「スメルズライクグリーンスピリット」感想〜ど田舎をサバイブする若者たちのジレンマ〜
*ヘッダー画像は、「Jörg PeterによるPixabayからの画像」を使用
「スメルズライクグリーンスピリット」というタイトルを聞いて、昭和生まれの人間、あるいはロックをそこそこ聴く人であれば、1990年代のアメリカにおけるグランジ(ロックのジャンルの一種)を牽引した、超殿堂入りバンド、Nirvana(ニルヴァーナ)の名曲「Smells Like Teen Spirit」が真っ先に頭に浮かぶのではないでしょうか。
時代設定も、ひと昔前っぽいですよね。昭和の香りがあちこちに漂います。
本作タイトルは、正にこの名曲を文字ったものですね。
1巻、2巻も「SIDE A」と「SIDE B」となっており、アナログレコードのA面・B面のような構成になってます(*【一応補足】アナログレコードは、その両面に音楽を記録できるため、この表面、裏面のことをA面、B面といいます。映画とかでレコードプレーヤーのレコードを裏返してセットすると別の曲が流れ始めたりするシーンがありますよね)。
こちらの「Smells Like Teen Spirit」は、Nirvanaのボーカル・ギターのカート・コバーン(彼のドラマティックな生き様についても知らない人は、ぜひググってみてくれ!!)によると『いわゆる「クールな」若者たちを皮肉ったもの』とのことらしいですが、
本作「スメルズライクグリーンスピリット」は「Teen」から置き換えられた「Green」の示すように、まだ「未熟」ともいえる中学生たちが閉塞感漂うど田舎(「緑」)でもがく様が描かれます。
「ど田舎の閉塞感」がほんと見事に描かれていまして、同性愛に対する偏見、シングルマザーに対する偏見、学校でのいじめ、マジでくだらない噂話があっという間に広がる、学校がやけに遠い、といったど田舎あるある(わたくし自身は決してシティーガールではないですが、ど田舎で暮らした経験もないので、あまり実感はない)が出てくる出てくる。
特に「ど田舎の陰湿で閉塞感あふれるコミュニティー」(野菜を物々交換するような綺麗な面ばかりではない。)が、ほんと恐ろしいリアリティーをもって描かれてます。
そんな田舎のいち中学生、三島くんは女装したらほとんどの女性より綺麗な美少年。「ど田舎にたまにすごく綺麗な子がいる」ってやつです(ただし男だ)。辺境に咲く一輪の花ってやつです。彼は、自覚的にゲイであり好みは髭マッチョという割と典型的なゲイ。
そういえば、ど田舎にすごい可愛い男の子がいる、っていうの井手上漠くんがいましたね。井手上くんのことはじめTVで見たとき、「スメルズライク〜」じゃん!!! って勝手に思ってましたからね。
そんな三島くんは、当然の成り行きか、同じ中学の同級生たちにいじめられるのですが、そのいじめの先鋒を担いでいたのがクラスメイトの桐野や夢野。桐野はサッカー部のクールなイケメン、とスクールヒエラルキーのトップクラスに鎮座するような奴で、夢野は同じくサッカー部のハーフのイケメンでややお調子者といったところ。
この2人が三島くんをいじめるのには色々と彼らの中で思うところがあるようで、それが段々と明らかになっていきます。
三島くんが女の子だったら、まんま「2人のイケメンが私を取り合ってどうしましょう★☆★」テンプレ少女漫画って感じすね。
この三島くんを中心に、桐野、夢野は素の自分や、自分たちの素直な気持ちと、世間体とか家族との関係とかとのジレンマにどう向き合っていくのか、その辺りが主軸となってきます。
青春BLではあるんですが、同性愛者としての社会におけるジレンマを、特に家族との関係という文脈で語る傑作です。
以下、ネタバレありますので、既読の方のみどうぞ!!!
実は、桐野は三島のお仲間で素になるとお姉言葉が出るタイプのゲイでした。三島をいじめていたのは近親憎悪とか女性らしい姿形への嫉妬とか。
他方、夢野は実は三島のことが気になっており(恋愛的に気になっており)「好きな子をいじめる」という小学生男子のやるやつをやっていただけという精神年齢の低さであったという。
いや、きみ、気になるからって、いじめは許されないぞ???
本作で出てくるいじめ(強制的に断髪、ボールをぶつけるetc)も実際、暴行罪、傷害罪にあたりうる犯罪行為だぞ???
桐野もそうですが、「ホモ」とか言ってフェミニンな雰囲気の男の子をいじめる人って、自身も同性愛者であることが多いらしいですね(そうでないこともあるとは思いますが)。一種の近親憎悪ってやつですね。
個人的には、これは近親憎悪もあるし、「女性性への嫌悪」も含まれてると思います。男性って「女性らしいもの」を嫌悪(というか軽蔑かな)する人が結構多いですからね。
そいえば、人気海外ドラマ「glee」でも、アメリカンハイスクールを舞台として、同じような描写がありました。国は違えど、われわれ人間のやってることなんてそんな変わんないですね。
しかし、何だかんだ三島と桐野は2人でマッチョな体育教師をおかずに盛り上がったりする親友となり、三島と自分の気持ちに素直になった夢野はいい感じになるわけです。
本作で重要な立ち位置を占めるのが、主要登場人物3人の親たち、特に母親たち。
三島のお母さんは元レディースの頭、という「やんちゃ母さん」で、20歳の時に三島を産むが、三島の父親は亡くなっており、美人で若くてシングルマザー。このど田舎では、周りの母親たちからあれこれと言われる格好の的です。しかし細かいことは気にしないヤンキー気質のお母さん、本作でおそらく一番好感度の高い大人。
三島がゲイであることもとっくに見抜いていて、自分の生きたいように生きろ、と三島を励まします。母親のことを考えて、「ゲイとして生きるつもりはない」と主張する三島のことを叱責します。
私は私でお前はお前だ
人生それぞれだ
つらくてもお前はお前の道を行け!!
私のために選んだその道が
少しでもお前の我慢や諦めの上にあるのなら
それでお前の思った道を行けないのならー
私は・・・凄く悲しいし
それこそ不幸だ
この三島と母親のシーン、とてもよかったですね・・・(号泣)。
三島のことを信頼して、そっと見守って、要所要所で背中を押す、余計な口出しはしない。これこそ正にあるべき親の姿ではないでしょうか???(真顔)
それとは対照的なのが、桐野のお母さんですね。桐野は不妊治療の末、遅くにやっとできた子供であり、父親は不妊治療にしぶしぶ付き合った挙句に愛人を作ってしまう、とよくありそうな話ではありそうですが、父親がそんな感じであるため、息子である桐野が自分の生きがいになっています。かつ、世間体を非常に気にする性格。
だから、桐野がゲイだと知ったときは、桐野の前で錯乱して、「子どもなんか産むんじゃなかった」と言い出す始末。「マジかよ・・・」って感じですが、世間体に縛られて自分も自分の大切な人も不幸にする典型例ですね。
この母親のあり方の違いによって、三島と桐野の生き方は大きく変わってきます。
ちなみに夢野のお母さんは、いいお母さんなんですよね。夢野の気持ちを察して、
「(夢野が男を好きでも)私はしょうがないって思うの だって好きだって言ってんのダメだなんて言えないでしょー」
とほがらか。
夢野も、このお母さんの後押しがあり、自分の素直な気持ちのまま、三島と一緒になることができたわけですね。
他に出てくる大人のキャラクターと言えば、変態教師の柳田先生。おまわりさん、こいつが犯罪者です。
永井先生、柳田の、三島に対する危うい感情を絵で表現するのすごく上手なんですよね。柳田が出てくると、何だか急にホラー漫画になりますから・・・。
彼も同性愛者なのですが、過去にトラウマがありまして、彼の時間は中学生のままで止まってしまってるわけですね。だからもう自分は大人なのに少年を愛してしまう。こういう、身体は大人なのに内面が極めて未熟なやつってすんごい危険ですよね。
ラスト、結局、三島は、母親から背中を押されたこともあり、自分を殺さずに自分のままで生きていく道を選ぶわけですが、桐野は、自分を殺して母親が期待する(あるいは世間が求める)生き方を選ぶわけです。
「桐野の選んだ生き方が決して間違いであるとか、不幸であるとも言い切れない、どんな生き方を選んだかという、単なる選択の問題だ」と無難〜な感じの結論を導いてしまうにはややもやもやとする終わり方ではありますね。
桐野がそういう生き方を選んだのは親の影響が多分にあることを考えると。
桐野がああいう生き方を選んだのも、柳田が「ああいう」感じになってしまったのも、本人たちの選択もありますが、周りの大人たちの言動によるところが大きいですよね。
同性愛は「病気」のようなものとして恐れて、我が子であろうと、むしろ我が子だからこそ、それを受け入れられない。その無理解は子どもたちにとってはめちゃくちゃ辛いものがありますよ・・・。
桐野の選択は、桐野が自分でしたくて、自分で母親の期待に応えたくて、「普通の」生き方を選んでいるようですが、子どもが、親の幸せ(自分の子どもには普通の家庭を築いて欲しい、そして可愛い孫が欲しい、とか)のために自分の幸せを殺そうとするのは何とも辛い。
桐野の母親としても、桐野に幸せになって欲しくて、そのためには「普通の」生き方をした方がいいのだと思ってしまうんだ、という感情を吐露するシーンもありますが。やはりそこには親としてのエゴを感じますね。
三島と桐野が「桃源郷」へ行くことを諦めて別れるシーン、ここが2人がそれぞれの道(人生)を行くことを決意するシーンですが、三島から見て桐野は逆光で真っ黒なシルエットしか見えない。その表情は見えない。
もはや三島には桐野は理解できない存在になっている。この描写がお互いに別の世界に行ってしまうことを示唆しているようで、こういう表現、すごい上手だな〜って感じます。
中学生の時、三島に「目が死んでいる」と評されていた桐野ですが、本当の自分を隠していたことを三島に見抜かれていたんですよね。
そして、ラスト、地元で、可愛い娘と孫を可愛がる自分の母親と、幸せそうな「普通の家庭」を築いている桐野の目がクローズアップされて物語は終わります。
この最後の桐野の目について、やや「目が死んでいる」感じがあるんですよね(個人の感じ方ですが)。
柳田みたいに、普通の家庭を築くことに「失敗」してクレイジーになってしまった訳ではないですが、目はやや死んでいるという。
東京へ行き、自分らしく生きている三島と、田舎に残り、普通の家庭を築いている桐野。
似たような2人が、母親のあり方、あるいは生まれ持った姿形(桐野は心は女性であるものの、身体は長身で男らしい見た目であること、とのジレンマにも苦しんでいましたよね)で、正反対の生き方を選ぶ。
これはもはや自分の選択というより、どう生まれたか、どこに生まれたか、いつ生まれたか、みたいな要素が少しでも違うだけで人生は正反対に転んでしまうと思うんですよね。
そんな2人が中学のひと夏のわずかな間、お互いに素の自分のまま一緒に過ごした時間は、もう奇跡と言っていいようなひと夏の輝きだったんでしょう。
夢野と三島の2人にスポットを当てると、完全に胸キュン青春BLなのですが、やはりスメルズ〜のメインは三島と桐野の奇跡のような友情なんですよね。
でも夢野と三島の高校時代の話とかも絶対キュン死するので、いつまでもお待ちしております。