深夜、黄色い電車で、オーボエを抱えて。
大学のオーボエ科の先輩、Kさんとは今でもたまにSNSで交流がある。たった一言や二言、文字で会話するだけなのだが、毎日のように顔を合わせていた当時の空気を、一瞬にして思い出す。浮かんでくる光景は、オーボエ科の学生が集まる、大学内のオーボエ部屋と呼ばれていた教室の中というよりは、帰り道の西武新宿線の車内だ。
朝、登校したらまず、オーボエ部屋に寄って荷物を置いて、授業を受けて、終わったらオーボエ部屋に戻って練習をして、リードを作って、そうこうしているうちに夜の11時になると守衛さんがブレーカーを落としてしまうので、オーボエ部屋も廊下も、小部屋と呼ばれていた練習部屋たちも、一気に暗くなる。そうしてやっと管楽器フロアの住人たちは楽器を片付けて帰るわけだが、流れでだいたい周りにいるオーボエ科の学生たちと連れだって、ぞろぞろと上野公園を通って上野駅から山手線に乗り、下校することになる。
ひとり暮らしをしている学生は、だいたい音出し可物件の多い練馬区の江古田周辺に住んでいるので池袋で降りてゆくのだが、もっとお金を節約したい学生たちは、練馬区上石神井の寮に住んでいるので、池袋の先の高田馬場で西武新宿線に乗り換える。上石神井駅からも15分は歩くから、片道1時間はかかる。大学の寮にしては遠かった。
石神井寮は当時すでにボロボロで、家賃は月に1万円ほどと格安だった。10年前に取り壊されてしまったので、当時の生活を思い出しに建物を眺めに行くことも、もうできない。地図アプリに住所を打ち込むと、公園になっているようで、少し寂しい気持ちになる。
私とKさんとは当時、それほど仲が良いわけでもなかった。彼女から特別にかわいがってもらっているな、と感じることもなかった。私自身入学してびっくりしたことだが、音楽大学の管打楽器専攻の学生たちは上下関係にとても厳しい。実際、それがその後のオーケストラなどの演奏仕事の現場の秩序にも間接的につながることもあるので、まあ悪いことだけでもないとは思っている。とにかく当時、私は1年生、Kさんは4年生で、4年生なんて雲の上の存在だったわけで、まあ私にしてみればちょっと怖かったんだろうな、と思う。1年生は1年生だけで集まって演奏する授業しか履修できないので、実際にオーケストラや吹奏楽でKさんと一緒にオーボエを吹いた記憶もない。歳を重ねた今になってみれば、3、4歳の違いなんて、同時期に同じ学校にいたなんて、ほぼほぼ同い年みたいだよな、なんて思うのに。そういうわけで、同じ寮の住人でなかったら、同じ電車に乗ることもきっとなかったのだ。
記憶の中の電車はKさんとふたりきりで、Kさんがたまに、ポツポツと話しかけてくる。私もKさんも、特にものすごくおとなしい、というわけではまったくないが、たぶんお互いに、ものすごく人間関係に長けている、というわけでもなかったように思う。友人でも恋人でも、好感を抱いている相手にそれを積極的に伝えられるタイプではなかった。そこでKさんが、人と接しているときに沈黙があってもいいし、沈黙を保てる相手が私は好きだ、ということを話した。私はおしゃべりで、実際沈黙が生じてしまうのが怖くて、いつもサービス精神旺盛なつもりで話題を探してしまうところがあるから、そう言われて正直、たぶん少しは戸惑ったんだろうし、今喋ったほうがいいのか、黙ったほうがいいのかどっちなんだろう、とかなり本気で一瞬困って、とりあえず先輩が言っているんだからってその場では、黙ったんじゃないかなと思う。たぶん、ちょっとおかしな沈黙になってたんじゃないかな、と思って、にやついてしまう。
また別の日、ふたりきりになったときにKさんは、地元の北海道や、家族のことがすごく好きだと話していた。そういうのもいいと思うんだよね、みんな東京で仕事を続けることにこだわっているけど。実際、Kさんは卒業後、あっさりと、という言い方が適切かはわからないけれど、北海道に戻り、今も演奏を続けながら暮らしている。
だからKさんは今だって、北海道から文字を打ち込んで話しかけてくれているわけなのだが、一瞬にして気持ちがつながる気がする。懐かしさで涙が出てくるタイミングだって、もしかして一緒なんじゃないかな、と思ってしまうぐらいに。そこには千キロ以上の、飛行機を使わないとたどり着けない物理的距離があるはずなのに、インターネットは便利だ。そして、すごく強く思うのが、私たちはそれだけではなくて、時間的な距離も超えて、一瞬で数十年前の、あの電車の中に戻っているんじゃないかな、ということだ。きっと同じ気持ちになってしまうのだ。それほど、仲良しってわけでもなかったのに。
10代の私は、山田詠美の短編小説を何度も繰り返し読んだりして、早く大人になってみたかった。少ないお小遣いでダイソーの、すぐにとれちゃうようなマスカラを買って、一生懸命塗っていた。高校生のとき、クラスメイトのYちゃんがこっそり耳たぶのすごく端っこのほうにピンクのイヤリングをしてきていて、キラキラと光って揺れるのが、なんだかかっこいいなあと眺めていた。大学生になって、石神井寮の自分の部屋の姿見の前で、耳たぶの端っこにピアスの穴を開けた。当時好きになってしまっていた相手とうまくいくように、強く、決意みたいなものを込めて開けた気がする。何度か揺れるピアスは通してみたけれど、その夏のうちに耳の穴はふさがってしまって、穴から耳たぶの下まで裂けたような短い傷跡が、私の両耳には残っている。ジュディマリの「そばかす」の歌詞みたいに。3年前につくばに来て、偶然Yちゃんも同じ市内に住んでいて、今は歯医者になったYちゃんの隣で患者の私が口を大きく開けたりしているわけで、人生はほんとうに不思議だと思う。毎朝、マスカラを塗るたびに不思議がってしまう。友達づくりや恋愛や、人間関係ぜんたいがうまくいかなくて、不器用に過ごしていた10代の自分を、遠くから、以前よりもほんの少しだけ、愛おしく感じてみたりするのだ。
世の中には色々な種類の楽器があって、楽器によってオーケストラでの役割は違うわけで、選ぶ楽器で性格が変わる、なんてこともよく言われている。結構盛り上がる話題だ。オーボエは、目立つ旋律を受け持つことも多いし、音楽の中で他の楽器を引っ張ってゆくことも多いので、誤解を恐れずに言えばオーボエ奏者は、主張が強めで、個性も強めの性格を持ちやすい傾向にあると思う。そんな性格の学生たちが集まるオーボエ部屋で4年間、競い合って過ごして、私は正直、あの部屋に戻りたいかと言われたら、全然そうじゃない。自分だって性格はキツいし、空回りすることもしょっちゅうだし、人間関係を築くことだって今よりもっと得意じゃなかった。オーボエ部屋でリードを作っている夢を見ることは定期的にあって、それを話すと夫は、大学時代の懐かしい思い出の夢なんだね、と誤解していたのだが、私にとってはどちらかというといつもそれは、悪夢っていう言い方をしたってよいぐらいだ。
そもそも東京藝大の入試というのは、日本じゅうからその年、オーボエが特に上手な18歳や19歳が数十人集まって、その中でさらに抜きん出て上手な3、4人を決めるってことだ。それを経てみんな、オーボエ部屋に来ていたのだ。多少の気持ちの強さがないと受からないとは思うし、そこまでやれる強さというのはどこにあったんだろう。
有名になりたいとか、プロのオーケストラの団員になって演奏したい、とか、そんなのは人によるし、大学にいるうちに新しく夢や目標や、こだわりだってできてくる。高校生の私はいつも、ドラえもんのひみつ道具のタイムテレビが欲しかった。普通の大学を目指すか、音大に行くか、ずっと迷っていた。未来が見えない状況で、周囲に反対もされながら、それでもオーボエを吹きたい、もっと専門的に勉強したい、と決めたのは、純粋にオーボエが好きだったからだ。その音色や、響きがとても好きだったし、今も大好きだ。結局のところ、オーボエの魅力に、私の人生は抗えなかった。30歳直前でオーボエを吹くのはやめよう、と決めて、何年間も楽器ケースを放っておいてしまったけれど、それでもまた吹くことに決めてしまった。
みんながみんな、同じ思いだったんだろう、なんて言い切るのは乱暴すぎるかもしれないけれど、たしかにオーボエのことが大好きな若者たちが10数人、あのオーボエ部屋に、毎日通い続けていたんだろう。今度、夢に出てきたらもう少し見続けてあげよう。できれば、見たくはない種類の夢であることには、今のところ変わりはないんだけど。
オーボエをやめて、もう一度吹きはじめて、結婚してから夫と、大学時代に何度か演奏会をしたことのある、日光の教会まで足を運んだ。現役の学生たちの演奏を聴けたわけではなかったけれど、楽屋から、舞台にしていた礼拝堂への渡り廊下を眺めていると、オーボエを抱えてどきどきしながら開演時間を待っていた私や、仲間たちがたしかにそこにいるのかもしれない、という気がした。帰ってきてから母に教会に行ってきたことを話すと、戻ったね、と母は笑った。きっとすごく喜んだし、「戻った」ことに安心してくれていた。
だから私は、これからも純粋にオーボエが好きという気持ちで吹き続けていいんだし、吹き続けるべきだ。真摯に音楽に向き合って、聴く人々にそれを届けてゆくべきだ。届け終わったとき、舞台の上で、笑顔で立ち上がって拍手をもらって、強い光に照らされて少し喉が乾いて。あの幸せな瞬間をこれからの人生、何度でも味わってゆきたいと思う。Kさんも北海道で、きっとそんな演奏を続けているんだろう。続けてゆけますように。いや、そんなに必死な気持ちで祈らなくたっていいんだ。心配ないよ、そんな幸せな人生がこれからも続いてゆくよ、と励ますことだってできるし、そもそもそういうふうに励まさなくたっていいんだ。オーボエが、音楽がある私たちの人生は不思議で、たぶん、とても幸せなものだ。
・2024年9月23日に書き上げたものの、久しぶりの長文でフラフラ、ぐちゃぐちゃしていて、夫に公開を反対されてずっとメモ帳アプリに眠っていたもの。かなりがんばって書いて、こういうのを書いちゃう自分自身のことも結構好きなので、ここに誰でも読めるように置いておくことにします。そのうち、もっとうまく、人に伝わるように書き直せればよいのですが、今はここまでしか。数週間経ちましたが、今のところは特に手を加えることもなく感じます。もし公開したことを夫に何か言われても、私の文なのでとりあえず消さないでしょう。
・2024年8月16日、ひどい台風の中、私の出演するつくばでのコンサートに、オーボエ科の先輩Hさんがはるばる神奈川から来てくれて、せっかくなので終演後、閑散とした駅前で夫と3人で乾杯しました。その、ビールジョッキを持った、Hさんとのツーショット写真をFacebookに載せたところ、Kさんから反応があり、北海道でみんなで会いたいね、みたいに盛り上がって嬉しかった気持ちを、全部書いてみました。まとまらなくなっちゃいましたが、感謝の気持ちを込めて。茨城空港から札幌へは、スカイマークの飛行機が出ていて、駐車場に車を停めて行けるし、そんなに高くもないみたいです。いつか、そんなに寒くはないときに行けて、わいわい、おいしいものが食べられたらすてきだなあ、と思います。
・2024年10月17日、朝、これを公開したあと、たまたまYちゃんの働く歯医者に予約を入れていたので、向かって、口をまた大きく開けてきました。歯医者自体をYちゃんに切り替えてから3度目だと思います。管楽器奏者にとって歯の健康は大事な要素なので、思い切ってYちゃんに頼むことに決めたのです。正直まだまだ、知り合いに口の中を診てもらうのには慣れないのですが、向こうはとにかく歯石を取り除くのが楽しいみたいでした。取られながら、ふと、オーボエのリードの中にたまったり、楽器の上のソケット周りに付着してゆくあの「白いやつ」の成分って、歯石や歯垢と一緒で、なんかタンパクとかなんじゃないのかな、なんてぼんやり思いました。そうするとYちゃん的にはこれは、私がリードを削るようなもんなのかな、などと思えてきて、笑い出したくなりました。そして、私の書いたものを読んでくれて、共感してくれるのがとても嬉しかったです。Yちゃんとも当時は特に、めちゃくちゃ仲良し、というわけではなかったのです。なんだか共感し合えるような空気感はありましたが。友達とゆるくつながってゆくのは大事だなと。そんなことを昔、mixiのコメント欄で私に教えてくれた、音大予備校時代の同期のソプラノのKちゃんという子は、ずいぶん若くして、地震の起こる直前に亡くなってしまいました。Kちゃんのことも、そのうち書きたいな、と思い続けてから何年も何年も経ちます。そんな、思い浮かんでくるさまざまなことを、追記。
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