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やさしさ

20代前半、大学生の頃、やさしくなりたいな〜、でもやさしさってなんだろ?と思っていた。

そう思ったきっかけは、今ふと思い出したのだけれど、当時付き合っていた彼氏がやさしくないな〜と思っていて、じゃあやさしいって何だっけ?私はやさしい人になれているのだろうか?と疑問を持ったのが最初だったかもしれない。

そんな疑問を持ってから、当時、周りのやさしいな、と感じる人を観察したり、やさしくないな、という人から逆説的に考えたところ、当時の私は、「相手のニードをそっと満たしてあげること」がやさしさ、と結論付けた。

その私なりのやさしさの定義は割とずっとそのまま変わらず、つい数ヶ月前までそれがやさしさだと確信していた気がする。
だだ、今日、ふと、お風呂上がりぼんやり髪を乾かしていたら、いや、やさしさの定義ってもしかしたらそこじゃないかもしれない、と何年かぶりの疑問がふと湧いた。

この世の中には、相手のニードを割と苦がなく感じ取れる人、むしろ感じすぎてしまう人がいる一方で中々相手が何を求めているのか分からない人もいる。それは訓練したかどうかとかではなく、所謂持って生まれたそれぞれの特徴に寄与するところが大きいのだと思う。
ただ、相手のニードを感じすぎてしまう人がめちゃくちゃやさしい人で、感じられない人が全然やさしくない人かと言われたら全くそうではない。(相手の気持ちを考え続けることは大切なことだと思うけれど、とりあえず今はそれを置いておく)

自分が困っている時にすっと手を差し伸べてくれたら、その時はとってもありがたか感謝しかないし、その人をやさしいな〜て思うだろうけれど、その行動の目的が何なのかによって本当のやさしさなのか、変わってくると思う。
その行動のきっかけとなった思いのベクトルの向きが大事なのかもしれない。
例えば、共依存の関係にある人はずっと相手のニードを自然に満たし続け、その結果相手の自立心を奪い更なる共依存関係になっていくかもしれない。それは、本当にその人のことを考えたうえのやさしさある行動だったの…?

一方、見当違いな行動でも、そこにその人なりのやさしさを感じることもある。

そんなこんなを通して現状私の考えるやさしさは、「相手の幸せを純粋に願った先にある行動」なんじゃないかなって思う。
純粋に願った、というのが大切なんじゃないかな、そのためにもやさしさを与える側の人は余裕のある範囲で無理なくっていうのが大事なんじゃないかな、とも思う。
それぞれが余裕を残しつつ、与えても辛くなったり見返りが必要にならない範囲で。
ちょっとずつ、でも純粋に。それってやさしいな〜と今は思う。

きっと色々考えつつ、自分も変化し、また一年後とかには違うこと言っているかもしれない。
これからも、やさしさってなんだろうと問い続け、やさしい人間になっていきたいものです。

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