左派の傲慢とカルト性
◉環境団体が、ゴッホのひまわりの絵画に、トマトスープをかけて、抗議活動を行ったそうです。どうやら犯人たちは、化石燃料関連の新規プロジェクトの全停止を、イギリス政府に訴えるために実行したと表明したそうですが。犯人の一人は美術館の来訪客に「どっちが価値がある? アートか命か?」と叫びながら、問い掛けていたそうですが。やってることは、バーミヤンの大仏を爆破したタリバーンといっしょですよね。
ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、ひまわりの花の写真です。
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■左派の宗教性■
芸術と命、そんなものを比較できるものではないですよね。北宋の青磁とモーツァルトの楽曲、どっちが価値があるかなんてもんで。そもそも比較対象にならないものを持ち出して、二者択一を迫る。これもまた典型的な、カルトの手法ですよね。本当は選択肢は他にも、無数にもあるにも関わらず。右か左か、A か B か、選択肢を絞り込んでどっちを選んでも矛盾するように追い込む。相手の思考を混乱させて、自分の意図する方向に誘導するための、前振りですから。
もう一つ、自分達は絶対の正義であるという狂信的な革新。人間は全知全能の神ではないのですから、絶対の正義なんてないんですよね。ここら辺の傲慢さは、旧約聖書のヨシュア記を読めば明確ですが。神がジェリコの民を皆殺しにせよと命じたら、むしろ躊躇するのは神に逆らうこと。なので、女子供はもちろんのこと、ジェリコの町で飼われていた家畜さえも皆殺しにする。これを聖絶と呼びます。
■ビルマの正義は何処に?■
例えば、ビルマでは軍事クーデターが起き、アウンサン・スーチー女史らが軟禁状態に置かれています。ここだけを見ると、軍事独裁政権許すまじ、と思ってしまいます。ところが、少数民族のロヒンギャ弾圧という点に関して言えば、現政権も前政権も、同じ穴の狢です。正義というのは相対的な基準によって、コロコロと変わりますから。フランスにとって救国の英雄であるジャンヌ・ダルクが、イギリスにとっては魔女であったように。
ところが日本には、このビルマの軍事政権に対して手製の爆弾を作り、橋を爆破するなどのテロリズムで対抗している人たちがいます。その団体に対して、笹川良一勝共連合名誉会長が創立した日本財団から助成金を受け日本財団ジャーナルに登場するなど強いつながりがある一般社団法人の某代表が、外為法違反の違法送金をしている疑惑が指摘されたところ。悪の組織に対抗するのだから問題ないと擁護する人が、ワラワラ。
■新聞記者様の論理■
自分のやっていることは法律違反だが、信念に従ってあえて破る、そのことによって罰せられても構わない。こういう覚悟がある人ならば自分も、内容の是非は置いておいても、覚悟がある人だなと思うのです。ところが日本の左派の場合は、グリーンピース日本支部がやらかした、宅配便窃盗事件でも、〝弁護側は「鯨肉を持ち出して横領の実態を告発した行為は、ジャーナリストに保障されている『表現の自由』と同等のもの」として無罪を主張〟する始末。
北海道新聞が、取材を理由に建物への不法侵入を正当化した論理と、全く同じです。新聞記者様と新聞社様は、法治主義の外に置かれる、特権階級とでも思っているのでしょう。目的の正しさは手段を正当化しません。ところが日本のリベラルどころか、国際的にもリベラル側は、自分の正義によって、手段が正当化されると思い込んでいるわけです。なぜそうなってしまうかは、下記noteで説明したので、興味がある人はどうぞm(_ _)m
■カルト化とセクト化の未来■
笹川良一勝共連合名誉会長が創立した日本財団から助成金を受け日本財団ジャーナルに登場するなど強いつながりがある一般社団法人の某代表が、座り込みに参加した沖縄の辺野古基地移転反対派ですが。代表である山城博治氏のウソ・暴言・暴力が、改めて拡散されるという事態に陥っていますが。その後、沖縄タイムス社を上げて論破され王を攻撃しています。看板記者が簡単に論破されて絶句した醜態が、余程悔しかったのでしょう。
その反基地派ですが、さらにこんな情報も。これって、やってることはオウム真理教の上九一色村サティアンで、松本智津夫死刑囚が逮捕される前、取材に来たジャーナリストに対してカメラを向け、顔写真を撮影した行為と一緒ですよね? あるいは、日本最大の暴力団である山口組の、六代目組長の名古屋の出身団が、県警の警察官の顔写真を撮影して、個人情報を探っているという話とも同じ。ただ、オウム真理教や指定暴力団でも、撮影した相手の顔をプリントアウトして晒すなんて真似は、していませんよ?
基地のない平和な沖縄をとか言いながら、これでは極左暴力集団同然じゃないすか。ゴッホの絵にトマトスープをかけた環境団体同様に、そんな団体に一般層が支持したり共感を向けるはずはないのに。運動する自分の正義に酔い、運動することが自己目的化して、大衆の支持について全く意識がないのであれば、そのような運動は、滅びはしなくてもカルト化、セクト化して終わりだと、指摘しておきます。2022年というのは10年後20年後、あるいは100年後、左派の独善的な正義とダブルスタンダードを大衆が見限った、歴史の転換点として評価されるような気がします。
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