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【日記2023/6/3】ふっとい鱈を買っといたら

・2700字弱


・ロルフのレアチーズケーキという商品が100円で売られていて、しかも普通にレアチーズケーキとして美味しかったため、大丈夫か!? となった。

 いまの物価、100円を得た所で何ができるんだと思ってしまう。




・国会議員の赤松健氏が“過去のゲームの合法的なプレイアブル保存”について国会で話し合ったと報告。あらゆるゲームを残す試み着実に進む

・すげ~。”過去のゲームの合法的なプレイアブル保存” とかいう法的にも実務的にもすごい難しそうな取り組みの、実現可能なラインを着実に探っている。

今回、赤松氏は自身の公式ブログにて、この取り組みの実現に向けた経過を報告している。まず同氏は、プレイ可能な状態での過去のゲームの合法的保存をもっとも高い可能性で実現できるのは国立国会図書館であると言及。その理由として「ゲーム会社と違って倒産の危険性がない」「納本制度によりゲーム会社からソフトを納めてもらえる」「一般人からのゲームソフトの寄付も可能」「一定の場合、権利者の許諾なしに著作物を複製できる」との見解を挙げている。なお国立国会図書館における納本制度では、国内で発行されたパッケージ版ゲームソフトが対象となる。

一方でこの取り組みには課題もある。赤松氏は、ゲーム機やゲームソフトが故障などの経年劣化により使えなくなることを課題点として指摘。特にゲームソフトの経年劣化については“喫緊の課題”とされている。同氏はこの問題への対処として「エミュレーターの使用を視野に入れる」「経年劣化に弱いメディアから優先的に近代的なメディアへのマイグレーション(データ移行)をおこなう」「コピープロテクトの合法的な解除をおこなう」ことが必要だと説明している。

 すげー! すげー!

 確かにな! ゲームソフトだって会社が倒産してソフトも失われたら歴史から姿を消してしまうんだよな!

 31世紀のゲーム歴史学者は「なんで21世紀はこんなに情報科学が発展してるのにゲームのデータが残ってないんだよッ! 実機とカセットあるいはエミュレータとソフトプログラム残せよッ!」て言うよな。31世紀の人間からしたら、キリストの誕生→平安時代→ゲーム黎明期→現代がだいたい等間隔なんだよな。気が狂う!

 以前からちょくちょく書いてるけど私は保存癖があるので、そういう話題にゾクゾクしてしまう。Flashゲームも国立国会図書館で保存してくんないかな~。

 私は、好きだったFlashゲームをたまに開き、.swfファイルを保存して帰ることがあるよ。失われたデータは二度と戻ってこないから……




・私の家にはテレビがないのだけど、薬局の待合室でテレビ番組が垂れ流されていたので久しぶりにテレビを観たら、改めて感嘆したことがあった。

・芸能人たちは一挙手一投足、一言一句が、他人に見られていることを想定した言動をしている。カートゥーンみたいだ。一般人とは一線を画した、自分がキャラクターであることを自覚したエンターテイナーの言動だ。

・バラエティ番組を見ていると、「自分はこれになれるか?」と脳内でシミュレーションしてしまう。別に芸能人を目指しているわけではないのだけど。

 例えば口を縦に開けて噛まずにはっきり喋り、オーバーに表情を動かし、カメラから見やすいモーションで動いたりといったエンタメ能力(エンタメ能力?)が私より高い人を見ると、若干の嫉妬がある。




・パズドラやキャンディクラッシュのようなゲームが「 #パズルゲーム 」にカテゴライズされている現状に憤りがある!

 ジャンルに名前がつくメリットは主に、客が「その作品が自分の好みに合致しているかどうか」をジャッジするためであり、転じて、検索のためだろう。ジャンル名がなければ、未視聴の映画が、他のどんな映画と類似しているのかがわからない。

 仮にミステリ映画が見たくて「ミステリ映画」で検索してサスペンス映画ばかり出てきたらイライラするだろう。ミステリとサスペンスは、部外者からしたら同じに見えるのかもしれないが、それらは客層が全く異なるのであって、一緒にされると検索がノイズだらけで不便だ! と憤る人もいるだろう。それと同じなのである!

 私がパズルゲーを好む理由は、演繹的な思考によって一意に答えが決定し、しかも毎ステージ違った閃きを求められるという美しさにある。

 が、パズドラやキャンディクラッシュなどは、解くプロセスが毎回同じ問題が出るし、正答が存在せず、無限の選択肢の中から利益が最大になる妥当な選択肢を選んでいるだけなので、パズルとは客層が異なると思う。そういうのは、テトリスやぷよぷよと同じ「落ち物ゲーム」にカテゴライズした方が適当である! 「落ち物パズルゲーム」じゃないぞ!



#教養

「教養」とは学歴のことではなく、「一人で時間をつぶせる技術」のことでもある。

↑この名言にはかなり同意している。勝手に太宰治の言葉だと思っていたけど、中島らもさんの小説の一文だった。私が言ったことにならないかな。

 タモリさんは、「教養なんていうのは、あるにこしたことはないんですよ。なんであるかっていうと、遊べるんですよ。あればあるほど、遊ぶ材料になるんです、教養っていうのは」と言っている。

 閑な読書人というエッセイには、「教養とは、お金がなくても暇つぶしができること」とあるらしい。読んでないけど。

 うるせえ! 名言なんて、納得性があれば出典不明でもいいんだよ!

・しかし上記の名言には反例も思いつく。

・「教養→一人で時間をつぶせる技術」という定義だと、一人でドライブしたりテーマパークへ行ったりパチンコを打つ技術も教養に入ってしまうけど、それは教養というより単に一人の時間が好きな人間であるというだけでは? と思う。(あくまで引用元の小説の文脈から切り離して名言として見た時の話だが)

・「教養→お金がなくても暇つぶしができること」という定義だと、ソシャゲを無限にしたりネットでレスバしたりアンチ行為をしたりするのも教養に入ってしまう。


・「趣味を続けるうちに積み重なっていく知識理解やノウハウは教養である」という名言案(名言案?)を思いついたのだがこれはどうだろうか。ラウワン行ってもカラオケ行っても観光をしても積み重なっていく教養はあるが、もっと積み重なる趣味があるよねという話。しかしパンチが弱いな~。

・無教養を定義した方がやりやすい。「一人で時間をつぶす技術がない人を、無教養と呼ぶ」だと違和感を覚えない。思いつく限り最もしっくりくる一文だ。ネットの皆さん、今日からはそれを流行らせてください。



・おわり

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