【1/18】用語使ってもようござんすか
・5200字強。
・グランドホテルを観た
グランドホテル方式(=群像劇を描く手法)という用語ができているくらい、現代の群像劇の礎になっている作品らしい。1932年の作品というだけあって画質とか映像技術は低いし、とてもじゃないが見てて疲れる。「会社経営」「速記者」「列車」「バレリーナ」といった単語は現代日本のそれとは多少違っていたりするのだろう。私は1932年当時のベルリンの文化はわからないので、その90年差のジェネレーションギャップにも疲れる。疲れるのでオススメはできないのだけど、しかしそれをギリ上回る確かな面白さがあった。
群像劇の歴史は詳しくないけど、群像劇という手法が確立されていなかった時代にこれがポンと出たというのならすごいな。模索してますよ感のない、最初からよくできた群像劇に見える。(まあ調べたらこの作品にも原型になった作品はあるみたいだが)
優れているからこそ名前が残り、2022年にも新たな視聴者が発生しているのだ。生きた化石だ。オウムガイだ。
はえ~~~~
・そういえば、私が自分史上一番か二番目くらいに好きな映画「パコと魔法の絵本」もグランドホテル形式だったな。登場人物全員がそれぞれ違った身分で、違った目的で、違った悩みを抱えていて、最後には綺麗に全てが解決して一枚絵になる気持ちよさがあった。映画グランドホテルは別に「悩みが全部が解決する」というカタルシスはなかったけど、しかしエモいことに代わりはない。
・太宰治さんのロマネスクもたぶんグランドホテルみたいなことがやりたかったのだろうなと思い出した。私は中学生の頃にこれを読んで甚く感銘を受けた。
この小説は3章で構成されている。最初に「仙術太郎」という仙術の天才の人生が描かれ、2章目に「喧嘩次郎兵衛」という喧嘩の天才の人生が描かれ、3章目に「嘘の三郎」という嘘の天才の人生が描かれる。3章目の最後、文章量で言うと全体の9割が終わったあたりで、嘘の三郎が居酒屋に入ったらそこにはその2人がいた。3人は赤の他人だがお互いに興味を示し、やがて嘘の三郎が「こうして一緒に朝から酒を呑むのも何かの縁だと思います」と口を切り、お互いの人生について話す。3人とも自身の力に溺れ、それゆえに人生を失敗して生きて朝から酒を飲みに来ている人間なのだと理解すると「おれらマブダチでいようぜ」という空気になり、嘘の三郎が「今挙がった3つの生きざまを小説にして世の人間に見せてやろう」と言ったあたりで幕を閉じる。余談だが、その噓の三郎というキャラの人生は、どこか太宰本人の人生と似ている。
このロマネスクもグランドホテルみたいなエモさを醸したくて書いたのだろうなと思った(違ったらごめんね。許してね太宰ピ)。異端者同士だがどこか共通点のある3人が出会えたのは本当にただのいたずらな偶然である。3人の人生を読者に追体験させたあと、ほんの偶然でその3本の線が交わった時に、その果てしなさを覚えられるように書いたのだろうな。3人の人生をそれぞれ別々の一本の短編小説にしてしまってはダメなのだ。
(あと、アニメ「それでも町は廻っている」も観てくれ。皆。最終話である「十二番地 それ町」、よいから……非常に……)
・なんだろう、グランドホテルのエモさって言語化が難しいな。
「実際には5人の登場人物にフォーカスが当てられてるだけだけど、その5人のようにグランドホテル内で因果が交錯する人間たちというのはこれからも発生する(映画の最後はその5人全員がバラバラに解散し、それと入れ違いにまたキャラの濃そうな人物がホテルに宿泊してくる所で終わっているの)という、想像も及ばないほどの背景の果てしなさ」とも言える。
「当時は気軽にスマホで連絡先を交換したりもできない時代だったので、基本的に別れをしたらもう会えないという一期一会の不可逆さ」とも言える。
「偶然という力がたまたまその5人の人生を交錯させたが、彼らがホテルに泊まる日時が一日でもずれていたらまた別のドラマが発生していたのだという儚さ」とも言える。
まとめると、グランドホテルのエモさとは、果てしなさであり、不可逆さであり、儚さである。
・コレすき
・今こうしている間にも、サハラ砂漠の砂はひとつぶひとつぶが確実に質量を持って存在していて、摩擦しながらそれぞれが別個に動いてる……と思うと、なんかわからんけどかなりゾッとしちゃう。果てしね~、と思って。
コレ。
・週にいっぺんくらい、映画を観て友人と感想を話し合っているのだけど、映画の観方とか楽しみ方って人によって本当に根本的な所から違っていて、それによって「好み」が生じるのだろうなと思った。
・映画の好みって、結局のところは「波長が合うか否か」でしか決まらないという節はあると思う。
私の思う波長という概念は説明するのが難しいが、こんな感じだ。
映画においては、展開とかテンポが遅すぎると退屈だし、早すぎると突拍子がない話になる。登場人物が多いと覚えられないが、少ないとお話の自由度が低い。ご都合設定は多すぎると無秩序になってしまうが、少なくするほど現実寄りのお話しか描けなくなる。バトル時に誰かが怪我をしないと緊張感は出ないが、かといって大腸をぶちまける表現までやってしまうと不快かもしれない。「愛してるよ」というセリフは現金を裸で渡しているような野暮さがある(=ディエゲーシスすぎる)かもしれないが、かといって「月が綺麗ですね」くらいミメったセリフにすると文学的すぎて鑑賞者が読解できないかもしれない。
そういった可変的なパラメータが無数にあって、そのパラメータの塩梅が自分の好みに合っているほど映画を好きになるのだ。それが波長。
とある作品を好きな理由をなんだかんだと言語化しても、結局その「波長がが合っていたから好き」という気持ちを言語で裏付けようとしているだけだ。
私は、とある映画のことを「鑑賞者おいてきぼりで作者がやりたい放題やってて最高の作品」と評することもあれば、別の映画のことを「鑑賞者おいてきぼりで作者がやりたい放題やってるだけの駄作」と評することもある。しかし私はその二つの発言を矛盾だとは思っていない。波長が先、言語化が後だからそうなってしまうこともある。
・このブログではたびたび自分の映画の好みについて言語化しようとしているが、まだまだ言語化できていないことがあるな。ごちゃごちゃ言っても結局は「波長」なんだけど、まあごちゃごちゃ言わせてくれや。このブログはそもそも自分の思考を言語化して整理するために書き始めたのであって、君らに見せるために書いているわけではない。
・何見てるんだよ
・おい
・見せもんじゃねえぞ!
・ブラウザバックしろ!!
・
・
・
・そろそろ帰ったかな?
・納得性
私はかなり映画に納得性を求めているので、他人が楽しそうに見ている映画でも、細かい矛盾点や違和感に気づいては「そうはならんでしょ」と思い、楽しめないことが多い。創作物である以上、矛盾点や違和感は大なり小なりあるが、それがあまりに大きいとそこで見るのを辞めてしまうことも多い。
その私の偏食的な拘りはほぼ短所とも言えるかもしれない。その拘りがあるが故に、世の映画の8割がたを楽しめないのだから。
過去の私もそんなことを言っていたな。
・世には「貧乏舌」という卑罵語がある。舌が肥えていないから、何を食べてもおいしいと言う人間のことを差す。しかしそれは安い食べ物を食べてもまずく感じないということであり、舌が肥えている人間よりもある意味、幸福ではある。
・これは「笑い」にも言えると思う。お笑い番組を家族で見ている際、どんなに聞き飽きたネタを聞いても笑う家族に対して、別の家族が「お前は笑いのツボが浅いな」と小ばかにする場面、あるあるじゃないだろうか。笑いを生産する側に向いているのは後者なのかもしれないが、笑いを消費する側に向いているのは前者だ。
過去の日記より引用。そういうことだよね。「波長」のストライクゾーンは多い方が何でも幅広く楽しめるよね、ということだ。
(まあ、偏食は治せるわけでもなければ、治す気もないのだけど)
その、私が言う「納得性」という概念は、辞書で「納得性」と引いたら出てくる記述以上の意味を持っているのだけど、どういう意味なのかと問われると、言語化が難しい。
「がんばれ!諦めるな自分!」
ど~言ったもんかね。
「がんばって言語化しろって!いつかなんかの役にたつよ!」
ちょっと模索させてね。
1.例えばカブトムシが人間と通じ合って人間と助け合う描写があったとしたら、納得性がないなと思う。カブトムシは家族も群れも成さないので、慈愛とかコミュニケーション能力とかは無い方が生きやすい種族だし、たぶん実際ないだろう。そういう描写を見かけると、作者の都合のいいように作られたハリボテのキャラクターだな~と思う。
他にも、例えばマゾキャラとか中二病キャラとかオカマキャラとかってギャグとして使われることも多々あると思うのだけど、その描写が雑だと、「作者はその程度の観察眼でマゾや中二病やオカマのことを認識しているのだな」と思う。ギャグとして消費されるためだけに雑に奇行を繰り返すキャラ、単純におもしろくない。
2.主人公の感情的な説得、あるいは勇気ある行いによって、それを見た大衆が感化されて物語が好転した場合、納得性がないと思う。そこって作者の裁量で左右できてしまうよねと思う。情報量のある説得ならわかるけど。
↑この辺の説明が難しい。結局のところ全ての作品って作者の都合のいいように作られた世界観で、作者の操り糸通りにキャラが動いているのだけど、その作者が透けて見えるかどうかは作品によって決定的に違う。結局の所キャラの心情がどう動くかなんて作者次第なのに、キャラが活き活きとしている作品では作者の糸が見えない。
3.なんらかの舞台装置によって物語が動くとき、その舞台装置はなぜそこにあるのかが伺えないと納得性がない。例えばこの前観た作品だと、死後の世界が「近代的な建物の一室」だったので、「人類に建築技術がない頃の死後の世界ってどうなってたんだ?」と思った。
4.巨大化するキャラを見ると「質量保存の法則を守りなさいよ」と思うし、切られた腕が無限に再生するキャラを見ると「食糧難が解決しちゃうでしょうが」と思うし、人間が巨大ロボをパンチで倒したりしてるのを見ると「巨大ロボを倒す作用と同じだけの反作用があるから、パンチした側は後ろに大きく吹き飛ばないとおかしいよ」と思ってしまう。
5.物語の全てのイベントが必然で固まっていて欲しい。いや、現実世界では偶然ばかりで動いている節もあるけど、それでも作り話なのだから「偶然」が全くないくらいには全てのイベントに理由があって欲しい。必然こそ納得性。
こんな所かなァ~……まだあるのだろうけど……
まあ、創作には王道はあれどルールはないから、納得性を捨てるデメリット以上のメリット(面白み)があるなら積極的に納得性も捨てていいと思う。なんなら私の好きな映画にも「ここはご都合だろ」と思う展開も多々あったりするのだけど、まあ脚本からその部分を修正してしまうとそれ以上の面白みも捨ててしまうことになってしまう場合には目を瞑ることにしている。
みたーいなことを言語化しようと模索していたら、通話中のフォロワから「既存の映画に偉そうに上から目線で講釈垂れてるけど、そういう君はこれ以上に面白い脚本が書けるわけではないでしょう」と指摘された。これは前々から自覚していたことで、反論はない。それはネットでは「ほならね理論」と呼ばれている詭弁ではあるのだけど、まあおっしゃる通りではある。
なんせ私のアイデアはまだ全部メモ帳に眠ったまま日の目を浴びていないのだ。創作者たちとは同じ舞台にすら立っていない。私が面白いと思っているものは全て私の独りよがりかもしれない。
私に「なにくそ」と思わせてくれたフォロワへは、皮肉でもなんでもなくシンプルに感謝している。おれが漫画を描いたらバカクソ面白いからな。見てろよ。やるぞ。おれは。おれはやるぞ。やるぞやるぞ。
(言い訳でもなく、単純に背中が病気すぎてずっと創作の手が止まったままであるという事実に怒りがある。頭は燃えているのに体は凍っている。許さないからな。宇宙に、物理法則に、神に対して怒りがある。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。許さないからな。)
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