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テロリストを称賛する朝日新聞

◉映画を作ることも、上映することも、それもまた一つの表現の自由ですから。それ自体は、全く非難するにあたりません。しかし、朝日新聞阪神支局襲撃事件の犯人が逮捕され、実は右翼団体とは関係なく、悲惨な生い立ちから逆恨みで阪神支局を襲撃したことがわかり、その人物を取り上げた映画が事件の日、記者の命日に上映されたとしても、こんな記事を書くんですかね? 自分たちが何をやっているのか、わからなくなってるのか。

【山上容疑者モデルの映画を緊急上映 元革命家の監督「英雄視しない」】朝日新聞

 安倍晋三元首相を殺害したとして送検された山上徹也容疑者をモデルにした映画「REVOLUTION+1」が、国葬に合わせた26~29日に、東京や沖縄など全国13カ所で緊急上映される。永山則夫元死刑囚の心象風景を描いた「略称・連続射殺魔」で知られる足立正生さん(83)が監督を務めている。
(中略)
 脚本家の井上淳一さんが3日間でシナリオの第1稿を書いたのが8月初旬。ライブハウスを経営するロフトプロジェクトの出資が決まり、8月末にクランクイン。8日間で撮影した。ドラマ「あまちゃん」の大友良英さんが音楽を付け、今は編集の最終段階という異例のスピードで作られた。

https://www.asahi.com/articles/ASQ9Q73MMQ9PULZU00V.html

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、新聞の写真です。

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■公金にタカる反体制派■

そして、撮影したのが、日本赤軍の元メンバー。Twitter で流れてきたときにわかには信じられませんでしたが、この監督は生活保護受給者とのこと。どうやら若い頃に年金を支払っていなかったために、年金がもらえないので生活保護を受けているという感じのようですね。もちろんそれ自体は、国が作ったセーフティーネットですし、国民の権利ですから。

それでも、若い頃にはこの国の評判を落とすような国際テロリストの活動に加担しておきながら、国のご厄介になるのかと。まだ反体制の気分が抜けないのならば、敵であった国家にお世話になっているのではなく、国家の金を生活保護という形で奪い取ってやったぜ、ぐらいの気持ちなのかもしれません。表現の不自由展にしろ、平田オリザ氏やその弟子の深田晃司監督にしろ、反体制を気取りながら公金にたかろうというその心情が、理解不能。

■テロリストには与えない■

ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相は、モスク銃撃犯について議会で、「男はこのテロ行為を通じて色々なことを手に入れようとした。そのひとつが、悪名だ。だからこそ、私は今後一切、この男の名前を口にしない」と演説したのですが。これこそ、政治家やマスコミが模範とすべき態度でしょう。テロリストの歪んだ英雄願望を、満たしてあげない。テロリストの目的をサポートしない。再発防止に大事なこと。

翻って、日本の左派マスコミの異常ぶりはどうでしょうか? 卑劣なテロによって暗殺された被害者の安倍晋三元総理を悼むどころか、こうやってテロリストを大々的に取り上げる始末。「事実を伝えただけで称賛はしてない」と言い訳するでしょうけれど、取り上げること自体が犯人の目的をサポートする行為。

■監督の自己投影?■

朝日新聞阪神支局襲撃事件の犯人は、チマチョゴリ切り裂き事件の犯人同様に捕まっておらず、本当の犯行目的はわかっていません。この事件の犯人も、首相暗殺をやすやすと許してしまった大失態の奈良県警が、自分たちの責任を少しでも軽くしようとしてか、情報を断片的にマスコミにリークしています。この映画のシナリオも、僅かの断片的情報をもとにして短期間で書き上げられたのですから、事実ではなく脚本家や監督の思い込みの投影でしかないでしょう。ハッキリ言えば、自己投影。

繰り返しますが、それでも表現の自由の一部です。でも、こういう思想性・党派性丸出しの作品を、テロリズムの標的になった新聞社が大々的に取り上げる、バカバカしさ。たぶん、荻上チキ氏の番組でも取り上げるし、なんなら監督を呼んで特集を組むかもしれません。そして日本アカデミー賞は、何かの賞を与えるかもしれません。トンデモ映画『新聞記者』のように。でも大衆は、裏の政治的な意図をきっちりと見透かしていますよ?

■死者が生者を動かす文化■

演劇の世界では、例えば東海道四谷怪談を上映する時には、関係者はお岩稲荷田宮神社にお参りします。「鳥取道なんて迷信だ、非科学的だ」というのは、簡単ですが。そうやって死者を蔑ろにせず、対応してきたのが日本の文化です。いわんや、安倍晋三元総理は亡くなったばかりで、遺族も友人知人も膨大な数がいらっしゃいます。死者を冒涜するというのは同時に、生者の恨みを買うということです。そしてそのようなことをする人達は、大衆も忌避します。

無用な言挙げを、嬉々としてやるのですから。呪いや祟りは、存在しないのかもしれません。しかし「あれは祟りかも」と民衆が口にするとき、それは間接的な批判です。たぶん今後、この映画の関係者に、ただの偶然で何かが起こっても、祟りを連想されるなら、そういうことです。言論の自由がなかった時代、大衆は落し文やわらべ唄、あるいは祟りを噂することで、政治批判をしてきたのですが。第4権力のマスコミもまたそうやって、批判にさらされるでしょう。それは非科学的であるがゆえに、簡単に払拭できませんよ?

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