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東大を蝕む共産主義思想

◉斎藤幸平東京大学准教授が、資本主義の悲惨な現実を変えるためにできることという論点で、珍妙なことを語っておられます。いやいや、資本主義の悲惨な現状よりも、共産主義国での独裁や言論弾圧や飢餓などの、悲惨な現実のほうが問題でしょうに……。また資本主義にも多くの問題があるのは事実ですが、この提案では何も変わらないどころか、悪化するだけでしょうね。これで東京大学准教授ってんですから、日本の文系の惨憺たる状況が、見えますね。たぶん、和田春樹名誉教授や上野千鶴子名誉教授、その弟子や子分である教授陣に迎合しないと、ポストが得られないんでしょうかね?

【「一定以上の年収を禁止」「週休3日制の導入」…「資本主義の悲惨な現実」を変えるためにできること】現代ビジネス

マルクス研究者で気鋭の経済思想家として知られる斎藤幸平氏が、新作『ゼロからの『資本論』』を出版した。
同書はわずか3週間で15万部を超える売り上げを記録。この本で斎藤氏は、資本主義による悲惨な現実を私たちは「脱成長コミュニズム」で変えられると伝える。
私たちは具体的に何ができるのか?斎藤氏に話を聞いた。
(取材・文/正木伸城)

https://gendai.media/articles/-/105902

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、共産主義思想教の教祖であるカール・マルクスの、自動カラー化写真だそうです。

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■共産主義は全体主義■

週休3日制度は、そもそも強制するようなものではなく、放っといても資本の論理が進むと、導入されるでしょうね。実際、導入しているところは出てきていますし。ただそれは、週休3日のほうが高効率という、資本の論理からです。個人的には、月火働いたら水で休み、木金で働いたら土日は休みというのが、人間のサイクルにあっているように思いますね。実際に大学とかは、こういう感じですし。斎藤幸平東京大学准教授の論がダメなのは、それを強制したり制限したりと、選択肢をなくさせるという、共産主義の全体主義的な発想から出ている点でしょう。

最大年収を規定することも考えられます。最大年収以上のお金はどれだけ稼いでも「もらえない」ようにするのです。あとは、金持ちであることを示すための過剰な消費活動を規制することなどでしょうか。

同上

どうも、ジョルジュ・バタイユの過剰-蕩尽理論ではないですが、人類はクロマニョン人として分化する遥か前から、過剰に蓄積したり過剰に蕩尽したりする、奇妙な性癖というか本能があるようです。それの弊害もありますが、結果的に人類の文化や文明を発達させてきたわけで。美味しそうな赤い木の実があったら、毒があるかどうか躊躇せず食ってしまうお調子者がいてこそ、慎重な残りの人間の役に立つように。でもそれを、一種類の在り方に押し込めてしまおうという、一神教由来の全体主義が、実は危険なんですよね。

■共産主義は多様性排除■

優生思想も、非常に狭い視点で優劣を決めてしまう。例えば鎌形赤血球という、遺伝病があります。病気=異常というと誤解が出てしまいますが、そうではありません。一般的に丸いクッション状の赤血球が、鎌というか三日月というか、特殊な形状になってしまう形質です。大きさが違うので、酸素を運べる量にも差が出て、疲れやすいという特徴があります。ところがこの不利なはずの形質が、マラリヤに罹患しづらいというプラス面もあります。

人類は、ビタミンCを自分で作り出す能力を失ってしまっていますが、これもある地域におきた遺伝異常が、全人類に継承された結果ですから。ある日、強烈な変異種のマラリアが世界中で大流行したら、鎌形赤血球の人類しか生き残らない可能性もあるわけです。明らかに不利な形質の獲得が、マイナスになることもあればならないこともあるわけです。狭い範囲で優劣をジャッジすることの危険性。動物の品種改良でも、優れた形質の獲得が遺伝病セットである事例からも、分かります。

共産主義思想自体は、キリスト教に改宗したユダヤ人の家系という宗教コンプレックスを持つカール・マルクスが、ダーウィンの進化論を優勝劣敗の考えと曲解して、ユダヤ・キリスト教の千年王国思想を焼き直した、疑似科学です。最後の審判で異教徒が皆殺しになり、信者だけが至福1000年の神の王国に入れるという思想。リベラルの方々が多様性を口にしながら、実際には多様性を排除したり、多様性が大事というただ一つの思想を押し付けてくる理由は、ここに由来します。

自分たちが少数派のうちは多様性を言い募り、自分たちが多数派になったら多様性を排除する。ここ大事です、テストに出ます。

■桃源郷を求める共産主義■

斎藤幸平東京大学准教授、イロイロと理屈を重ねていますが。言ってることは要するに道教の、小国寡民の考え方とほとんど同じです。お互いの顔が見える村落共同体故に可能な、平和な世界。それを具体的な形で表現したのが、桃源郷の伝説と。世界的にもいろんな理想郷の伝説が各地にあります。ユートピア、アルカディア、シャングリラ……それらは要するに、現実には存在し得ないからこそ理想郷たり得るわけで。

会社の中でも、「ちょっといい?」と助けを求められた時に、損得勘定なしで助けるといったことがあるじゃないですか。コミュニズムはすでにあるんです。それをいろんな領域に拡張していくのが私の「脱成長コミュニズム」のイメージです。

同上

ものすごいことを語っているつもりなのでしょうけれど、ユダヤ教にしろキリスト教イスラム教にしろ、一神教系の宗教はそうやって、異教徒のいない世界を理想としてきました。イスラム教のウンマも、その延長線上。そして、その正統後継者が共産主義思想です。でも現実の村落共同体には、ものすごい同調圧力があるわけです。それを国レベルでシステム化すると、共産党による一党独裁という全体主義になるんですが……。

だいたいこの論って、自助・共助・公助の3段構え論と、何が違うんでしょうかね? 菅義偉総理の時代に言ったら、パッシングした。

■共産主義は疑似科学■

そもそも、共産主義思想は宗教ですから、部分的な世俗との妥協はできても、根本的な部分でその宗教性を捨て去ることはできないでしょう。捨て去ってしまったらそれはもう、共産主義思想ではありません。党首公選制の提案をしただけで、除名という過剰攻撃に出たように、日本共産党はその独裁体制を否定する言動に、極刑をもって臨んだ訳で。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)だったら公開銃殺刑でしょうね。

私でいえばマルクス主義を更新・アップデートする必要に迫られるようにもなります。その時に、更新される可能性や、どう更新したかのプロセスも明確に伝わるようにすることが大事です。それができれば、他の価値観を持つ人たちとも連帯していく道が開けるでしょう。

同上

論語読みの論語知らず、共産主義者の共産主義知らず。共産主義思想のルーツであるユダヤ教もキリスト教も、その長い歴史の中で世俗の権力と妥協し、教義ドグマを否定しないレベルで落とし所を探り続けてきたわけです。マルクスが世に問うてから150年ほど経つ共産主義思想ですが、ようやく世俗との妥協のの必要性を言い出したとしたら、勉強不足。ご本人はその自覚もないでしょうけれど。

そうやって妥協してみたところで、落ち着く先は現在の一神教系の宗教と同じレベルでしょう。であるならば、共産主義思想は疑似科学の宗教として、オウム真理教の後継団体と同じ枠に入れて、信教の自由の範囲内で遇するしかないのではないでしょうかね? こちらに、共産主義思想がいかに宗教か、とてもわかりやすいnoteを用意しておきました(自画自賛)ので、興味があったらご一読をm(_ _)m

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