【8/25】醤油を見せるよ I will show you
・1600字強。
・朝、段ボール部屋の段ボールを全部始末した!頼まれてもないのに!(もぐぐうままは片付けのことを、頼まれてやるものだと思っているようです)
・いつもは「よし!片付け、やるぞ!とその前に飯でも…」てな感じで”””覚悟”””を決めなければ片付けができないのだけど、今日は「意識失ってて、気づいたら段ボールが全部縛り上げられてたんだがw」くらいの感覚だった。
・「あ、ちょっとそこの醤油とって。ついでに片付けも」「はーい」くらいの感覚だった。
・文字通り朝飯前だった。
・でも、もうやりたくないです。終。
・病院
・病院に行った。私の原因不明の痛みにようやく疾患名がつくるのかと思ったが、医師からは「どこにも異常は認められない。データ上は健康体」と告げられた。そこには深い深い絶望があった。痛み止めで一生ごまかし続けるしかないのか。
・疾患名がつかないから社会福祉の恩恵にあずかることもできない。
・万策は尽きたので、あとは万札が尽きるのを待つのみ。選択肢に死が入ってきた。
・逃げ場なし。
・私が今、急に一兆円を渡されても、幸福になることは一生ない。
・初代ポケモンの毒状態のように、歩くたびにスリップダメージが入り続ける。金でも貰わないとやっていけないような痛みと共に生きているのだが、貰えるどころか、治療費を一生取られ続けるらしい。
・DaiGoの優生思想に則るなら、私は弾かれる側の人間かもな。
・運営!詫び石!
・「映像研には手を出すな!」第1話感想!
・ヤバだった。芸術…
・たまに妄想の世界に入るのだけど、「妄想の映像化」がすごかった。妄想が映像化されているなぁ…
・小説でもアニメでも漫画でもなんでも、鑑賞者の納得と共感を最優先に作るべきだと思っている。例えば小説内で「大気中の水分を凍らせて剣にした」という描写があったとして、読者の多数が「なるほど!」と思えば良作、読者の多数が「ありえんでしょ。やっても棒状じゃなくて球状に凍るだろうし、そもそもどれだけの水分が必要だと思ってんだよ」と思えば凡作というわけだ。鑑賞者の「ありえんでしょ」を排斥しながら作品を作ると当然作中でやれることは限られてくるのであって、その限られた共感の範囲内でどこまで非現実的なことをやってのけるかが勝負だと思っている。だからこそ「事実は小説より奇なり」が発生するんだよね。小説読んでて「6/18、北海道札幌市で全裸男と刃物男と熊が同時発生した。本当に偶然である」なんて書いてあったら「んなわけあるかー」っつってゴミ箱にダンクする。(現実では起こっているのだが)
・話を戻すけど、映像研1話は主人公が未来少年コナンを見て育ったオタクであり、「設定オタクあるある」の解像度が高いお話だったので”””深い”””感情移入ができた。これは設定オタクに対してすごい鋭い角度で刺さるけど、パリピのギャル男に見せても「よくわかんねー。それよりマジで、君の名は。見た方がいいよ」って返事が返って来ると思う(パリピのことを何だと思っているんだ)
・この前バズってた「ルックバック」もそれだ。刺さる人と刺さらない人がTLで綺麗に割れてなかった?
・これは断言できるのだけど、作者の原体験とか人生そのものがフィクションに落とし込まれた、主人公=作者であるような自分語り作品って確実に共感力が高くなる。作品を作る時って「このキャラはこういう心情になってこういう行動を起こすだろうな」って想像すると思うのだけど、それってあくまで想像なので、解像度の高さには限界がある。しかし自分の体験をそのまま落とし込んだような作品は、起こった事実のリアリティも、それに対する主人公の心情描写のリアリティも最大になる。リアルなのだから。
・人生で強い怒りを覚えたとき、悲しみを覚えたとき、疑問、恨み、妬み、爽快感、嬉しさ、驚き、不安、安心、儚さ、その他名前のついていない複雑な感情を覚えたとき、メモるべきなのだ。
・おわり
・水の水煮とゴマのゴマ和え
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