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【カサンドラ】あとがき-毒親物語の終焉-

この記事は読むだけで皆様の親子関係に覚醒をもたらす可能性がありますね
毒親問題に苦しんでいる方は是非ご一読ください
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管理人の自伝小説【カサンドラ】は結局しれっと全編公開を終えました 笑
(年内に有料マガジンへと移行させて頂くと思います)

noteにアップした時にはすでに”あとがき”まで書き終わっていましたが
最後の4話の公開を燻っている最中に個人的に気付いてしまったことがあり
あとがきの内容を変更 それをこの記事に再編してアップします

まず自伝を書くきっかけとなった出来事について触れておきます

私はTwitterに生息して10年ほどになりますが
Twitterってそもそも「なう」何してるっていう なんてことない日常を
短い言葉でポストするだけのツールでした
それがいつしか違反事項を見つけて晒し上げたり
それまで全く知らんかった人のツイートにクソリプをつけたりという
個人のストレス発散ツールのような側面を持つようになってきましたよね

ちょうど昨年の今頃だったでしょうか
川崎市で無差別殺傷事件が起きました
TLに事件の概要がポストされるやいなや 犯人を執拗に叩くツイートが次々と落ちてきて
それを見ているうちに  1997年に起きた「神戸連続児童殺傷事件」の時の自分の気持ちを思い出したのです
※決して他者殺傷を肯定しているわけではないということを念頭に置いてお読みください

事件当時私は二十歳でしたが
少年Aと同じ思春期の頃の自分は強い殺意に全身を占拠されていて
母親を殺したいと常に考えていた記憶が蘇り
少年Aの犯行は私があの時やりたかったことを実行した
(衝撃的な表現を使うと)
当時ある意味ヒーローのような存在でもあったのです

少女の私の殺意ははっきりと母親に向いていましたが
少年Aは母親への怒りであると自覚できない環境にいたため
動物や友人に矛先が向いてしまった
それだけのことで
私にだって無差別殺人の加害者と同じ可能性が眠っている と
思いました
心理学に詳しい方ならわかるかと思いますが
ということはほとんどの人の無意識下に同じ可能性が眠っているということになるのです
ならばたとえ殺人犯だとして
誰もがネット上でdisる権利があるのだろうかと
強い疑念を抱きました

そこで人間の心が殺人に向かう心理を伝えたくて
書き始めたのがこの自伝小説でした これが最初の目的です


私は世の中の殺人事件の動機の根源は全て
家族に対する感情抑圧によるものであると思っています
家族を殺すことも他人を殺すことも 延いては無差別殺人でさえ
全てこの物語と同じ理由が潜在意識下に隠れています
自覚の有無に関わらず何らかの感情が抑圧されたことに対する「怒り」が
体内に蓄積され 膨れ上がっていくために
その一片を思わせる言動に触れた瞬間爆発を起こし
自他を傷付ける事件へと発展するのです

爆発を起こすまで貯めるか貯めないかだけの問題ですから
「感情抑圧の自覚はあるけど自分は殺人などはしない」と思えるのは
まだその段階である だけだということをご理解頂きたい
私もそう思っていたのですから
感情のタンクがあるとすれば現在どれほど貯まっているかの自覚については
多くの場合が的外れです


物語の中では”私”の視点でストーリーを進めていますので
心理虐待に匹敵するレベルの母の言動や身勝手なルールに縛られ
それでもその場を離れることができなかった娘の私が
感情抑圧による心身の乱れから殺意を蘇らせるまでの流れを綴っています

”私”という視点から観測したら
母が我儘で1人で何もできない人(多分発達障害)
父が苦労人で働き詰めの人

そして私は
1人でずっと働き続けてきた父親の力になりたくて
せめて私だけは自立をして苦労かけまいと 病気になるまで努力をしてきました

ところがあることに気付きました

母が我儘で1人で何もできない人→何もできないことで愛情を得ている
父が苦労人で働き詰めの人生→誰かのお世話をすることで存在価値を認めている


自分を犠牲にして誰かのお世話をすることで自分の存在価値を認めている
(自分を犠牲にしてダメな誰かの世話をすることで生きる許しを得る)
(自分を犠牲にして糞麺に貢ぎ生活を支えることで生きる許s    )


これって実はアル中のご家族を抱えるご夫婦と同じ関係性
要は共依存関係と呼ばれるものなんですが
父母の立場が逆のパターンしか見ないために気が付きにくかったんですよね

父の家庭は貧しく小学生の頃から新聞配達をして生活を支えていた人なのですが
父はあのままずっと新聞配達をし続けていたのです(笑)
つまり(文句を言っていたとしても)それが彼の幸せだったということ
私が助ける必要はなかったし
人の助けを受けるということは彼の精神構造上大変心地悪いことなので
受け取りません
それを勝手に お父さんが可哀想!助けてあげなきゃ!と思って頑張ってきたわけですが
私は”できないことで愛を得る人”でも、”誰かの世話をして存在価値を認める人”でも
どちらでもないので
両親の関係性の中に入っていかれなくw
これが幼い頃から感じていた「孤独」の正体の一つであったと
判明しました

そして本当に本当の意味で自分の家庭を俯瞰してみると
母は意外とちゃんと母親をしていたということもわかりました
3〜4歳ぐらいだったかな 台所で母と一緒にフライやハンバーグを作ったことを思い出したんですが
カサンドラを執筆中はまったくもって忘れ去られておりw
母親を嫌いになるために自分で記憶を操作していたということですね
(場合によっては記憶を捏造することもあります)

いつも記事のどこかに書くようにしていますけれど
人間の脳は「探しているものを見つける」ので
黄色いものを探していると黄色い花や蝶々 黄色いラベルの飲み物などがたくさん目に入ってきます
私が人生掛けて母の毒な点を探していたから毒以外何も見えなくなったのだろうと思います
ただし毒を見続けて恨みきるということが重要になってくるので
これも必要な行動ではあります


母が我儘で1人で何もできない人(多分発達障害)
父が苦労人で働き詰めの人生
そして私は
1人でずっと働き続けてきた父親の力になりたくて
せめて私だけは自立をして苦労をかけまいと 病気になるまで努力してきました

こうゆうのを「ストーリー」と言います
地球上に生息するほとんどの人間がこの個人的なストーリーを持っており
それに準じて人生を構築していきます
大嫌いなお父さんに似た言動をする上司を見つければ批判しますし
大好きなお母さんに似た誰かを罵る姿を見ると正義を振りかざしたくなります
なんであれベースになるのは 両親に対する思い です

そして大概はその感情 本当の感情に気付いていません
それが問題を作り出すので
両親のどちらかが嫌いだと自覚されているの方のほうが解決は早いかと思います
多くの場合 好きなほうの親との関係に問題があります


毒親問題の終焉は
お母さんてすごい!って思うことでも
本当は愛されてたんだ・・・って気付くことでもなくて
両親に対する愛情が極めて「普通」になることです(笑)
大好き!というわけでもなくもちろん嫌いでもなく
またどちらかの親が特別好きということもなく同じくらい
普通 偏りがない と自覚できることです
私の母は宇宙レベルの天然であるということに落ち着きました


それでこれほどまでの
憎んで恨んで家のゴミを全部処分してもはや実際に殺す勢いで戦ってという
そんなことまでできるのが「家族」というものなのだと
これを実感した時に湧き出る感謝というのは
とても言葉にできないものでした

ストーリーが終焉すると世界が逆転します
そこで初めて真の”自分の人生”が始まるのです



See you next.

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