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「私」は、いない。

私が私だと思っていた存在は意識が最も近くで観察している”現象”であった。
とういうことは思考も感情も自分のものではない。

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・・あのライブレポ婆、ライブなさすぎていよいよ頭がおかしくなったか、それとも病気かな。。。

ひとつ前の記事の最後に”起きてくる出来事は変えられない”と書きました。
2000年代頃から成功法則と呼ばれる類の書籍が日本でも流行り始めましたが、現代ではブログやYouTubeなど無料であらゆる情報が受け取れるようになったので
やってみたことのある方多いと思うんですが。特に恋愛。復縁したいとかそんな感じで。
当初私はタロットカードやオラクルカードを使用した占い師のような活動を兼ねていたんですけど
依頼内容のほとんどが「相手の気持ちを知りたい」等ご自身のこと以外のものばかりで嫌になってきてしまいw(現在は生年月日占術のみやってますのでnoteをご覧の方で万が一ご希望ございましたらDMください)
相手の気持ちがこちらに向いていないとして、それを依頼主の方の思うようにはできないんです。
あの、できないです。

そもそもその支配欲と執着が相手の気持ちを遠ざけてしまうわけなんですが、その手の依頼をされる方はお相手のこと以外の話は聞いていないので
一瞬良いように動いたなと思えど結局変わらない(幸せではない)という状況が継続し占い依存を繰り返します。

それは自分の都合の良いように他人をコントロールしたいという個人都合の願いであって、そうゆう思考の我欲がバンバン叶ってしまったら自然界の調和が取れなくなりますので
そうゆう願いはアファメーションし神社に通い詰めても信念が確固たるものでない限り宝くじが当たる確率程度でしか叶わないのではないかと思います。
エゴが欲しがる願い(未来)が現実化した時に感じられる感情って幸福感。。ではないんですよね。
求めているのは安心感であることが多いかと思いますが得られる一時の感情としてはやっぱりどうしても”優越感”である場合が殆どです。
そういった願いは実現してもすぐまた”その他大勢”との競争が始まったり何かしらの問題が起きて幸福感が持続しないのが特徴なんです。

じゃ成功者たちが言っている”願いは叶う”というのは嘘なんか(出版社の金儲けかー)。

いえ、願いは叶います。
厳密に言うと潜在意識が納得すれば現実化します。
またVAK表象システムのK(体感覚)が優位の人であれば潜在意識への落とし込みも割と容易なんではないかと思います。
つまり、そういった発信をされている方が自覚している、いない別として
現実化する願望を投げる人のベースが思考(エゴ)ではないわけです。
(だからこそ心理的距離Bパターンの人の人生は思うようにいかないとも言えます)

体感の世界の話なので言語化に限界があるんですが
「私」というのは、人生のストーリーに埋没してエゴ(思考)が自分を自分であると勘違いし、”私”と”あなた”或いは”俺”か”俺以外”が(笑)存在すると思い込んでいる状態であって、この分離感の中で抱く願いは顕在意識で願っているだけのことが多いのです。
本当の私は全てを観察している意識です。
私はいない、若しくは私は他人であるとも言えます。
何を言っているかわかりますか。

その意識こそが”全て”であり、その全てから湧き上がる願いというのは
世界の調和が取れるように個々が引き受けるべく浮かんできた願いなので
思考であれこれ抵抗さえしなければ叶います、というかそれは単純に少し先の未来を見せられているだけです。
こういった願いが叶う時には「私」はいませんので、この意識状態で願いを叶えても優越感というのは感じないというか
優越感が湧き上がるような願いは出てこないというジレンマ。

神社に行くと拝殿にご神体として鏡があります。
かがみ。 
かがみの「が」は、「我」です。
つまり我(私)を抜くとかみ=「ネ甲」(古い)になるというのは有名な話です。
神とは何か。推しか。いや、あなた自身、あなたの意識ということです。

ある地点まで来ると”私”が何かをしようとして行動や思考を起こしているわけではないということに気が付きます。
「私」が大根を刻んだり「私」が思考していると思っている考えも、風が吹いたり花が咲いたり車が走って行ったりといったことと同じただの現象のひとつであるということです。

受動意識仮説というのをご存知でしょうか。
「脳はなぜ「心」を作ったのか」の著者 前野 隆司氏の唱えた仮説です。
人間に自由意思はなく、私の意識(顕在意識)が指令を出す前に筋肉が動いているという説。

ダンサーの方なんかはこれを自覚されていらっしゃることが多い気がしますが
私たちが”自分”で体のこの部分を動かそうと思って指令を出す0.35秒前に既に筋肉は動いている。というのです。

ということは、
「私」たちは何もできることがなく、そして特にやることはないということになってきます。
なんと、人生でやるべきことなんて何もなかったんです

エゴにしてみたらめっちゃつまらん話だと思うんですけど
せっかく自然の調和に乗って流れているものを思考が邪魔して疎外するくらいならただその流れを静観していたほうが楽だし幸せです。
厳密に言うと「私」はいなかったと思いだした後在り方が変わるために現実がめくるめく変化を起こすということはあり得ますが
基本的にはどんな状態、環境であっても幸せで満たされているというのが正確だと思います。
※この辺りに来ると心理的距離の話も人生脚本の話も無関係になります。

こうゆう話を聞くとどうすればその意識状態に移行できるんだ!と、エゴが躍起になります。
「私」はいない。私は神である。とか
私はいない、しかし、私は在る、とか
お前ー頭どうしたーと思われるような状態には自力で到達するものではなく
またその状態をエゴが掴み取ってしまっては元の木阿弥なので
本当に矛盾した話を一対にしてでしか書けないのが難です。

自力で到達しようというその”我欲”が邪魔になるのはなるようなんですけれど
タンクの中の感情の量に比例する気もしています。
いずれにしてもその人独自のペースに合わせて人物、文章、メディアに出逢っていきますし
必要な出来事が完璧に起こってきます。完璧なのです。
これは人間が顕在意識でコントロールできるようなものではありませんが
世界中のどの人生、運命も、必ず善い方へと向かっているということを忘れずにいてください。
救われていない人はいません。この世界は大乗仏教なのです。


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