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パンナム

パンナム、今はPAN選手権と呼ばれていますが中井先生的には全米選手権。
パンナムという呼称がパンアメリカン航空との絡みでPANに変更されたそうな。
ちなみにパンアメリカンはもうすでに破綻してましたがその後もグループ会社が商標を保有しているそうです。

このPAN選手権が来週末アメリカ、フロリダ州で開催されます。
今回はビビアーノ・フェルナンデスの柔術復帰とかいろいろありますがそれはまた別の機会に。

僕は2004年に初めて参戦して以来、2010年までは毎年参戦していました。
今のところ2014年の出場が最後になっています。

僕は毎年この時期になるとこのPAN選手権を思い出します。
自分の海外チャレンジの原点となった大会だからでしょうか?
兎にも角にもPAN選手権は僕の柔術人生において影響を与えてくれた大会です。

初めてのチャレンジは青帯を巻いてちょうど一年経った2004年3月。
場所はロサンゼルスのドミンゲスヒルズという大学の体育館でした。
当時の僕は総合格闘技を諦め柔術をやるために和術慧舟会を離れパレストラ東京という新しい環境に身を置いていました。
馴れ合わないで柔術と向き合うと決めていた30歳。当時の彼女と別れたばかりの時でした。
そのため、使えるお金があったこともあって…これまた別の機会に?

そんなちょっとだけ尖っていた自分に白井雷音君という紫帯の方が声をかけてくれた。
どういう流れだったのか忘れましたが練習後に江古田のジョナサンで雷音くん、紫帯メジオ(ミドル)の遠山くん、青プルーマ(ライトフェザー)の松田くん、卜部くん、青ペナ(フェザー)の西野くんの6人で相談、チャレンジが決まりました。

みんな初めての海外チャレンジでしたがなぜかホテルは決めずに渡航。
なぜだかは覚えていないのですが最初っから無謀な海外遠征。

ロサンゼルスに着くとカラッとした天気で僕らはとりあえずホテルを現地で探しました。
当時のIBJJFの大会は今のようにネットでトーナメント表やエントリーリストの確認なんてできません。
なので試合日の数日前に現地入り。
とりあえず泊まったホテルの周辺のスーパーで安い体重計を購入。
向こうのはポンド表記でよくわからないと思ったのも束の間、裏にキロに変えるボタンを発見して喜んでました。

次の日に会場でエントリーの確認。
会場にトーナメント表が張り出されるのを確認しなきゃいけないわけです。
この時に下北沢の格闘技ショップ、ファイトカンパニー小林さんにいいホテルを教えてもらいました。
ニューガーデナホテル。


このホテルが以後のロサンゼルス遠征での拠点となります。
なぜかというとこのホテル、ガーデナという地区はアジア人街でした。
道路を渡ったらあるスーパーには日本でお馴染みの食料品やらジャンプまで売っていました。
なぜか木曜日に来週発売分がアメリカで買えるという不思議。
ちょっと高いけど。
それにちょっと歩くと韓国サウナもありましてすごくいい場所のホテルでした。

この時の2004年のパンナムは3日間開催でした。
日本からはピュアブレッドの吉岡大さん、小野瀬さん、関口さん、柳沢さんら、トライフォースの早川さん、渡辺さんら、他にはフジメグさんも出場していました。

初日は青帯アダルト。僕は同じグループに青帯アダルトプルーマが3人いたので2日目のマスターカテゴリーでのエントリーにしました。
初めてのマスターだったと思います。
3日目が紫、茶、黒だったような。

当時のIBJJFの大会は今のようにランキングでトーナメント表が作られるわけではなかったので同門対決だけはないものの日本人対決なんていうものは容赦なく組んできました。
アメリカだからと言ってブラジル人対決はないわけもないのだから当然と言えば当然。

同アカデミーからは2名のみという条件がありました。
この時の青帯アダルトプルーマにはパレ東から松田くんと卜部くん、ほかのパレストラからも2名が出場。
つまりパレストラからは同カテゴリーに4人もいたのです。
そうなるとIBJJFが適当にチーム分けをします。
パレストラ2名、ユーキナカイBJJ2名という謎アカデミーでエントリーされてました。
松田くんは初戦がいきなり同門対決。たしかパレ池の人でした。
アメリカまで来て練習したことのある同門対決という悲しみ。
松田くんは律儀な人だったので気にしてましたが外様な自分は心の底から松田くんを応援しました。
初戦は苦戦しつつも勝ちましたがその後敗退。
松田くんは僕にとって青帯プルーマ最強でした。
その彼が負けてしまいかなり驚きました。

この日の試合後に会場で早川さんたちのグループと遭遇。
『今回はどんなパーティで来てるの?』
パーティ???
あ、面子ね。
めちゃくちゃかっこいいじゃないか!!!早川さん!
と感動したのを覚えています。

2日目は自分の試合。
試合前、めちゃくちゃ緊張してました。
が、なぜか覆面を被った選手がそのまま試合しようとして怒られていました。
ちょっと緊張がほぐれました。
ついに自分の名前が呼ばれてマットに呼ばれます。
相手がめちゃくちゃ大きく見える。
審判にマット内に呼ばれる。
ああ。でかいよー。
するとセコンドの松田くんがしきりになにかを訴えているじゃないか。
自分、シードだったからか相手を間違えていたようで違う階級の人でした。
おかげ本来の相手が小さく見えて緊張なんてどこかへ行ってしまい初戦突破。

書いてて思い出したのですがこの時、耳が湧いてしまい耳穴が塞がるくらいになってました。
試合前日に同室の西野くんが画鋲で血を出してあげましょうか?って鬼なことを言ってきて断りました。
決勝は耳が痛くないように試合したんです。
片襟片袖が見事に炸裂して優勝しました。



すると試合後に会場で知らない会う人会う人に「コングラチュレーション!」と声をかけられるアメリカ。
めちゃくちゃ嬉しかったです。


橋本さんのリバーサルマガジンにも載りました。
ガロじゃないけど。

帰国すると一気におめでとうメールがきていて「勝つとみんなが喜んでくれる」という感動を覚えました。
よくよく考えてみたら大きな大会で勝った(優勝のこと)ことはなかった。

この大会がそういう意味で柔術だけでなく自分の人生の『生き甲斐』になりうるものを見つけたタイミングだと思います。

アメリカの広い空がいろんな意味で可能性を示してくれた気がしました。

けど、この時はまだなりうる可能性があっただけでそれが成長するのはまた後のことです。

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