「何もないw」へのアンサー
久しぶりに、好きな地域に対して「何もない」と言われてしまった。今回は、地元岡山では無く、東京で住んでいる地域に対してだ。
上京して3年以上が経つ。今住んでいる地域にはもうはや2年。何もないと言われたことにショックを受け、愛着を持てていると自覚する。
外的刺激を求めて動き、飽きて、また新しい刺激を求めて動く。消費者として生きる選択肢しか知らない人は、しあわせなのだろうか。しあわせを感じる場面は、人それぞれ違うということを大前提にしても、消費者と生産者、どちらもできて選べる方が、豊かではなかろうか。
本当のしあわせは、自分の中にあると信じてやまない。「お金を払ってサービスを受ける」それでしか幸福感を得られないのって、終わりなき戦いな気がする。稼ぎ、高級な食事をし、ハイブランドで身を固め、高い車に乗り、我が子を受験させ、エリートコースを歩ませる。幸せですか?
「何も無いw」の“何も“を紐解く必要がある。何を求めているのか。
しかし、その発言を受けた瞬間から、わたしは一線を引いてしまい、その人への興味を失ってしまうので、よくない。
何を求めているのだろうか。その人の地元や、住んでいる地域に「何も無い」「田舎だ」ということで、どんなアンサーを求めているのだろうか。
「そうなんすよ、何にもなくて(えへへ)」を求めているなら絶対に言わんからな。なんならものすごい熱量でおすすめの場所や人を紹介しだすからな。「今度一緒に行こうよ!」って連れ回すから気をつけろよ。
好きな地域のネカティブキャンペーン、謙遜でも絶対にしないのがわたしのアンサー。そこで豊かに暮らしている、大好きな人たちを知っているので。
よろしければサポートおねがいします◎