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豊崎由美TikTok批判への雑感

◉書評家でフリーライターの豊崎由美女史の、TikTokでの本の紹介批判が、物議を醸しています。誰と、名指ししてるわけではありませんが、逆に言えばTikTokで小説や書籍を紹介している人全般にケンカを売ってるわけで。この人のこの評価はおかしい、ならまだしも。TikTokで雑にまとめられては、そりゃ反発も出ますよ。また一人、TBSラジオで知った文化人の問題言動を見て、寂しい限りです。

そして、小説の紹介TikTokerとして著名な、けんご📚小説紹介氏が、Twitterで反論というか感想をツイート。

さらに、TikTokの投稿を休筆する旨、ツイートしました。

これに対する、豊崎由美女史のツイートがこちら。

そして、コレに対する批判記事がコチラです。

【書評家が本紹介TikTokerけんごをくさし、けんごが活動休止を決めた件は出版業界にとって大損害】Yahoo!

今年発表された毎日新聞社と全国学校図書館協議会(全国SLA)による学校読書調査の結果を見ると、中高生女子に対するけんごをはじめとするBookTokerの影響力は一目瞭然である。

ハッキリ言えば、綾辻行人先生ら作家や本屋の側からは、かなりの批判が出ています。なので、いちおうフリーランスの編集者が本業で、ライターや原作者もやってる自分なりの雑感を。

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■〝パブロフの犬〟状態■

そう言えば、TBSラジオ森本毅郎スタンバイで以前、月尾嘉男東京大学教授が紹介されていたエピソードですが。石原慎太郎氏が新聞のデジタル化に対して、新聞を開くその手触りやインクの匂いの素晴らしさを、月尾先生に力説してたそうですが。昭和生まれのオッサンとしては、わりと解らんでもないんですけれど。でもそれって条件反射の実験で知られる「パブロフの犬」状態なんですよね。

犬は餌が美味しいからヨダレが出るのに、食事時にベルの音を聞かせ続けると、ベルの音を聞いただけでヨダレが出るようになるという、条件反射の実験。新聞の紙の手触りやインクの匂いって、ベルの音であって。でも、真にこだわるべきはエサの内容のはずなのに。新聞にとっては、情報の正確性。紙の手触りやインクの匂いは、ベルの音。なのに、条件反射づけられると、ベルの音に拘るようになるのが人間です。

■和式便座と洋式便座と■

書評も、作品の本質とか、読者の気づかなかった視点とか知識を提示して、読者と作品の架け橋になるのが大事。その媒体が明治の頃は新聞や雑誌しかなく、昭和の時代はラジオやテレビが加わり、平成にインターネットが登場し、今はSNSの花盛り。媒体は、時代と共に移り変わるモノ。なのに、自分が慣れ親しんだ形式にこだわりTikTokを批判するのは、豊崎女史が日頃から批判している石原慎太郎氏と、何が違うのでしょうか?

これまたTBSラジオたまむすびで、博多大吉師匠が語っていましたが。関西の演芸場には、和式便器が1個はあるんだそうで。ベテランの芸人さんが、洋式便器では用が足せないからだとか。それぐらい人間というのは、慣れ親しんだ様式に、左右されるモノです。自分は洋式便器の方が楽で良いのですが、そういう人から、和式便器を取り上げるつもりはないです。また和式には和式の便座に接触しないという利点や、良さもありますから。

■浮世のアラで飯を食う商売■

ですが、洋式便器は間違いだとか和式便座が正しいとか言い出すと、老害と呼ばれてもしょうがないのでは? かつて江口寿史先生が、浅野いにお先生批判とデジタル作画批判をし、炎上したことがあります。その時は、奥さんに現役でない作家が若手批判するなと叱られたと、謝罪されていましたが。豊崎由美女史は、謝罪してるようにも見えません。その奥底にあるのは、キクマコ先生が指摘されている、この部分かな……と。

それが映画評論にしろ書評にしろラーメン評論にしろ。あるいは政治評論にしろアイドル評論にしろ各種スポーツ評論にしろ。自分で何かをクリエイトする訳でなく。いわば「浮世のアラで飯を食い」の商売ですから。そこを履き違えると、作家や本屋の側からも批判されることになる訳で。どうも『美味しんぼ』以降、料理人より評論家が偉いような錯覚を、持つ人間が増えちゃった気がします。

■批評家は大八車の片輪に非ず■

Twitterを見ていて興味深かったのは、コチラの指摘でした。豊崎由美女史は「小説を載せた大八車の両輪を担うのが作家と批評家で、前で車を引っ張るのが編集者(出版社)。そして、書評家はそれを後ろから押す役目を担っている」って語ってるそうですが。いちおう編集者で原作者でもある人間からすると、それは違うなと思います。

作家自身が大八車。編集者は補助輪であったり、水先人であったり、道路を舗装したり、なんでも屋。作家によっては、自分自身で補助輪つけたり、水先人になり、我が行く道を舗装したり。極端な話、作家によっては編集者はいなくてもナントカなるんですよね。編集者や出版社の仕事(校閲・デザイン・製版・流通・宣伝・営業)さえアウトソーシングできるし、書評はAmazonのレビューとプロの書評家の差がどんどん曖昧に。自分で読んで確かめる人には、書評は不要です。

■ジャン・シベリウスの名言■

評論家は、大八車のからこぼれた荷で飯を食ったり。あそこの荷は良質だぞとか粗悪品だよと言う人。書評家も似たようなもの。編集者も評論家も、しょせんは大八車になれないという無用者意識がないと、自己過大評価に陥りがちですが。ジャン・シベリウスに「批評家の言うことなどに耳を傾けてはいけない。これまでに批評家の銅像など建てられたためしはないのだから」という名言もありますから。でも、町山智浩氏はこんなことを書いています。

書評は書評であって、それは作品とか呼べるか、疑問です。どこまで行っても、作品があってこその書評ですから。二次的なモノ。『進撃の巨人』の脚本で、創作の難しさは骨身に染みたでしょうに。原作のあるマンガですら、映画シナリオにするのも難しい。そこを解ってるなら、軽々しく〝作品〟とか格上げする行為は、慎んだ方がいいでしょう。どっちかと言えば、論文やエッセイに近似したモノでしょう。

もちろん、司馬遷の史記が史実を記述した史書でありながら、紀伝体という表現方法によって、小説的な面白さを獲得したのは事実です。ただそれは、司馬遷が今日的な学術的記録としての史書ではなく、たぶんに小説的な面があるからで。解説書や評論が作品の価値を引き出すことはあっても、評論自体が作品化と言えば、二次創作的な意味では作品と言えますが……。贔屓の引き倒しで勇み足になってませんか?

■本論からはズレますが■

自分はTikTok(やLINE)は使わない人なので、けんご📚小説紹介氏についてはまったく知りませんし、TikTokerの影響力も、ピンときません。ですが、豊崎由美女史がTikTokに書かれた内容ではなく、媒体を批判してるのが、気になります。TBSラジオ周辺のタレントや文化人の、劣化例をまたひとつ見てしまい、悲しいですね。TBSラジオと距離を置いた山田五郎さんや小西克哉さんには、感じないのですが(宮台氏は劣化以前の問題)。

思うに、30代の頃の芸風が50代60代になっても変わらないタイプに、言動に問題が出るパターンが多いような。加齢に伴う蓄積とか成熟とかないと、厳しいのでしょう。若者文化の側にいた人とか、零落したカウンターカルチャーとしての和製サブカル人士とか。そこで、お手軽に政治を語ろうとする芸人とか、不快ですね。上岡龍太郎さんとか、若い頃のビートたけしさんのような、センスが在る訳でなし。ジックリ勉強した訳でもないのに、左派マスコミが喜びそうなことを言う。

■慌てないために備える■

晩年の横山やすし師匠は、人生幸朗師匠のようなボヤキ漫才をやりたいと語っていたとか。若い頃の勢いやキレや反射神経は、どうやっても加齢で失われるのだから、この視点自体は大切だったと思います。ただ、漫才は相方が必要ですから。人生幸朗師匠には生恵幸子師匠がいたように。横山やすし師匠が51歳で亡くなったのも、示唆的です。西川きよし師匠が40歳で参議院に出馬し、三期18年で還暦前に政界引退と、身の振り方を設計していたのとは対象的に。

漫才師だった人間が、年齢を重ねてから落語家になるのも、やはり〝長生きするのも芸の内〟と言われる落語の、老成や成熟の部分に惹かれるのでしょう。ただし、古典落語は反復練習によってしか生み出せない円熟が価値があるのであって、ムダに歳を取っても意味はないのですけれども。10年後を考えて、今準備しておくって大事ですね。鶴光師匠や柳亭市馬師匠も、還暦越えてからの自分を見据えて、三十代四十代と芸を磨かれていましたし。

自分の場合は……意識的に仕込んではいませんが。若い頃から好きでやってた道楽が、実益をもたらしてる感じですかね。額は些少ですが。慌てないどころか、半分諦めていますし。ただ、三十路を越えたら意識的に、若い人と年上の人と、幅広く交わると良いです。刺激になるし、自分の10年後20年後の助言を、たくさんもらえます。とりとめの無い文章になりましたが、ここら辺はまたいつか稿を改めて、書くかもしれません。どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ


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