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ムカデが大量発生する部屋からの脱出に成功したら、翌月、大地震に遭ってしまった話。

1995年。
あの頃の私は、通信高校に通いながらパチンコ屋で働いていたが、当時はドル箱を持つ必要があり、その影響で腰痛を発症し、悪化。しばらく仕事ができなくなり困っていた。高校で知り合った同い年の友人から「お酒飲まなくてOKで、お客と話をするだけでお金がもらえる」ということで紹介してもらい、神戸のキャバクラで働きながら高校卒業を目指す23歳だった。(なぜ23歳で高校?という疑問には、また別途記事を作ってみます。不幸な子だった、という事だけは事実です。)

当時は神戸の長田の山側にある「丸山」という場所に住んでいて、谷底にあったアパートは山肌に張り付くように建っており、当然のようにムカデが大量に自宅に押し寄せ、真冬でもたびたび登場することが嫌で嫌でしょうがなかった。真夏になると毎週「俺が死ぬのが先かお前が死ぬのが先か」と言いながら床下にバルサンを3つ炊いていた。

親から援助や保証人のサポートさえ得られなかったため、仕方なくその「保証人不要」のアパートに住んでいたが、当時のお客さんに不動産会社の人がいたため、そのツテを頼りに春日野道にある小さいマンションの一室を借りることに成功。無事、親の手を借りずにマンションに住むことができた。

12月の末、クリスマスイブに友人に手伝ってもらい、引越しを行なった。何もない2Kの部屋だったけど、ムカデが出ないだけで最高だった。当時は毎晩新神戸のディスコに通っていたので、ほぼワンメーターで帰って来れる距離も最高だった。

年末年始、いろんなイベントを経てちょっと疲れが出てしまったのか、私はインフレンザにかかったようだった。全く起き上がれず、水を飲むのが精一杯で、立ち上がることもできなくて3日ほど仕事を休み、ようやく起き上がれるようになったのが1月16日の夜だった。

食料を買い込み、ご飯を食べてから高校のレポートを始めた。途中でスーパーファミコンでボンブリスをしたり、落語を聞いたりしながらたまりに溜まったレポートを進める。

米朝落語を聴きながら、古文のレポート、平家物語の「敦盛最期」をやっていた時だった。

「ドン!」
とひとつき。
(何?ん?)
「ドン!」
(え?)
「ドン!ドン!」
(え?え?)
「ドン!ドン!ドン!ドン!」
(え?落語うるさかった?うるさかった?家主さん怒ってる?)

この時、私の住むマンションの部屋は3階の家主さんの真上の部屋で、私はてっきり家主さんがうるさいからと階下から物干し竿で私の部屋を突いているのだと思っていた。本気でそう思って怖かった。

「ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!ドンドンドンドンドンドンドン!」

その「ドン!ドン!」がなんだったのか。大きく音が鳴り響いて、突き上げる感じで近づいてきていた。どんどん早くなる。あれは、地割れ?断層が割れる音?何かはわからない。でも、あれがはじまりだった。

その地響きの後、一瞬の静寂。そして、部屋が揺れはじめた。
そこで、私は咄嗟に玄関に逃げた。

玄関ドアを背に、玄関土間から部屋を見ている状態で、揺れが始まった。

それまでまったく体験したことのないでかい揺れ。
しっかり左右の壁で体を支えていたが、冷蔵庫の倒れる音、ガラス戸が割れる音。台所のペンダントライトが左右に大きく揺れて天井に打ち付けられる様子。このままでは、全部壊れてしまうのでは…長い、、長すぎるぞ!

「やり過ぎやろ!やり過ぎやろ!やり過ぎやろーーーーー!」

と言ったところで揺れがおさまった。
私はドアを開けて「またこれか〜〜〜〜〜!!!!」と叫び、
そして、心の中でわかっていた。わかっていたが
「た、たすけて〜〜〜〜〜!!!!」と叫んだ。

せっかく頑張ろうとしても運命にはばまれる。いつものことだ。
それにしても、地球規模とはひどすぎる。

助けてって、全員やん。分かっていた。でも、叫んでみた。
でもわかっていたから、小声だった。言ってみただけ。

そこから、何度も余震があった。一人は怖い。

そして、とにかくこの場を離れなければ…と一度下へ移動しようとしてみた。4階から下へ、もつれる足で移動した。
でも、うまく足が動かない。階段で尻もちを何度もつきながら、ほぼ滑り台のように、1階へと降りた。

隣の酒屋に飛び込んで「助けて!」と言ってみた。
すると、酒屋のおじさんの顔にガラスが刺さって血だらけになっていた。
怖くなって逃げた。

すぐ上の道にあったローソンに行ってみた。
おばあさんがいたので、話そうとしたらまた余震が来た。
おばあさんに抱きついていると、「どこか広いところに逃げろ」と言われた。今思うと、追っ払われたのだと思う。

ローソンに行ったが、ローソンの店員さんも混乱していて、もうどうしていいかわからない状態のようだった。私はとにかく、いったん家の鍵を閉めようと思って自宅に戻り、鍵を閉めて、そしてゾウリから靴に履き替えて、落ち着いて公園に向かうことにした。

公園に行くと、たくさんの人がいた。まだ真っ暗で何も見えない。

「俺ゴジラが俺の家揺らしてんのかと思ったわ〜」と言っている学生らしき人がいた。ちょっと笑った。

そこで薄暗くなるまで過ごした。
どれくらい時間が経ったかは、わからない。

自宅に戻り、複数人に電話を掛けた。その頃はまだ、繋がった。

当時付き合っていた彼氏にも電話して泣いたが、「俺の家も洗濯機倒れて大変なんや!」と言っていて、こんなヤツとはもう別れようと思った。(のちに結婚し、そして離婚している)

当時は日本中で地震があったのだと思っていた。震源地が京都という情報もあり、かなり混乱していた。ラジオとたまたま持っていた10万円を持って、家を出た。友達の住むマンションに向かおうと思った。

ラジオを鳴らしながら春日野道を南下する。
街は驚くくらい静かだった。

途中で電気屋でありったけの電池を売ってもらった。お釣りがないというのでお釣りはいらないと1万円であるだけもらった。

釣具屋で懐中電灯が欲しいというと、釣り用の頭に付けるライトをくれた。
「いくらですか」と聞くと、おじさんは「どうせ仕事にならんからお金はいいわ、持って行き」と言ってくれた。

その道すがら、「あっちにパンがあるぞ!」と強奪に向かう的な発言をしている人がいた。人間ってこわい。

その後、後輩の自宅でしばらく過ごした。ローソンに人が集まってきて、「開けろ!開けろ!」という怒号が続き、その後窓が壊され、大勢に襲撃されているところも窓からみていた。怖かった。

昼過ぎに、お茶や食料を買いに、元いた丸山(長田区)にバイクで向かった。停電していたので信号は当然動いていなかったが、大通りさえ一定の規則性を持ってきちんと流れていた。必死で手信号しているおっさんもいたが、むしろ車は手信号無視で流れていた。

新開地に着いたころには、道の両側が燃えていて、熱くて怖かった。でも、映画を観ている感じがして、自分の世界の出来事とは思えていなかった。

丸山でお菓子とお茶を買い込んだ。食料はなかった。
そのお菓子を食い繋いで夜中まで過ごした。

県庁近くの警察署まで行ってどうしたらいいか聞いたが、「僕らかてどうしたらいいかわからんのやから!」と言われた。

普段はあんなに色々命令してくるくせに、こんな時はそんな感じなんや。頼りにならん奴らや。

夜中にTVを観て盛り上がった彼氏から連絡が来て、迎えにくるというので来てもらい、田舎に避難した。

淡路島の実家も全壊し、職場も全壊し、当時の人間関係すべてが崩壊した。
背中からいきなり、バッサリ殺された感じだった。

ただ、実際私は死んでいない。

あの日、友達のマンションに向かう途中、いくつも家がぺしゃんこになっている事は分かっていた。でも、そこで人が死んでいるかもしれない、という事を想像することはできなかった。

新開地から長田に抜けるとき、道の両側から火柱が上がり、その火の向こう側がどうなっているかは考えなかった。

人間、ああいう時は自己防衛本能がマックスになるのかもしれない。映画のような、他人事のような。そんな感じですべての出来事を見ていた。

そして、考えたところで私には何もできない。
できることは、ただ自分の身を守ることだけだった。

それまでの私は、困っている人を放って置けない、助けてあげたいというタイプの人間だった。

でも、土壇場での自分の行動を見て、少し人格が変わってしまったように思う。結局、自分を差し出してまで人を救う事はできないのだ。

少なくとも、私にはできない。

だから、まずは自分を救うようにした。
そして、余力で家族に手を差し伸べ、そのまた余力で他人を助けた。

今はもっと自分にエネルギーが向かっている。
自分にエネルギーを向けてからのほうが、人のことは助けられるようになってきた。

そして、私はいつかあの土壇場で、釣り用のライトをくれたおじさんのようになりたいのだ。


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