言葉にできたものも、零れ落ちたものも
すこし前、「言葉にしてしまうと大切なものが零れ落ちてしまう」という表現を目にした。
私にはそれがとても美しいものに見えて、きっとその通りだなぁと思って。その感心の深さは、「言葉にすること」にこだわりすぎていた自分を反省したほど。
だけど
ほんとの本当は納得しきっていたわけじゃないのを、どこか見ないふりしてきた。
だってあまりにも素敵だったから。
心からの実感ではなく、「そう思えている自分でありたい」という願望から、その表現をこっそり使うようになっていた。
*
でも最近、見ないふりをした違和感が、なんとなくわかってきた気がする。
私は最初から、言葉が万能だとは思っていない。だから「零れ落ちる」という表現に納得できた。
だけど私の場合、子どもの頃「言葉にしないと伝わらない」と母に言われたことで、「言葉にした分しか人には届かないんだ」と思うようになった気がする。
だから、本当は言葉にならないようなドロドロした曖昧なものの中から、両手いっぱい掬い取ってなんとか言葉にしようとしてきた。
掬い取れないものの方が多いとしても、わずかでも、届いてほしかったから。
*
言葉にしてしまうと大切なものが零れ落ちてしまう……この表現に続きやすい言葉はたぶん、「だから言葉にしたくない」。
無理矢理言葉にすれば、大切な何かを歪めてしまうかもしれない。そもそも言葉にしたって、掬い取ったものが全部手渡せるわけじゃない。
伝えたいから言葉にするのに
言葉にするから伝わらない
その哀しみは私にもあって、以前より言語化には慎重になってきた気がする。
だけど
やっぱり私は、ほんの一部でも言葉にする試みを、やめないでいたい。
それと同時にこれからは、「零れ落ちた=掬い取れなかったもの」のことも、もっと大事にしていたい。
すべてが目に見えなくたっていい
誰かと共有できなくたっていい
言葉にできなくたってたしかにある
でもそれらがほんのわずかでも
あなたと分かち合えたならうれしい
だから私は "言葉" という、あなたと繋がれるかもしれない希望を抱きしめていたい。諦めないでいたい。
これからもずっと。
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