日本の映画がダメな理由 again
◉こういう薄っぺらいことしか言えない御仁が、エグゼクティブプロデューサーのなんのと幅を利かせている業界だから、そりゃあダメですよね。以上。どうせこの作品も駄作『新聞記者』のように、お手盛りの受賞ラッシュなんでしょうけれど……。一定の映画館と映画会社さえ儲けさせられない自己満足映画作っておいて、アニメに責任転嫁が酷いですね。
映画のポスターよりもデカデカとエグゼクティブプロデューサー様の写真を載せ、「大手制作会社がアニメや必ず当たる大御所の作品に頼りきっている中で、まったく違う作品を制作されているからこそ、河村さんの存在感が引き立つのではないでしょうか。」と歯の浮くようなヨイショするライター。実に気持ち悪い記事で、逆に一見の価値ありです。トップ写真は抗議の意味を込めて、エグゼクティブプロデューサー様の顔をトリミングして使用させていただきましたm(_ _)m
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■映画離れの現実■
もし『鬼滅の刃』や『シン・エヴァンゲリオン』が公開されなければ、人は別の映画を見に行ったのでしょうか? んなことはないです。日本人の年間の映画鑑賞の本数は1.6本とか。アメリカ人の4分の1ほど。すでに映画は日常のモノではなく、ほとんどの人間は映画館に足を運びません。むしろ『鬼滅の刃』で、日頃は映画を見に行かない層が、掘り起こされたと考えるべきでしょうね。鬼滅で初めての映画館って子供も多かったでしょう。
そもそも、鹿児島県は鹿児島市にしか映画館がなく、移動巡回映画館が学校の体育館で上映してくれればありがたいぐらい。158万人弱の人口の、99万人は地元に映画館がない。これはどこの地方都市も似たようなモノでしょう。県庁所在地にしか映画館がない。都会の恵まれた環境しか観ていないという点で、ローカル線の現状を見ずに無謀なバリアフリーを訴え、各方面から批判を浴びた伊是名夏子社民党常任幹事みたいな御仁ですね。
経済産業省のデータによれば、若者の映画離れは顕著。50代以上は以前より映画を観るようになっていますが、それは映画館ではなく自宅で、レンタルや配信によるものという数字も出ています。映画館自体がないのですから、当然ですね。自分たちが集客力がある映画を創れていないのに、自分たちの力不足をアニメに責任転嫁する。挑発的な炎上商法にしても、データに基づかず、レベルが低いです。
■映画の多様性とは■
実は、河村光庸エグゼクティブプロデューサーの物言いとほぼ同じようなことを、平田オリザ氏の弟子である深田〝偉才〟晃司監督も鬼滅の刃批判で口にしています。興味深いのは両者とも「映画の多様性」と口走っています。なので、お芸術映画や政治性丸出し邦画界隈では、これが共通認識なのでしょう。誰の受け売りか知りませんが、実に薄っぺらいですね。自分たちが客が呼べる作品を、創っていないだけなのに責任転嫁。
深田〝偉才〟晃司監督の上記の物言いのおかしさについては、まさに河村光庸氏がプロデューサーを務めた駄作映画『新聞記者』がいかにダメダメな作品だったか、しかし興行収入に比較していかに上映館数や宣伝において優遇されたかを分析することで、検証しています。コチラのnote『日本の映画がダメな理由』でお読みいただけますので、興味がある方はどうぞ。本noteは下記noteの続編の扱いですm(_ _)m
そもそも記事本文にある「国内賞レースに必ずかかる」ってヨイショ、つまりそういう政治的な作品を作ればホイホイ賞をあげる左派メディアや団体がいて、そこで権威付けするという共犯関係、マッチポンプですね。これって、あいちトリエンナーレの表現の不自由展で、効いたこともない現代アートの作者が、お仲間から展覧会に取り上げられてそれで権威を纏う、マッチポンプの構造にも近いです。
■表現と政治性の問題■
こういう話をすると「作品に政治を持ち込むべきではない」という人間がけっこう出てきますが、それもまた違うと思います。映画でもアニメでも演劇でも小説でも漫画でも、外に向けられた表現が政治性を帯びることがダメだとは、自分はこれっぽっちも思いません。むしろ、作品は同時代の抱える問題と創作者の抱える個人的な問題がシンクロしないと、上滑りすると思っています。これは町山智浩氏も言っていましたが。
同時代の問題とは、生活であれ制度であれ文化であれ、政治と直結していますから。というか、社会問題解決の手段が政治だから、当然ですね。でも政治性を前面に出すのは、権力批判や社会風刺をエンタメの皮に包むこともできない、二流や三流のクリエイターだってだけです。政治性は有るか無いかの問題ではなく、どう巧妙に隠すかの問題です。ドキュメンタリー映画ならともかく、その点で脚本が稚拙な『新聞記者』は駄作や愚作なんです。
例えば、北朝鮮に拉致されて怪獣映画『プルガサリ』を撮らされた韓国の申相玉監督は、娯楽映画に見せかけて北朝鮮への体制批判を織り込んでいます。鉄を食って巨大化する怪獣プルガサリは、苛政を行う封建王朝を打倒するのには力を発揮しますが、悪の政権が倒れたら、無用の長物。逆に、農具などの鉄を食う、困った存在に。故に、大衆に懇願されて自主的に消えてしまいます。一見すると、ユーモラスな娯楽映画。
■エンタメ不足の反体制■
でも、これって「金日成は悪の封建王朝(李氏朝鮮や大日本帝国)を打倒した功績はあるが、今は逆に人民を苦しめている。消えるべきだ」という、体制批判を忍び込ませています。バレれば北朝鮮名物の公開銃殺刑の可能性も高い、まさに命懸けの表現です。翻って、『新聞記者』を作ることで、関係者は生命の危険がありましたか? 有るわけ無いですね。北朝鮮や中国やロシアじゃないんですから。安倍晋三総理も特に言及もしていなかったかと。
安全な日本で、反体制ごっこをやって、自分たちは目覚めた人間だと、自己陶酔する。おお、気持ち悪い((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル 政治性というのは、エンターテインメントの隠し味として機能した方が、むしろ効果的なのに。娯楽として笑って泣いて感動させて、たくさんの観客に見てもらって、でも社会問題などについて自然に意識を向けさせる。そういうのがよほど難しい。大学を隠れ蓑に生物兵器開発を進める政府の陰謀を追うとか、中学生の脚本かと。
『七人の侍』も『ゴジラ』も同じ1954年に公開されていますが、これは偶然でなく。1951年にサンフランシスコ平和条約に日本は署名し、翌52年に発効。つまり、日本が敗戦処理をし独立独歩でやっていく不安や、アメリカや核兵器との関わりという政治的な現実が投影されてた訳で。そうやって創られた作品はエンタメ性に優れ、世界に通用しています。『ゴジラv.sキングコング』だって、政治性満載です。なのに、エンターテインメントを馬鹿にする二流や三流が、稚拙な政治映画がエラいと自己肯定する令和の世。
■反体制派内体制の滑稽劇■
その稚拙な『新聞記者』は、これでもかこれでもかというほど、多くの映画賞に輝きました。特に第43回日本アカデミー賞では、最優秀作品賞・最優秀主演男優賞(松坂桃李)・最優秀主演女優賞(シム・ウンギョン)・優秀監督賞(藤井道人)・優秀脚本賞(詩森ろば、高石明彦、藤井道人)・優秀編集賞(古川達馬)と6冠でした。おかげで、凱旋公演では190館で上映。それで興行収入も6億円に。
しかし自分は、あの年のアカデミー最優秀作品賞は『翔んで埼玉』に与えるべきだったと思います。
原作者である魔夜峰央先生が、TBSラジオの番組で遠回しに語ったように、ポリコレ棒を振り回して表現を規制しよう・批判しよう・吊し上げようとする上級国民たちへの、嫌悪感や疲弊感や閉塞感が、あの埼玉県ディスリ映画の大ヒットに繋がったわけで。まさに、エンターテインメントの皮で上手く政治性を包んでいたと、自分は評価しています。時代ともシンクロしていた。興行収入も37.6億円と、あれほど各賞でお手盛りして6億円の『新聞記者』より、よほど結果も出した。
■零落せし者の断末魔の叫び■
でも、反体制ポーズが主流=体制派の映画界や賞レースでは、評価されない。河村光庸エグゼクティブプロデューサーや深田〝偉才〟晃司監督に思想的に近しい人々が、賞を牛耳るので、それも当然。映画芸術誌は、アニメを年間ランキングの対象から外しましたが。漫画が原作の映画より、内閣調査室の仕事内容も知らん『新聞記者』が上等だと見做す程度の知性の、反体制内部の体制派こそ悪しき権威主義者という逆説。
この反体制ポーズは、60年安保・70年安保の挫折を経てなお、現実的な社会改革の筋道を提案できない、万年野党の精神にも通底します。そんな反対だけして対案が出せない万年野党を持ち上げる左派メディア(新聞・テレビ・ラジオ・雑誌の旧メディア)、日教組やアカデミズム、法曹界の一部、ポリコレ棒を振り回す反差別界隈、これらはメインカルチャーから零落したカウンターカルチャーという点で、通底しています。
表現規制を主張するツイフェミ、反差別界隈、反原発界隈、政治性丸出しの表現の不自由展の津田大介芸術監督や永田浩三武蔵大学教授、障害者を錦の御旗に無茶な要求をゴリ押しする伊是名夏子社民党常任幹事と大椿裕子社民党副党首、山口二郎法政大教授や中野晃一上智大教授などなど、左派のお手盛りトライアングルの構造が、双方向のインターネットでどんどん可視化されています。新聞やテレビの零落が、追い打ちをかけていますけどね。『新聞記者』も『パンケーキを毒味する』も、一種の断末魔の叫びに思えます。後者も、公開されたら観に行きますけどね。
■才能を門前払いにした映画界■
河村光庸エグゼクティブプロデューサーへの怒りが収まらないので、さらに追記します。Twitterで出世景清さんのこのツイートが目に止まりました。実はコレ、手塚治虫先生だけの話でなく。藤子・F・不二雄先生も、手塚先生の存在によって本来は映画界に行くべき才能が漫画界に流れてしまったと、語っておられました。F先生自身がそうだったでしょうし、石ノ森章太郎先生やトキワ荘に集った才能の多くがそう。
自分が編集社勤務時代、担当した女性マンガ家さんも、本当は映画監督になりたかったと語っておられました。でも、当時は女性監督は聞いたこともなく。どうやったらなれるかも不明。なれても、下積みが長く三十代になってやっとかもしれず。それが漫画家なら中学生でもプロになれる、筋道も投稿→受賞→デビュー→読み切り→前後編→短期集中連載→本格連載と、ハッキリしていたと。
で、調べてみたら【日本映画のヒット作、女性監督の割合は3% 「ジェンダーギャップ120位の日本社会や働き方が反映」】という記事がヒットしました。日本映画学校の学生は男性6割の女性4割なのに、実際に働くスタッフの女性比率は撮影監督8〜11%・編集20%・脚本19〜22%と低いわけで。なんのことはない、人口の半分を占める才能を、門前払いしてきたのが河村光庸エグゼクティブプロデューサーの映画界だった、と。
■大衆を馬鹿にする上級国民たち■
言うまでもなく、『鬼滅の刃』の吾峠呼世晴先生は女性。漫画界は女性を排除しなかったから、そりゃあ人材が集まりますよね。御用ライターが「大手制作会社がアニメや必ず当たる大御所の作品に頼りきっている中で、まったく違う作品を制作されているからこそ、河村さんの存在感が引き立つのではないでしょうか。」とヨイショする無知を晒していますが、アニメも現実は実力で勝ち取った成果。
自分は、そのたった6館のひとつ、池袋で偶然見かけてふらりと映画館に入り、『時をかける少女』と出会えました。良いモノはちゃんと評価してくれる良き観客は、まだまだいます。しかし、河村光庸エグゼクティブプロデューサーはそんな観客を見ていますか? 金を出してくれるスポンサーや、賞をくれる団体、褒めてくれる左派文化人と、そっちばかりを見ていますよね?
それは平田オリザ氏も、その弟子である深田〝偉才〟晃司監督も、補助金をせびり取る相手の国とか、大学のアカデミズムという権威しか見ていないという点で同じです。それで上級国民として大衆を馬鹿にする。大衆はバカかもしれませんが、あなたたちよりマシですよ。バカには解らぬ高級演劇を、貧乏してでもやるというなら、それは筋が通っていますが。そうじゃないことが問題なんですよね。
どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ
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