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最近の生活はひどいありさまだ。
寝て起きて食べて寝て起きて食べて、の繰り返し。

就活はしているが、さほど行きたくもない会社の志望動機など書けるわけがない。
まあ、それはわたしのワガママなのであろうが。
慣れては来たが、お祈りメールもなかなかの数だ。

この文章のように、書きたいことなら永遠と書いていられるのに何故だろう。
架空の物語を創れるひとは尊敬に値する。

と、まあここまでの話は最近の生活の様子である。

今日はとても死にたい気分だった。
SNSには「生きているのがつらい」などと書いているが
本当は死にたい、のである。
日頃から唱えているように、上記のような生活を送っていると、本当に生きている意味が分からなくなる。

“つらい時にはいつでも言ってね”なんて言葉、本当によくいただく。
“いなくなったら寂しいよ”なんて言葉ももらえる。
素直に嬉しい。
が、それだけじゃ生きている価値にはならない。
気にかけてもらえてる気持ちは本当に嬉しい。
その言葉だけで毎度号泣してしまうほどだ。

相談なんてものは話を「うんうん」と聞いてもらうだけの作業にすぎない。
アドバイスももらえる時はあるが、それを生かすも殺すも結局は自分次第なのである。
自分がどう思うか、どう動くか。
人生は他人のものではなく自分のものだ。

そんなことは分かっている。

けど、レールに敷かれた人生を送ってきたわたしは突然社会に放り出されて、なにがしたいかわからずに困り続けて数年が経つ。
小学生のころから目指していた薬剤師という夢は、薬剤師そのものに憧れていたわけではなく、給与が良い・仕事が苦でない等の理由から目指していたので、それを目指さなくなったところでなんの未練もないのである。
だがしかし、薬剤師になるという夢を10年以上見続け、進んできたため「それ以外」のなりたいこと・やりたいことが全くない。
全くないと言えば嘘にはなるが、現実的な職業とは関係がなくなる。

わたしはずっと「お母さん」になるために生きてきた。
薬剤師になれたら、給与がよく、短い時間でも稼げる。
そうすると、子供と一緒に過ごす時間が増える。
そのためだけに今まで生きてきた。

ところが現実はどうだろう。
薬剤師にはなれず、お母さんはおろか結婚すら怪しい。
将来共に過したいと思えるひとはいるが、わたしの仕事がどうにもならんことには、と言ったところだろうか。

周りの人間はみな優秀だ。
生活を見ていればわかる。
もちろん人それぞれ悩みはあるだろうが、わたしなんかからするとそれらの悩みは、自分のそれよりも1段階上の悩みのように感じる。
仲の良い、大好きな友人からの悩みなのでイヤミに感じることはないが、むしろそこで悩めることは羨ましいと感じることはある。

悩みを人に吐露する、というのは悩みの内容によっては勇気のいることである。
「彼氏ができな〜い」なんて悩みは正直初対面で仲良くなったひとにだって出来る。
しかし「子どもができな〜い」なんて悩みはいくら仲が良くてもなかなか出来ないものである。
ましてや「生きているのがつら〜い」なんて悩み、誰に相談したらいいのだろうか。
「〜」をつけるのすら嫌悪感を覚える。

わたしは小学生のころから、母親から「死にたい」「今からママ死ぬから身の回りの事よろしくね」などと言われてきた。
その状況はたいてい、夜中に母が車でどこかへ出ていき、わたしの携帯電話に電話がかかってくるのである。
睡眠薬を飲んでいるせいか、母の呂律はいつもまわっていなかった。

そんなこと、誰にも相談できなかった。

妹は自分より2歳年下、父親は九州に単身赴任、両祖父母は他界、当時は親戚付き合いはそんなに頻繁ではなかった。
小学校3,4年生の女の子が毎度母がほのめかす自殺を食い止めていたのである。
正直つらかった。
今思い出してもつらい。

実際、母が縊首する前にも電話があり「もう死ぬから」という言葉があった。
ただその時は今までとは「なにか」が違い、すぐに駆けつけねばならぬように感じたため、すぐに実家へ駆けつけた。
すると案の定、自身の洋服の紐で首を括っていた。
自発呼吸はほとんどなく、心拍も動いているか定かではない様子であった。
恋人とともに必死に平らな場所へうつし、119番に通報。
普段あんなに使い慣れている携帯電話、119を押すだけなのに時間がかかった。
緊張とある種の興奮で、手汗がベタベタなので指紋認証なんてものは通用しない。
そしてやっと繋がる。事情を説明する。
たったこれだけのことなのに何分かかったか分からないほど、テンパってしまうのである。
ようやく救急車をまわしてもらえるよう話がついた。
その後、電話を流したままにすると、心肺蘇生のためのテンポが刻まれた音楽が流れるのである。
「肋骨は折れても治せるからとにかく全力で」なんて言葉を思い出し、流れるテンポに合わせて人工マッサージをした。

救急隊が到着してからも忙しかった。
母の保険証、自身の荷物。父への連絡。
わたしは母と共に救急車に乗り込んだ。
救急車のサイレンはけたたましかった。
おかげで数ヶ月ほどサイレンに恐怖を覚え、通り過ぎる度に耳を塞ぎ心を殺した。

病院へ移った母、もうすでに首を括った時からほとんど自我はなかったであろう。
救急の部屋に運ばれ処置を受けている間、わたしは警察から取り調べを受けた。
取り調べといっても警察の部屋に閉じ込められるわけではなく、病院の待合室で発見前・発見時の様子を何度も聞かれるのだ。
これは他殺と自殺を見分けるために行うことなので、ある程度しつこくても仕方がないことだとは思っていた。

だが、救急車で運ばれたのが23時すぎ、家まで警察の車で送ってもらい、本当に開放されたのは明け方4時だった。
そのくせ、病院は手続きのために午前中に病院へ来てください、という。
その日はまったく眠れなかった記憶力がある。

その後、病院は最善を尽くしてくれた。
本当によくしてもらえたと思う。
だが、結局母は亡くなった。
不謹慎な言い方かもしれないが、ちょうどいい時期に亡くなったと思う。
これより短ければ覚悟が足らずに立ち上がることがより難しかっただろうし、これより長ければ介護疲れが生じてしまっていたであろう。とわたしは感じた。

葬儀は大勢の方が来てくれた、このあたりについては昔記事にしたであろう。割愛。

今までの文章を読んでみて、どうだろうか。
わたしがうつ病になるのは必然といっても過言ではない気がする。というのは言い過ぎだろうか。

「うつ病なんてこころの甘えだ」「うつ病?だからどうした」なんて思ってる人は別にいても構わない。
でも表面だけだなく、奥深くまで内情を知ってから判断をして欲しい。

だって、自分がいつ、うつ病になるかなんて分からないから。


こんなに苦しんできたんだ。そろそろ幸せになりたい。
いつになったら神様はわたしに大きな幸せを与えてくれるのだろうか。
小さな楽しい幸せはたくさん感じている。
大きな幸せも自分で掴まなきゃならないことは分かっている。
きっと神様なんていない。
私の前にはまだ大きな幸せは見えない。
どうしたら出てきてくれるのだろうか。

見通しのいい人生なんてつまらないが、見通しの悪すぎるカツ道の悪すぎる人生なんて、そんなハードモードでお願いした覚えはない。
「普通」なんてものはないが、もう少し「無難」な人生を歩ませてはくれないだろうか。

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