見出し画像

あらB.fm Ep.72-1 ~振り返り会~

 ポッドキャストあらB.fmさんに出演させていただきました。
 とても緊張していましたが、あらBさんとピジェさんと楽しくお話しできました。ありがとうございました。
 聴き返してみて、頭をよぎったけれども話さなかったこと、今思うことなどをつらつらと書いていこうかなと思います。

ジェンダーやっていき度

 あらBさんご提案の「やっていき度」概念おもしろかったですね。収録のあと、「やっていき度」はアイデンティティと規範の内積では?と雑談もあってさらにおもしろかったです。

 わたしは今でこそ吹っ切れて「ジェンダーやっていき度」ゼロになっていますが、思春期において「女の子」やっていき度を自ら高めてふるまっていた時期がありました。
 中学生になってまわりが「(男女の)恋愛」をどんどんするようになり、男子も女子もジェンダーやっていき度がどんどんあがっていました。わたしは茨城育ち、スクールカースト上位集団はヤンキーでした。わたしはまじめ優等生でしたが彼らと対等に接していたと思います。そしてその地位を担保するために必要だったのでしょうか、わたしも女子やっていき度を高め恋愛をすることを選びました。本当に信頼しているわけではなかった男の子とお付き合いをし、「女性性」を求められ、それに応えようと無理をしました。その結果、わたしはその後の人生に影を落とすほど深く傷ついてしまいました。
 わたしには本当に信頼していて大好きな女の子がいました。いまでもその子がいちばん大好きです。「大人になったら外国に行って結婚しよう!」と言っていました。それが実現しないことをわかっていながら。
 お付き合いならその信頼している大好きな女の子に申し込むべきだったでしょう。でもわたしたちは異性ではなかった。仮に交際できたとして、「異性愛」というマジョリティ属性がなければスクールカースト的には意味がありません。わたしは愚かでした。自分をよく見せるために愚昧な選択をしました。自分も他人も大切にできていませんでした。

 その後、「異性愛」「女性性」をやっていくことは徐々になくなり、わたしの好きなように生きる方向へシフトしていきます。

「もふふはもふふであることに疑いがない」?

  あらBさんが「あらBはあらBであることに疑いがない」とおっしゃっていて、「もふふさんもそうですか?」と話を振ってくださいました。
 そのとき完全に同意ができず微妙な反応をしてしまったのですが、頭の中ではいろいろな考えが巡っていました。
 「わたしがわたしであること」とはなんだろう?

 『ニューロダイバーシティの教科書』にこのような記述があります。

つまり私たちは「ありのままの現実」など実は見ていないということなの だと思います。百聞は一見にしかずということわざや,自分の目で見たことしか信じないという信念などは,一般的によくある考え方ですが,実はかなり根拠のあやしい発想だということになります。私たちは「脳が作り上げた映像」を,それが目の前の現実であると信じて日々の生活を送っているのです。

『ニューロダイバーシティの教科書』村中直人

 われわれはありのままの世界(なんてものがあるとして)を見ているのではなく、脳が作り上げた映像を見ている。それはそうですね。わたしが認識している世界は疑いうる世界です。
 となると、かのデカルトの「我思うゆえに我あり」が意味するところの、わたしの「意識」だけが疑い得ないことになるでしょうか?

 仏教の祖である釈迦が到達した悟りは、この世は幻であるということです。それは映画『マトリックス』の世界に通じます。ふつうに日常を送っていると思っていたら、この世界は実はコンピュータによって作られた仮想現実だった。自分の本物の身体はカプセルに閉じ込められ電極でつながれか現実という夢を見させられている……。
 映画では本物の身体もありましたが、脳みそしかないなんてことも考えられます。わたしの脳みそだけが存在していて、直接刺激を受け世界を認識させられているとしたら?

 あるいは、「世界五分前仮説」という哲学の思考実験があります。「世界はたった5分前に始まったばかりなのかもしれない」と考えるのです。
 この仮説は肯定も否定もできません。もし世界が5分前に作られたとしたら、わたしをわたしたらしめている28年間の経験だってなかったことになります。ただそういう記憶をもつ者として5分前に産み落とされただけ。

 ……という感じで、わたしは「もふふはもふふであることに疑いがない」ことにYES!といえる根拠がないのです。おそらくあらBさんが意図する意味とは異なったと思いますが、口ごもってしまったのはそういうわけでした。

 ただ、確固たるわたしがあろうがなかろうが、現実問題としてわたしは生きていかなくてはいけません。そのときにぶち当たる様々な困難に対しては、「わたしはわたしの好きなように生きていくぞ」、その意味で「他者が押し付けてくる規範や価値観、常識を積極的に「やっていく」ことはしないぞ」と思っている、ということです。

「フェミニストの主観的な主張は受け入れられない」

 哲学の先生に言われた「客観性はあることにする」ですが、相互主観性というやつですね。複数の主観を集めて普遍っぽいことが成り立つことです。

様々なバックグラウンドや専門分野からきている御三方の鼎談の場ということで、おそらく今日話されているような話題について、「客観性」「中立性」「エビデンス」といった規範/価値がどのような意味を持つと考えるかなどの意見を御三方から聞けたら幸いです。

「どちらかというと異端派」さんからのおたより

 わたしが相互主観性の話をしてしまったがために、客観性=相互主観性の図式での議論になってしまったので、このおたよりの意図するところとはずれてしまったかもなと反省しています。

 相互主観性と客観性は異なるものです。ポッドキャストでもお話ししましたが、客観とは「主観から独立して存在する外界の事物」のことですから、主観の寄せ集めではありません。

データやエビデンス、客観性を重んじるいわゆる「理系的」な人たちから、「そんな主観的な主張は受け入れられない!」というような批判がフェミニストと呼ばれる方々に対して投げられがちというイメージもあります。

「どちらかというと異端派」さんからのおたより

 この「主観的な主張は受け入れられない」というフェミニズム批判について、この批判者が求める客観性とは何なのでしょうか。
 ピジェさんのご意見にありましたが、そこに立ち向かうべく「データやエビデンス」をそろえたところで、それを集めた人間の主観が入り込んでいる以上完全な客観性とはなり得ないですよね。次に起こることは、「そんな自分たちの都合の良いように集められたデータは受け入れられない!」っぽそうじゃないですか?

 人間というのは定義上不完全な存在です。有限だし。時間や空間に縛られているし。全知全能、無限、完全、それらは神の性質。客観性というのは(少なくとも現状は)神の視点です。

 哲学も自然科学も世界を解釈する手段の一つだと思っています。自然科学の探求は客観性、普遍性を目指しているという意味で、神に近づくための営みな気がしています。(ただし人間が客観性にたどり着くことができるかはわかりません。)対して人文科学は、人間を理解するための営みだと感じます。フェミニズムのような「わたしたちはこういう理由で困っています!この困難をなくしたいです!」という主張は、主観なくして生まれようがありません。

 もし客観性を目指すことが得意なのであれば、ぜひフェミニズムの達成に役立てていただきたいです。わたしは現状客観性へのたどり着き方がわからないので、どうすることもできません。主観と相互主観を手段に頑張ろうと思います。

エスパーはエスパーじゃないかもしれない

 あらBさんもピジェさんももふふも、エスパーができない人間でした。が、はたしてエスパーができる人間なんているのでしょうか?
 多数派コミュニティでは多数派が多数派です。彼らはその多数派特権のおかげで、自分の思ったことが相手の思ったことと一致しやすい状況に置かれているだけなのではないでしょうか?
 エスパーできない!と思っている人だけを集めたコミュニティを形成してみたら、その中でのコミュニケーションが潤滑になったりしたりして。
 要は、エスパーしているのではなく自分と相手が似た者同士だったというだけ。なのでは?とぼんやり思いました。

「意味の占有」

 三木那由他さんの『言葉の展望台』めちゃいい本です。「意味の占有」は経験をもって共感できました。

話し手がその振る舞いや発言で何かを意味しようとしても、聞き手の力によって別の何かを意味したことにされ、その別の何かに従って約束が結ばれてしまう。聞き手が意味を独り占めしてしてしまう。私はこれを「意味の占有」と呼んでいる。

『言葉の展望台』三木那由他

 これについて、「やっぱり女の子は甘いもの好きなんだねぇ」のエピソードをお話ししました。聞き手は「女の子は甘いものが好き」という思い込みを持っていて、その思い込みを補強するための情報だけを拾ってしまいます。スコトーマによって「もふふは洋菓子は苦手」という情報は認識にあがることはありませんでした。コミュニケーション的暴力。

 聞き手がたまたまわたしにとって興味のない人だったので「まぁどうでもいっか~」という気持ちでしたが、これが大切な友人だったらわたしはきちんと説明をしていたはずです。さらに言えばわたしは「洋菓子が苦手」なわけではなく、「過度な精製糖、人工甘味料による甘味」や「サラダ油」で気持ち悪くなってしまうのです。おいしいものは大好きなので、甘さ控えめでバターを使った洋菓子であればそれはもうよく食べます。フォロワーとパーティーをしたこともあります。

ポッドキャストでお話しした尾山台のAU BON VIEUX TEMPSパーティー

 つまり、もとよりわたしにはその聞き手に正確な情報を伝える気がありませんでした。だから伝わらなくても気にしなかったのでした。

 しかし、ちゃんと伝えたい相手に、話しても話しても伝わらないのはどうしたらいいんだろう?解決策って提示されていましたっけ?については、収録後あらBさんがこちらを引用してくださいました。

この生まれ変わりには、少なくとも、自分が相手の意味することを知っている、自分たちがどんな約束をつくりあげているか知っているという前提を捨てることが必要だろう。会話において対等であるというのは、ふたりが共同でつくる 約束事が、自分の思い通りにいかない可能性を認めるということだ。それゆえ逆説的にも、自分には理解できない何かを相手は意味しているかもしれないという可能性を認めることでしか、コミュニケーションは、少なくとも対等なそれは、始まらないのだろう。

『言葉の展望台』三木那由他

 わたしのようにもともと相手の言いたいことがよくわからん勢には納得感のある考え方です。対してコミュニケーションに困難を感じたことがない人ほど、この可能性を認めるのは難しいような気がします。

 対等になってゆきたい。

セクシャルハラスメントってなんだろう

「セクシュアル・ハラスメント」という言葉がなく、それゆえ「その行為はセクシュアル・ハラスメントだ からやめてほしい」とは語れないが、代わりに同じことを「その行為は不愉快だからやめてほしい」と語ることで伝えようとしたとしよう。このとき、「不愉快」という言葉を選んではいても、そのひとが本当に言いたいのは自身の心理に関することではなく、むしろ社会的な不正に関わる振る舞いが生じているということで あるはずだ。

『言葉の展望台』三木那由他

 本を読んだときにこの「社会的な不正にかかわる振る舞い」について、ピンとこなかったのでポッドキャスト内での論題にあげさせていただきました。
 ピジェさんのお話を聞いて、「嫌だからやめてほしい」のではなく、「年齢や性別によって変えているその態度をやめてほしい」的なニュアンスで腑に落ちました。

 そこで新たな疑問が生まれています。「若い女の子が好きなおじさんが、若い女の子にアプローチしたいときどうしたらいいんだろう?」
 少なくとも、わたしの体験のように仕事中にアプローチをしてはいけなさそうです。では、仕事終わりのタイミングを見計らって連絡先を聞く?でもいきなり連絡先を聞かれても警戒してしまいます。仕事中に親交を深めて安心感を得ていないといけません。しかし特別扱いをすることは「社会的な不正にかかわる振る舞い」……。
 となると、スタッフ全員を平等に特別扱い(気遣い)して、スタッフ全員から信頼される立場になって、それではじめて個人にアプローチが許されるでしょうか?

 人間とのかかわりはむずかしいですね!

男女によって対応を使い分ける、は経験かもしれない

 アスペルガー症候群は男女で困難が異なるそうです。男性の場合は3歳くらいからこだわりの強さや他者との衝突というわかりやすい特性が出始めますが、女性は小学校中学年くらいから人間関係の悩みとして特性があらわれくるらしいです。
 『女性のアスペルガー症候群』では、女性特有のアスペルガー症候群の悩みについて焦点が当てられています。例えば、

  • 「ガールズトーク」についていけない

  • 「女の子らしくしなさい」と叱られる

  • 人にだまされ、性的な被害にあう

などです。

「人にだまされ、性的な被害にあう」については、

  • 初対面の男性に「食事をおごるよ」と誘われてその言葉を鵜呑みにしてついていってしまう

  • どんな服装や行動が男性を(性的に)誘うサインになるかわかっておらず、誤解されてします

 などの具体例が上がっており、その原因は「社会性が年齢相応に育っていない」からだと記述されています。ひどいね!と盛り上がったところです。         「社会性の乏しいアスペルガー症候群の女性には難しい」なんて書かれています。ひどいね!

  アスペルガー症候群ではない、——『ニューロダイバーシティの教科書』いわく「神経学的多数派」——の人たちが作った社会性ですから、当然「神経学的多数派」の人たちの発達ペースに適した社会性なんですよね。
 アスペルガー症候群の共同体が、神経学的多数派の共同体に向かって、「男女で行動を区別するなんて、あなたたちは社会性がないね!」なんて言ったらおかしいなんてみんなわかるじゃないですか。「社会性」の方をを問い直していく姿勢を持っていきたいものです。

 ただ、そのいわゆる「社会性」はみんなどこかのタイミングで学んできているんだと思います。「社会性」なのだから、生来備わっている性質じゃなさそうですよね。文字の読み書きと一緒で、それを知るのが早いか遅いかの違い。問題なのは、読み書きと違って「教わる」ことがなく、自然に身につくものだとされている点かなと思います。

 男女で行動を区別することはわたしにとっては意識しなくちゃできないことです。本当はハグだって好きな人みんなにしたいですが、男性相手にはグッと我慢しなくてはいけないストレスがあります。
 ハグ問題は悩ましいです。なんで男性にハグしてはいけないのでしょうか?異性愛が前提だからでしょうか?性的アプローチとみなされるからでしょうか?
 だとしたら、女性でも相手がレズビアンだったら同様にしてはいけないことになるでしょうか?でも相手の性的指向について、わたしはいちいち確認したりしません。そうしたらハグというコミュニケーションはできなくなるのでしょうか?

 などといろいろ考えたせいで、最近は仲良しの友達(女性)相手でも、「腕を組んでもいい?」「ハグしてもいい?」など聞いて同意をとっています。ヤダと言われたらしません。えらいね。

 ピジェさんも「ジェンダーと発達は切り離せない」とおっしゃっていましたが、わたしの自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)傾向があることと、性自認わからん案件は、根っこが一緒かもしれないなぁと思います。


Ep.72-2に続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?