成長に失敗は必要か

失敗すると誰かに迷惑がかかる。

だいたいの事柄はそうだ。
失敗は悪ではないけど、避けられるのであれば避けたほうがいい。
でも失敗から見えてくるもの、学ぶものもある。
転んだことのない人は転んだ時の痛みはわからない。

上に立つものとして、悩んでいる。
転ばないように周りに目を配って注意してあげるか、転んでもいいから自分で歩かせてそのフォローをするべきか。
後者の方がいいような気もする。でもそれで迷惑がかかるのは患者だ。

自分でやれば怒られなくて済むのに、育てるために任せて、代わりに怒られてやる。
それが理想の上司なのかもしれない。
でも嫌だ。

患者のフォローはやるからすきにやれ!
とするのが理想なのかもしれない。
でもそんな器量はない。


後輩を見ていて失敗している自覚がないのかもしれないと思った。
定められた時間内に仕事を終わらせられなければそれは失敗かもしれない。
もちろん、処理できる以上に患者が来てしまえば残業になってしまう。
でもそこで、どうしたら残業にならずに済むか?ということを考えなければいつまでも仕事は処理できない。

自分のことを思い返すと、私は年次の高い人に囲まれていろんなことを教わった。
その知識をもとに自分なりに考え仕事を早く終わらせる方法をずっと考えてきた。
仕事の空き時間の多くを効率化について考えることに使ってきた。
だからこそ後輩の遅さに目が行ってしまう。

丁寧にやるから遅いという人がいる。
しかしそれは違う。
丁寧にやるためにこそ早くやらなければいけない。
時間に追われて本当に丁寧に仕事ができるだろうか?
待ち時間が長くなると患者はイライラしてくる。そうすると必要な聞き取りもおざなりな返答になってしまう。
すべてのことに集中することは難しい。ならば本当に集中しなければならないところにこそ集中力を発揮するべきだ。
仕事が遅いということはメリハリがないということであり、何が大事か理解できていないつまり仕事が理解できてないということ。
そもそも丁寧にやりたいならもっと勉強しなさい。1つ1つ調べているのは丁寧ではなく怠惰。それは事前にやっておくべき。
・・・ブーメランになりそう。

教育の話に戻ろう。
おそらく教えるべきは
①考える習慣をつけさせる。
②勉強する習慣をつけさせる。
という習慣づけなのかもしれない。
これも自分で言っていて耳が痛いが。
習慣化のトレーニングをしてもらおうかな。そしてあわよくば教えてもらおうかな。


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