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言葉にできたものも、零れ落ちたものも

すこし前、「言葉にしてしまうと大切なものが零れ落ちてしまう」という表現を目にした。

私にはそれがとても美しいものに見えて、きっとその通りだなぁと思って。その感心の深さは、「言葉にすること」にこだわりすぎていた自分を反省したほど。

だけど

ほんとの本当は納得しきっていたわけじゃないのを、どこか見ないふりしてきた。

だってあまりにも素敵だったから。

心からの実感ではなく、「そう思えている自分でありたい」という願望から、その表現をこっそり使うようになっていた。

でも最近、見ないふりをした違和感が、なんとなくわかってきた気がする。

私は最初から、言葉が万能だとは思っていない。だから「零れ落ちる」という表現に納得できた。

だけど私の場合、子どもの頃「言葉にしないと伝わらない」と母に言われたことで、「言葉にした分しか人には届かないんだ」と思うようになった気がする。

だから、本当は言葉にならないようなドロドロした曖昧なものの中から、両手いっぱい掬い取ってなんとか言葉にしようとしてきた。

掬い取れないものの方が多いとしても、わずかでも、届いてほしかったから。

言葉にしてしまうと大切なものが零れ落ちてしまう……この表現に続きやすい言葉はたぶん、「だから言葉にしたくない」。

無理矢理言葉にすれば、大切な何かを歪めてしまうかもしれない。そもそも言葉にしたって、掬い取ったものが全部手渡せるわけじゃない。

伝えたいから言葉にするのに
言葉にするから伝わらない

その哀しみは私にもあって、以前より言語化には慎重になってきた気がする。

だけど

やっぱり私は、ほんの一部でも言葉にする試みを、やめないでいたい。

それと同時にこれからは、「零れ落ちた=掬い取れなかったもの」のことも、もっと大事にしていたい。

すべてが目に見えなくたっていい
誰かと共有できなくたっていい

言葉にできなくたってたしかにある

でもそれらがほんのわずかでも
あなたと分かち合えたならうれしい

だから私は "言葉" という、あなたと繋がれるかもしれない希望を抱きしめていたい。諦めないでいたい。

これからもずっと。


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