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【カサンドラ】 40. 古傷

もう、何も考えたくなくて、自宅のベッドに横たわっていたが
何もしないと同じことばかりを考えてしまうので、化粧をして外に出ることにした。
行く宛てもなく、駅まで歩いて
ATMでお金を降ろし、電車に乗った。
車窓から見える夕焼けがあまりにも綺麗だったので、二子玉川駅で電車を降りた。


つい数分前まで空を染めていたピンク色は早くも紫に変わってきていて
駅を出て歩きだした頃には、紺色の闇に包まれ始めていた。
横断歩道を渡って、少々久しぶりに重い扉を押すと、
智くんが入口を覗き込むように乗り出して、笑顔を見せた。

私はようやく、日常を取り戻したような気分になり
カウンター席に座り、どうしようかな。と数分悩んで、黒ビールを注文した。
マスターがカウンター奥の瓶を引き抜いてこちらに振り返り、「髪黒くしたの?いいねぇ」と言ったが
ろくな反応を返せず少し後悔した。
冷えた液体を口に運ぶと、一気に現実世界に意識が戻ってくる気がして
先程までのことを全て忘れ、いつものキャラクターの仮面を被ることができた。

周囲を見渡す余裕ができ、二つ開けた席にいる男性客とマスターの会話が耳に入ってきた。
深い紺色のスーツ姿でウィスキーを舐めるその男性は、同い年くらいだろうか、
口髭を生やし、少し古風な雰囲気を持っている。
滑舌良くハキハキとした口調で、「鎌倉」というワードが聞き取れた。
思わずハッとして彼の方を見ると、彼も視線を感じて私を見たので
私は「鎌倉?」と復唱した。
彼は「そう。5~6年振りくらいだったかなぁ、一人で行くのがいいよね、鎌倉は」と満足気に話しているが、
もっと驚いたのが、「僕子供の頃鎌倉住んでたんですよ」とマスターが言ったことだ。
ここのマスターとは年が同じだという話が既に済んでいる。
あの狭い鎌倉で歳が同じ。誰だ・・と脳内の古い記憶をパラパラと漁り始めた。

マスターが私の方へ顔を向けて、「鎌倉、好きなの?」というので
私もついに打ち明けた。
「私も鎌倉に住んでたんだけど。海側じゃないよ、山奥のほう」
「どこ。」
「鶴が丘八幡宮あるじゃん。あそこから鎌倉霊園に向かってく・・・」
マスターが大きな目を更に見開いて「何小?」と聞くので
「二小」と答えると、私の方が先に気付いた。

・・伊藤くんだ。

変わっていないと言えば変わっていない。子供の頃からはっきりした顔立ちで
高学年の頃は結構モテたと思う。
同じクラスだったのは低学年の時だけで、中学の途中でどこかに引っ越してしまったから、
お互いあまり印象を残してはいないのだけれど
マスターも私を覚えていた。
「顔はそうだけど、雰囲気が全く違う。」らしい。
そりゃそうだ。伊藤くんの記憶では私は大人しくて真面目な優等生のまま止まっている。
私は伊藤くんがバーを営むまでの話をしばらく聞いていたが
自分の話はあまりしなかった。
もう何年も前のことになるけれど、どうしてもそこを知られたくなくて
適当に話を合わせた。


深夜1時を過ぎた頃、そろそろ帰るかとドアを開けた客が、雨が降ってきたと言うので店を閉めて、いつものように智くんがタクシーで送ってくれることになった。
2人で後部座席に並び、たわいもない会話を交わした後
雨だから持っていきなと傘を渡され
「ありがとう」と手を差し出すと、そのまま智くんに手を握られ、
今夜家に泊めて欲しいと言われた。

その言葉を受け取った瞬間、忘れていたあの夜が頭の中に現れた。
あの男の表情、氷のように冷え切った言葉、体の感触、
全てが鮮明に蘇り吐き気に襲われた。
私は5千円札を智くんに渡してタクシーを止め、自宅までまだ数十キロはある辺りで降りてしまった。
一緒に降りた智くんが追いかけてきたのだけど
腕を掴まれた瞬間「触るな!」と反射的に怒鳴ってからは、どうしたかわからない。



何年経っても、あの夜が消えない。
いつまで苦しめばいいのだろう。
いつまで私は孤独な生き地獄を生きなくてはいけないのだろう。
濡れたコンクリートに佇み、生暖かい風に肌を撫でられながら
胸の奥にある鈍い痛みを摩った。



The Agonist - Thank You Pain

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