大人との食事が怖い

いつからか大人との食事が苦手になった。なった、というよりは元々苦手だったことにようやく気付いたのかもしれない。

ネットであれこれ調べると会食恐怖症という病名が一番自分の症状に合ってる気がする。

大人がいる飲み会が決まると、心が後ろ向きになる。当日その場で気分が悪くなって、遠くに吐き気を感じながら必死でお茶を飲んでいる自分を想像してしまう。嗅覚が敏感になり、早く外の空気を吸いたくなる。

食事への苦手意識を強く感じさせられたのには、社会人2年目のときに起きたある出来事がある。
仕事で取引先へ訪問したとき、お昼時だったために先方がお蕎麦をとってくれた。大人3人に囲われて、自分は全く箸が進まなかった。結局、半分も食べられず、「無理しなくていいからね」の言葉でその日は終わった。

減らないお蕎麦を見つめながら、私は小学校の時のことを鮮明に思い出していた。

好き嫌いが激しく少食だった私は、よく先生から怒られていて食事を残すことに強い罪悪感を覚えていた。

昔から食事は一日に3回食べなきゃいけない義務なんだと思ってたし、好きな(食べ慣れてる)食べ物はあっても、美味しいって感覚はよくわからなかった。そういえば、幼い頃はごちそうさまではなく「もういい」と言って食卓を立ってた気がする。

私は食べるのが大好きで、って言ってる人の気持ちは全然理解できなかったし、修学旅行で懐石料理を小鉢まで綺麗に全部食べて女将さんに褒められてる子のことが羨ましくてしょうがなかった。

なんでみんな食事を楽しめるのだろうか。

もしかすると、家族との楽しい食事の記憶がないことが一つの要因かもしれない。うちは会社員の父と専業主婦の母と兄弟のいるどこにでもある核家族だったが、親は朝ごはんを食べないし、昼夜も個食が多かった。

たまにみんなで食卓を囲んでも、あまり会話はなく食事は義務的だった。主役はいつもテレビで、みんなで雑談をして笑いあった記憶はない。

自分の家庭が少し特殊だったことに気付いたのはかなり大人になってからで、家族旅行の経験もなければ家族写真が1枚もないことに気付いた時には、如何とも表現しがたい寂しさを感じた。

今でも家族という言葉はちょっと苦手だ。

話を元に戻す。

学生時代は、クラブ活動の一環で知らない人がいる飲み会にもよく行ったが、自分から各席を回って人脈を広げるのも得意で苦手意識は皆無だった。

当時はきっと、飲み会=社交場という認識で、食べることへの意識が薄くて済んだのだと思う。

今もそれでいいはずなのだ。でも、どうしても周囲の目が気になる。

先に述べた事件のとき、心の中にあったのは「偉い人の前で出されたものを残してしまった」「営業マンならあれくらい無理してでも食べて当然だった」「自分が残したことで上司にも迷惑をかけた」というネガティヴな思いだ。

過剰に周囲の評価を気にしてしまうのは、よくも悪くも私のクセだ。

仕事上役に立つときもあるが、なんとも生きづらい。もし今後接待があったら…、上の人から食卓に誘われて出されたものを食べ切れなかったら…と、まだ起きてもいないことを先取りして想像して気が滅入っている。

こうして書き起こすと、笑ってしまうくらい取り越し苦労だし、本当に無駄な悩みだと思われると思う。

ただ自分も含め、会食恐怖症の人にとっては極めて深刻な悩みだ。

真の原因が心にあることはわかってる。考え方次第で、これは改善できることもわかってる。ただ、身体をだませるだけ、まだ心を乗せられないでいる。

朝はトントンという包丁の音で子供たちを目覚めさせ、美味しい料理を囲いながら、家族で笑い合うのが私の夢だ。

#会食恐怖症
#食事
#家族
#みんないろいろあるよね

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