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【カサンドラ】 9.拒食

祐介と別れた翌日から、私は何も食べなくなった。
好きな人に振られたからではない。
少しずつ流れ出ていた風船の中の液体を、再び閉じ込めるために
以前よりのキツく口を締め、風船の存在さえ忘れた振りをして実家に戻ると
食べ物が入るスペースがなくなっていた。
体型がどうなるとか、生命がどうだとか
そんなことを考える余裕さえなく
自宅にいる間は、両親に心の中を探られないようやり過ごすことだけに全神経を集中した。
祐介に出会う前の私に戻っていく。
いや、
私の体内に溜まった腐葉土は、外に出せば呼吸ができると知ってしまった。
だったらこの風船の存在を知る前のほうが遥かに楽だった。


私の実家は、台所や家電、母親の所有物を自由に触ることができない。
どうしても使う時は、元々置いてあった時と同じ状態に戻しておかなければいけないという謎の規定に、
私も父も黙って従っていた。
そのため普段は母が1人で家事をしていたのだけれど
私に汚いと言ったあの日から、私の下着だけを専用の洗面器に避け
洗わなくなった。

既に二層式の洗濯機を使用している家庭は希少な時代になっていたが
全自動は不潔だという母のために、父が買い与えた洗濯機もまた、二層式。
洗濯機の上には、古びた桶やたらいが幾重にも重なっていて
洗濯機を使った後はそれを元あった順番通りに重ね直さなくてはならない。
掃除機や食器棚、押し入れの中までも、母独特のルールと少しでも違っていると必ず気付かれる。
私は締めた風船の口を全力で押さえながら
母が使っていない時間を見計らって許可をもらい、自分の下着を洗濯し
何事もなかったかのように元に戻す、そんなことを
反発もせず、繰り返すしかなかった。

祐介がいない生活に、徐々に慣れてきてはいたのだけれど
誰と会っても、何がこんなに辛いのかを説明することができずにいた。
別の男と遊んで気を紛らせばいいと、方々に連れ出してくれても
どこにも祐介はいないのだ。
その現実を見るために出掛けるくらいなら布団でも被って寝ていたいけれど
祐介との時間を過ごした後に戻った実家は、まるで監獄だった。
独立できるほどの稼ぎを得るなら、仕事を変えなくてはいけない。
しかし今はとても働ける体力も気力もない。
答えの出ない問答を脳内で繰り返しながら、ダイニングから流れてくるピアノ曲の音に撫でられ、数日振りに深い眠りに就いた。


この年一番の暑さを記録した、夏の夜。
この家で生活をしながら、湧き上がる負の感情を処理しなくて済む方法

私はそれに、出会ってしまった。


Stanislav Bunin - Chopin Polonaise Op.53

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