがあるかと問うたそうです。すると、大多数は知っている。「では、主人公のフルネームを言えるか?」と問うと、ほとんどが答えられない。ヒット漫画の場合、これが逆になります。

今だと、東野圭吾先生のガリレオシリーズ、主人公のフルネームを言えるかと講座で問うと、ほぼ答えられないです。それだけ推理小説はトリックに比重が置かれ、キャラクターの印象が薄い。繰り返しますが、上下優劣を言ってるのではなく、そういう傾向・特徴がある、ということです。そして、乱歩の場合は魅力的なキャラクターの名前は出てきやすいですが、「この作品のトリックが素晴らしい!」という作品は『陰獣』などで、そこまで多くはないでしょう。

で、ここからが重要ポイントですが。乱歩は小説が上手い作家でしたが。どうも、トリックがしっかりした推理小説を書ければ、文章の上手さは経験と修練によって、ある程度の伸びしろがあると考えていたのではないか……と自分は推測します。大衆に受けるような小説の上手さは、実はかなり才能による部分が大きい気がします。トリックを思いつく能力もまた、才能なのですが。作家として食っていく、必要条件と十分条件が異なります。

■キャラクター主義の逆説■

文章が上手いという才能は、それだけで食っていける才能であり、トリックを生み出す才能がなくても問題ありません。必要十分条件。一方、トリックを生み出す才能は、それだけではトリック ライターにはなれても、小説家として一本立ちできない。十分条件。でも、天賦の才がある人間の90-100点の上手さは無理でも、60-80点の文章の上手さは、努力でなんとかなるということです。なぜそう考えるかといえば、劇画村塾から多くの漫画家や原作者に加え、小説家が出ているので。

菊地秀行先生や火浦功先生がそうです。ゲームデザイナーの堀井雄二さんや放送作家のさくまあきら氏まで。つまり、漫画家・脚本家・小説家などに共通のエンターテイメントの土台や骨格があって、後は本人の適性と好みの問題。ここから逆算して、各ジャンルの特殊性の部分を上手く解析できれば、そのジャンルの才能にそこそこしか恵まれていなくても、あるていど補うことができるのではないか? 自分たちはそう考えます。

MANZEMI講座は漫画だけでなく、小説家やアニメーターも 受講生からデビューしているのですが。斉藤先生のパース講座は、作話の能力はあっても絵が下手な人間が、努力によって及第点を取れるようにする面がありますから。自分や篁は元々、日本文学科ですから。小説家志望のネーム講座受講生に、では小説の技術として何が必要か、そこを学生時代からずっと解析してきた面があります。その成果の一部が、『MANZEMI文章表現講座』にまとめられています。

■作話の共通性と特殊性■

今年2月末に、篁が小説家デビューできたのも、漫画原作者として、まずはアイデア作りや、構成から段階的に学んで行き、漫画のセリフ表現を鍛え、最後の地の文の表現力を高めていく、そのステップを実験的に積み重ねてきたから、という面があります。加えて、漫画の表現技法のルーツである映画の表現技法の研究から、ちょっと特殊な文章表現力の視点にも、気づきました。今までの文章読本にはない視点に。

漫画家で、小説家もかねた人はそこそこいます。山上たつひこ先生やすがやみつる先生、あさぎり夕先生などは、凡庸な小説家よりも数多くの小説を出版されていますしね。山上先生と菅谷先生に共通するのは、お二人とも漫画家の前は出版社の編集者であった、という点です。クリエイターの側だけでなく、サポーターの側として作品づくりを客観視する経験は、自分自身も大きな財産ですから。

その経験がなければ、とても才能的には原作者にはなれませんでした。江戸川乱歩も鳥羽造船所電機部の社内誌『日和』の編集業務に携わり、イラストを書いたり読み聞かせの会を開くなど、作品作りを外部から見る目を養っています。横溝正史も博文館の編集者でしたしね。けっきょく、乱歩の言葉はそういう補助線を引いて、理解できる気がします。今年は、小説講座を複数回開催し、才能の発掘と育成に、もうちょっと 軸足を置いてみたいですね。

どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ

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