「神との対話2」という本を読み終えて、スピリチュアルについて僕が感じること。

 「神との対話2」ニール・ドナルド・ウォルシュ著 を読み終えて、僕が感じたことを書こうと思います。

 これは「神との対話1」に続く本であり、この後にも「神との対話3」が続くわけですが、その途中経過で感じたこと、ということですね。そもそも「神との対話1」の感想は? となりそうですが、この「神との対話」シリーズは、いわゆるスピリチュアル系と分類されるもので、いわゆる神の啓示や、上位次元の存在と交信して得た天啓など、著者の超自然的体験(神秘体験)を元に書かれた、とされる書籍の一つです。

 人によってはスピ系≒眉唾、或いは新興宗教的ビジネス、と捉える方もいるかも知れませんが、僕自身は(確かにそういう「胡散臭い商売」と感じるものも、世の中には沢山あると思いますが)、それでも、目に見えない超自然的現象は有ると考える人間です。そもそも、量子力学がそうですし、現代の科学や思考が及ばないものは、沢山あると思います。大宇宙のように。

 そして何より、日常生活においても「大いなる存在」を感じる時は度々あります。(ここでは僕の体験談は書きませんが)

 話しを戻すと、この「神との対話」シリーズは、著者のウォルシュ自身が人生に苦悩し、救いを求め、癒しを求め、半ばやけくそで「神」に手紙を書いたこところ、その「神」から返事をいただき(心の奥底から声が聞こえると言った感じ)、驚きながらも、それらを自ら紙に書き起こしたもので、終始「神」とされる存在との対話形式で書かれています。ウォルシュが質問をし、「神」が答えるといった感じです。

 ざっくり内容を説明すると、人は自分の心の声に素直に従って、自分らしい生き方をするべき。誰に左右されることもなく。そして人生は、自分のや りたいこと、望むことを行い、自分が何者であるかを思い出す旅だという。自分の魂の導きに従い生きれば、素晴らしい人生を送れると。

 思い出すというのは、本来、魂は永遠不滅で、何度でも人生を繰り返し体験するためこの世に生まれるので、唯一無二の自身は自身であるということから、本来の魂を、体験を通して思い出すということなのです。なにを体験するかというと、神が世界を創造した、その全てです。神は完全なる存在であり、全てであるが、その完全であり全てであるさまを知るには、体験しなければ実感できない。なので、神自身がこの宇宙を創造し、神の分身(分霊、分神)として人を作り、体験させるためにこの現世を創造したというのです。思い出すというのは、人類一人一人が、その魂が神の一部であり、神と一体、一つであるということです。この世の動植物の魂の全て、宇宙も、全て元々一つであると。

 非常に興味深い内容ですし、自身の本心に従い生きることで、素晴らしい人生を送るというのは、引き寄せの法則にも通じるものがありますね。全てが元は一つ。神を体験するために人生を生きるわけですから、逆に言えば、素晴らしい人生を送れば、自ずと人生に感謝、この世の全てに感謝する気持ちは生まれるでしょうし、この世に内在する「大いなる存在」も感じられると思います。またさらに逆に、この世の「大いなる存在」を意識し、自分は何者か? どう生きるべきか自己探求を極め、自身を見つめ、望む道を生きると、きっと素晴らしい人生になると思います。どちらにせよ、悟りを得るのではないかと。なるほどと腑に落ちますね。

 かなりざっくりと説明しましたが、この本にはもっと興味深いことが書かれています。

「神との対話1」と「神との対話2」ですが、1は個人的な事柄についてであり、2はそれらを世界の諸問題、地球規模の問題に拡大した内容で綴られています。

 しかし、やはり自分が何者なのか? という問いを追求することによって、個人は自身の本当の人生を見いだし、それが結果、世界に広がれば、世界も本来の姿を見いだすという流れであり、つまりは世界平和の達成も可能であるとするのです。非常に納得できますね。全ての人が悟りを得れば、世界は平和になる。それは納得できます。

 がしかし、2を読んでいて、中盤や終盤に、あれ? と疑問に思う事柄もあり、1の時ほどドスンと腑に落ちきらないというか、引っかかるものがあったのも事実です。この「神」とされる大いなる存在が、非常に細かく具体的に、世界情勢や政治的、制度的なものにまで言及していて、やや同意しかねる部分もしばしあったのです。ひょっとして、これは作者のウォルシュ自身が、その「大いなる存在からの啓示」を明確に受け取れなくなってきたのか? 或いは、ウォルシュ自身の主観が混じってしまって、純粋な「神」の言葉ではないのではないか? と感じたのです。

 政治的な事柄について、これは正解とは言えない、断言するのは間違っている。と僕自身の心に感じる部分があったのです。

 途中から、やや疑いの目線で読み進めるという妙な状態に陥ってしまったのですが、ところが、最後まで読み終えると、それらについても、明確な答えを得る事が出来たのでした。

 これは本当に興味深いことでした。それは僕にとって、この「神との対話2」の内容以上に重要な事柄のように感じました。それは、僕が以前から感じていたある直観、それがここで一つ明らかになった! と言えるようなものでした。

 結論から言うと、著者の主観は本来的に混じるのです。大いなる存在、宇宙の創造主、そういった方面からの啓示を受けたとしても、その当人の心、主観というフィルターを通して描かれるわけで、必ずその人の考えや思考をベースにその啓示は表現される。言葉一つ一つも。

 これは以前から僕が感じていたことで、こういったスピリチュアルな書籍、これを書く作者、俗にヒーラーやチャネラーとも言われますが、それらの人々が伝える内容が、大まかな本質は、全てに通じる概念があるわけですが、表現の仕方や言葉が、人それぞればらばらであると。この「神との対話」にしろ、「ガイアの法則」にしろ、「日月神示」にしろ、「三千世界一度に開く梅の花」にしろ、全て、神であったり、古代シュメール神官であったり、国之常立神であったり、丑寅の金神であったり、その対象は全て「大いなる存在」ではありますが、その表現が違うのです。他には宇宙人と対話しています、という著者もいますし。

 「大いなる存在」がどういうものか、どれが真実か? は明言出来ませんが、つまりは全て作者にとっては真実であると僕は考えます。深い自己探求や、瞑想やヒーリングなど、深層心理に到達し、自身の内なる声を表現したわけで、それは菩提樹の下で悟りをえた、釈迦と同一のものだとも思います。

 そして表現の仕方、言葉、伝え方もその人それぞれ。その著者の心の個性なのです。だから宇宙人なんて「え、ホント?」となってしまうような、突拍子もない言葉を使う方もいるのです。それにそれらが全て真実とも言えない。真実は、人それぞれの心にあると思いますし、本当は誰でも、この悟り(大いなる存在からの啓示)を得ることが、本来的に、出来るものだとも、僕は考えます。

 それはなぜか? それは「神との対話」にもあるように、人は神の分霊であり、神の一部であり、宇宙も地球も自然も、大元をたどれば一つだからです。自己探求を極め、素晴らしい人生を体験すると、きっと見えるものがあると思います。この人は特別で神に選ばれた、この人は普通、なんてことは無い。と僕は考えます。

 ただ、スピリチュアルに縁遠い人や、無宗教の方にとっては「そんな馬鹿な、霊感も何もないし、そもそも神様なんて信じてない」と思われるかもしれませんが、寧ろ、そういう人こそ、そうこういった啓示を受けた方の言葉、書籍は、非常に参考になると僕は考えます。

 現代人はとにかく、自然から遠ざかり、様々な社会的な雑音、雑念にさらされ、様々な恣意的思惑の中を生きる訳で、心の迷子になりやすい、と僕は感じるからです。そう言った時に、これらの本は何らかの「気づき」を与える、キッカケになるはずだと、そう思います。

 ということで、途中でやや疑ってしまったのですが、そんなことは無い。これはウォルシュの言葉ですから。僕の言葉とは異なることもあるのです。

 なので引き続き「神との対話3」を読み進めたいと思います。長い本なのでゆっくりと、それこそあてもなく旅するように。

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