身だしなみインフレ―ション


・2500字弱


・多くの人は、一日に5回も風呂に入ったり着替えたりしないし、週に5回も美容室にはいかないだろうし、月に5回もスーツを新調したりはしないだろう。誰しも、時間/金/環境/ワーキングメモリなどの資源と相談しながら、合理的なラインで身を嗜むのだ。

 その合理的なラインには個人差がある。身だしなみへの理想が比較的高い人間というのも一定数いる。他人より魅力的になるために個人で努力して自分を磨きたいという趣味を持つことは多いに結構だし、各々が自由に自分を磨けば良い。

 しかしその皆で意識を共有し、「常識的な身だしなみのライン」を仮想し、そのライン未満の者に「君は常識的でない」などと排他的に扱うのは、これは価値観には多様性があるという事実を理解していないとしか言いようがない。端的に言って知能が低い。


 身だしなみの水準というのは絶対的に決まるものではなく、平均的な庶民のもつ資源(時間/金/環境/ワーキングメモリ)によって相対的に決まる。平安時代では清潔とされる庶民を現代の日本に連れてきても、現代の水準では不潔かもしれないし、現代で不潔とされる庶民を平安時代に連れて行っても、そちらでは清潔とされるかもしれない。「身だしなみの水準は絶対的でなく相対的に決まる」とはそういうことだ。

 そして、自分の身だしなみが平均水準に達しているかどうかを確かめるために他人と情報共有する行為というのは皆がやっていることだろう。そして自分が平均水準に達していない点があることがわかったら、平均水準に達するように身だしなみを整えるのだ。

 しかしそれを全員がやったら、どんどん平均水準が上がっていくのは必然だ。インフレーションが起こる。その平均水準は、全員が自分の持つ資源を、生活に支障が出ないギリギリまで消費するまで上がり続ける。ある人は毎朝1時間かけて顔を作るかもしれないし、ある人は美容室で毎月2万使うかもしれないし、ある人は毛玉ができたからという理由で服を捨てるかもしれない。

 仮に、毎朝の身だしなみに1時間かけるAさんがいたとしよう。今後、技術の発展によって庶民の平均労働時間が減り、可処分時間が増えたとしたら、Aさんは身だしなみに毎朝2時間や3時間かけるようになるかもしれない。そして皆がそうすることで身だしなみの水準は際限なく上がり続ける。およそ知的生命体のやることではない。

 以上が、私が日本に核爆弾を落とす理由である。



・例え話

 駅前で全身タイツの人間が歩いていたとする。その人は注目されるためにそうしているわけではなく、生活する上での合理性があって全身タイツを着ているものとする。フィットするとか、肌が乾燥しないとか、熱が逃げないとか、何らかの病気の治療の一環だとか、痴漢されるのを防げるだとか、ともかく理由は本人にしかわからないが、本人にとっては何らかの合理性があってやっているのだ。

 しかしそれを見た周囲の人間は、そいつを警戒し、近寄らないようにするのではないだろうか。

 その理由は、内心で「そんな格好で外を歩く人間の前例を見たことがない。そんな標準的ではない格好で歩けば好奇の目で見られるのに、それが理解できない人か、あるいは理解した上でその格好をしている人であり、どちらにせよ頭のネジが外れた人だ」と思っているからだろう。言語化しないまでも、なんとなくそんなことを考えるはずだ。

 人間はしばしばそういう推測をする。「常識を少し外れてはいるが合理的な行動」をしているだけで人格まで疑われるような、「おかしいと思われる行為をしているからおかしいんだ」という推測だ。

 そういう共通認識があるから、人間はしばしば好奇の目で見られないために自分の思う合理を押し殺して行動することがある。常識共有能力がない人間だと思われたくないのだ。

 例えば、私は散髪に数千、数万という金を毎月のように払うのが非合理だと思っているので、定期的にバリカンでスキンヘッドにしてウィッグを被って外出していた時期があった。しかし今の話に共感した人間が10人いたとしても、実行する人間は1人でもいるだろうか。好奇の目で見られないために自分の思う合理を押し殺すとはそういうことだと思う。


・例え話

 ファッションの流行に聡い人間はご存じかもしれないが、ファッションの流行は自然発生するというより、色彩情報団体やファッション情報誌などによって作られる。雑誌が「このシーズンはこれが流行る」などと断言してまもなくすると、各メーカーが示し合わせたように似通った服を出す。流行が先、需要が後なのだ。

 ファッションにおいて、人間が「作られた流行」を追いたがる理由は、それが自分には常識共有能力があることを証明するための手段であるからだと思っている。しかしこれはファッションに理解がない私による憶測なので、ファッションに理解のある方からの反論があればぜひ伺いたい所だ。



・なぜ就活の面接にサンダルで行ってはいけないのか? サンダルで歩いた所で、誰に迷惑がかかるわけでもなし、仕事の効率が落ちるわけでもないのに、なぜか? その理由は、「面接にサンダルで行くと好奇の目で見られるということがわからない人間」からは、共感能力の低さと常識共有能力の低さが伺い知れるからに他ならないだろう。

・「ご祝儀は奇数である必要がある」「香典に新札はNG」「刺し箸はNG」「徳利は注ぎ口を使って注いではいけない(?)」などの、文化によって意味づけられたマナーが存在する理由は、それによって常識共有能力が計れるからだ。

 そんな実益も実害もない、文化によって意味づけられたマナーや身だしなみを守ることで、「自分には常識共有能力がある」と証明するためだけに必要以上に時間と金とワーキングメモリーを消費する人間どもは、おそらく必死になれる学問や芸術活動を持っていないのだろうと思っている。よほど暇を持て余していないとそんな些細なことで人の優劣を決めたりしないだろう。野蛮である。およそ知的生命体らしくない。火星に帰りたい。


・おわり

 

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