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笑いの役割/よくないねボタン

・2500字強



・漫才などにおける「やっちゃいけないことを、やる」というギャグにおいては、観客の笑い声がついて初めて形になると思っている。

 例えば、診察室のコントがあったとしよう。医者役のボケが「病名は こつそそしょ... こつしょしょしょ... こつしょ... こちゅしょ... えー 癌です」のような、問題のある発言をしたとき、それをツッコミが「諦めるなよ」「骨粗鬆症だろ」などとツッコむことで何が問題なのかを主観で顕在化させ、観客が揃って笑うことでその主観が客観になる。この3要素は、どれかが欠けるとパンチが弱くなる。

・コロコロのギャグ漫画では、ギャグは投げっぱなしでなく、ツッコミが入ることが多い。ツッコミによって「これはやっちゃいけないことなんだな」「シャインを社員と聞き間違えたらダメなんだな」「人は叩かれると痛がるんだな」などという世の中の基本的な物理法則が、咀嚼しやすい情報になる。ボケっぱなしでは、そのボケがどのように問題なのかが子供には理解しづらい。

・コロコロのギャグを大人が見ても退屈に感じるのは、もう既に理解しきっている問題ばかりだからだろう。「人前でうんこを出してはいけない」「退散というのは、鯛が3匹という意味ではない」「他人を殴ると殴り返される」そんなことはもうわかりきっているから、大人が読んでも新鮮味に欠けるのだろう。


・主に小学校の頃、クラスの問題児が問題を起こしたり、奇人が奇行に走ったりして、それを皆が笑うという構図のシチュエーションが発生したことが多々あったのではないだろうか。

 問題児が問題を起こし、奇人が奇行に走り、それを皆が笑う。笑う事によって「これはやってはいけないことだよね」という価値観を皆と共有し、かつ、自分はそうはなるまいと価値観をアップデートする。皆そうやって少しずつ学習していくのだ。

 そこには大なり小なり見下しの感情があるのは否めない。しかし「笑いというのは他人を見下すときに発生するので、問題児がいてもそれを笑うのは下品な行為だ」という考えは、善悪を理解しきって、笑うという行為を客観的に考えられるようになった大人だからわかることだが、まだ善悪を理解している最中の子供にはわからない。

・もしかすると、大昔から「問題児」は人間の正常な発達に欠かせない要素なのであって、一定確立で問題児が発生するのは人類のあるべき姿なのではないか? 人類がいくら進化してもそういった問題児の存在は必要なのであって、なくなることはないし、なくそうとすべきものでもないのではないか? などと最近グルグル考えている。



・話は変わるけど、バズツイにおける「いいね」も笑いに近い役割を持っていると思っている。

・ツイートをバズらせたいときは「自分はこう言いたい」というよりも「他人がこう言っていて、自分はこうリアクションした」という構文にした方が、読解力のない方々にウケがいい。

 その文章を読んで、「悲しめばいいのか」「怒ればいいのか」「喜べばいいのか」「驚けばいいのか」「しみじみと共感すればいいのか」「どう咀嚼するのが正解なのか」がわかりやすい。

 そしてそれがバズっていると、それが客観性になる。

 「マックの女子高生/ツイート主/いいね数」というのは、それぞれ「ボケ/ツッコミ/観客の笑い声」と同じ役割である。約6秒で消費されては忘れられていくようなファスト・バズツイにおいては、その3条件を満たしていることが黄金比率なのではなかろうか。


・ファボRTというのは拍手のようなものだと思う。ステージ上ですごい人がパフォーマンスをしたとき、皆が拍手することによって「主観的に見てすごい人」から「客観的に見てもすごい人」にアップグレードされるのだ。

・バズっているツイートがあったとき、それが例え「サウナって体に悪いらしい」程度の根拠不明の抽象的な情報であったとしても、大量に拡散されているというだけで客観性を帯びているように錯覚する。

 客観とは主観の集合なのだ。例えそれが「論理的思考力も、情報リテラシも、学識もないネットの住民ども」の主観の集合であったとしても、客観は客観だ。


・もしTwitterに「よくないね」ボタンがついたとしたら、その客観性の錯覚が剥がれることもあるのではないかと思っている。

 例えばの話、「いただきますすら言えない人って、人として尊敬できないよね」という旨のツイートが1万いいねされていたとしよう。

 これによって「あ、いただきますが言えないと1万人に嫌われるんだ」という錯覚をした人々は、価値観をアップデートした上で、自らもいいねすることだろう。

 実際には「その意見に反発する人」も潜在するはずなのに、その人数は無視されて、共感する人の数ばかりが視覚化されてしまっている。もしTwitterに「よくないね」ボタンがあったら、そのツイートに2万よくないねがついていたかもしれないのに。

いただきますすら言えない人って、人として尊敬できないよね(1万いいね/2万よくないね)

 ネットから「そういう数字」が消えたら、善悪がわからなくなっちゃう人もいっぱいいるのだろうと思っている。

 善悪どころか、何が面白いのかすらわからなくなる人もいるのだろうと思っている。流れて来たツイートが何RTされてるのかわからないと、それが面白いのかどうかわからなくなる人。


・アイドルって、何千何万というファンに応援されて、手の届かない雲の上にいるという背景込みで愛されているのだと思うのだけど、合ってるかな。アイドル好きじゃないからわからんけど。

・例えば平沢進ってアイドルいるじゃん(もぐぐうままは平沢進のことをアイドルと認識しています)。平沢進が仮に、フォロワー30人くらいのアカウントで細々と曲を発信しているだけのしがないアマチュア作曲家だったとして、インターネットに転がってる夢の島思念公園(300再生)を君が偶然見つけて聞いたとして、それに感動して、愛することはできるか?

 や、別にできなくてもいいんですけど……



・引き続き質問を募集しています


・次回はシンウルトラマンの感想を書きます。

・おわり

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