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アート合宿を終えて、はじまりがはじまるまで

2020年の終わりに、絵を描く合宿に参加してきました。あーーーすごかった〜〜〜!
言語で説明することが正しい(あえてこの表現をしておく)のかよくわかりませんが、新鮮なうちにいろんな方法で残しておきたいなあとこれをガリガリ書く。

一体あの体験はなんだったんだろうなあ。
自分のすきなように色を選び、道具を選び、絵を描く。他者との対話を通して、受け取って、渡して、渡されて。

幸せで楽しくてしんどくて大変だった5日間を経て、自我が芽生える前から持っていたであろう感覚や執着や愛着をひたすら隠したりごまかしたりしてきたと気づいた。

全ての根源になっている感覚そのものにまなざしを向けてもらったはじめての体験だった。

自分というニンゲンへの認識が変わりはじめた、3Dの身体を持ったニンゲンとしてちゃんと生きてみるって決められた、そんなドラマチックな何かのはじまりのはじまり。

思いつくままに書いてみます。書くのしんどいぞこれ。

自己表現への違和感

音楽をガッツリやったり、グラフィックを描いていても、自己表現として自分自身が何かを作ることへの苦手意識、言語化できていなかったけど怖さや気持ち悪さがずっとあった。メンバーやクライアントの天才性をよりブーストさせる、外側の人にもわかるように形作っていくのがすきなのもある。

だから、アーティストではなく、ディレクターや広報や営業などの表現の方がしっくりくる。グラフィックもアートではなくデザインに近いなあとおもってきた。無理や我慢をしている認識はなかったし、たのしかったし、むしろそれでいいと。誰かの天才性の影に紛れていれば、自分のことは見られずに済むから。ポーズとしての常識人の立ち位置。

どんな目的でアート合宿に来たの?という問いに対しても、グラフィックコーチングのアップデートができたらな〜〜と答えていた。フィジカルを伴う方法で絵を描いてみたかったのもあったけど。

いま現在直面している課題も正直あんまり見つからないし、自分から何かが出てくるなんて想像してなかった。いま思うと、こいつ何しに来たんだ?って感じだな。あとこれはフラグだった。

はじまりのはじまり

それぞれが描いた種から大きな紙に伸びる根っこや葉っぱを描いていくワークをした。パレットに出していた絵の具をバターナイフで混ぜて、足で踏み、そのまま紙の上を歩く。

足を離した瞬間のパレットがすごくいいなとおもった。色は自分で選んでいるけど、そこから混ざる過程は偶然起こったこと。

▲何度見ても最高。待ち受けにもした。

理由はいらない。説明もできなくていい。既にそこにある、現れている。

言語で扱う危うさ

何をどう描くか、絵を通して体験したいことが訪れるように、場を作ってくれたしゅんさんと対話をする。しゅんさんは、繊細さと安定感と鋭さとふかさとあたたかさのある不思議なひとだ。ひらぺったい三角錐のつるっとした文鎮をちょっといい紙の上に置こうとして空気が抜けていく感覚みたいな。

言語の領域でできることはもうなくて、非言語のものを持っていないとなんか危険って感じがする。

危険ってなんだろうな〜となりつつ、対人支援職の危うさってそういうところにあるとおもってて、みたいな話をした。いま思うとつくづく自分自身から視線を逸らすことがうまい。逆に感心する。

アンプが壊れるくらいに、ギャーーンってでかい音をMAXで出してほしい。

言わんとしているニュアンスはわかったけど、やってみたいけど。それってどういうことだろう、どうなったらそれができるんだろう…

自分から何か描きたいものが湧いてくるのもうまく想像できなくて、これじゃない感と申し訳なさがずっとつきまとう。

色々を話す中で、パールの入った絵の具や、蛍光色の絵の具がすき、という話をした。

みんなが好んで使う色じゃないから、ちいさいのにしたんだよね。もへのにしちゃっていいよ。

マジか、みんなそうじゃないのか。と思った。サークル上になったたくさんのチューブの中でいちばんに目を惹かれていたとおもう。

▲円からはみでてすらいる

蛍光色の小さいチューブをポケットに入れて部屋までうれしく連れて帰った。顔に出てただろうな。

たぶん、怖かった

ようやくキャンバスに絵を描こうとする。大きいサイズのものをいきなりやるのはしっくりこなかった。もっと言うとたぶん怖かった。

余っていたちいさいキャンバスをもらって、意図を入れずに何かを描いてみようとローラーで遊んでみる。見た目は確かに好みのもののような気がするけど、音量も温度もスピードもぜんぜんMAXじゃない。このままの延長線上には何もない。

これは見られる用の自分で、平均点を取りに行ってる自分だ。100%自分の為だけに絵を描いているつもりなのに、純度が低い。

そのあとなんだかんだあって5枚ほど絵を描いたのだけど、そこらへんはまた別のnoteで。

▲左から4番目がそれ。

(あまりにもまともな写真がないところからも、いかに余裕がなかったかを感じる)

対話型観賞会にて

じっくり絵をみてもらい、それぞれが受け取ったものを渡してもらう。

強さと勢い、暗いときでも優しさと愛、現実の世界とちがうけどファンタジーじゃない近未来な感じ、実験をやってる楽しさ、見て!って出してる、これ好きだったんだでひたすら遊ぶ、くっついてる丸が分子ぽい、優しさ、儚さ、やわいもの、もっとボリューム上げたいんだな、確固たるすきなものはもうあるのに、わかりやすい美しさではない世界観にいる、マイノリティー的なセンス・色彩感覚、はじまりのYes、いい意味できれいじゃない、?!、エキセントリック、一見ふつうだけどちょっと変な人、ちょっとズレてる人が一番むずかしい、出したいものいっぱいあるんだろうな、遊んだ形跡、中にさわりにいきづらいものを出してくれた

いままで自分の人間らしさ部分や感情の動き、執着や愛着を持っている事実そのものに感じていた気持ち悪さや所在なさ、おもてなし用のそれっぽい自分とその中身との間のシャッターみたいなものにぜんぶ説明がつく感じがした。伏線回収が大胆すぎやしませんか。脚本書いてんの誰だよ。彼方のアストラ的な規模感。

絵を描くプロセスに正解はない。自分がグッとくればそれでいい。だからこそ、自然と立ち現れてくるそれらはイコールまるっと自分そのままだ。自分で認識できていない自分も含めて、作品には全部が載ってしまう。

だから、作品に対してそれぞれが感じること思うことを渡してもらうのは、時系列の概念すらない自分まるごとへの祝福になる。大げさでなく過去すら底の方からすくわれる気がした。これは救うでも掬うでもある。

キャンバスに現れる前の、色を選ぶ行為にすら、持っているものは出てしまう。これじゃ逃げようがない。ごまかしようがない。言語の領域ではぜったいに扱えない厳しさとやさしさが満ちている。

3Dのニンゲンとしての身体が乗り捨てられないみたいに、どうやっても変えようがなくすべての根幹になっている感覚そのものに光を当ててもらったんだなあ。

執着とは生きることそのもの

自分が自己表現の手段として何かを作る行為への違和感と重なるんだけど。自分が持っている、なにかや誰かへの執着や愛着をどこかおぞましいものと思ってきた。いまはじめて言語化できたところなのに、個別具体的な事例で大小思い当たるフシがありすぎる。

何か具体的な事象があってのトラウマや自信のなさとかではなく、いつのまにか自然にふつうにそうなっていた。おぞましいものがバレるから近づいてほしくないのと、でも近づきたいのとの間でいつだって揺れている。実態をつかんでほしくない、ありのままっぽくふるまいつつその実、観察者でいたい。

つながりを切りにいっているような感覚はもとからあった。モノもヒトももっと感覚的な何かも増やしたくなかった。パチンと消えられるならいいのになあ、みたいな。よくないよなあとは思ってたし、そうじゃない方向への揺れももちろんあったけど、静かにひたひたと潮が満ちるように進行していってる感じがしていた。

しゅんさんが言っていた、危険な感じがするってこういうことだったのかもしれない。ギリギリではないにせよ、キワを歩いていたんだろうな。間に合ってよかったよね。

(自分のことなのに、どこか他人のように書いてしまうのもここから派生しているよなあ)

執着も愛着も、なかったことにしない

各々が自由にそのままである姿を見ていたからか、次第に自分もおもったこと全部しゃべるようになっていった。

あー、この水筒めちゃかわいい〜〜とかどうしてもつぶあんが食べたい!!!とか。

▲あ〜〜かわいすぎる。ずっっと言ってた。引かずにいてもらえることのありがたさ。

出てきた瞬間無意識に切り捨てていたであろう感覚をじっと見ていて、自分が執着しているものがほんとうにたくさんあることに気づく。食感や感触のテクスチャー、光の加減やフォント、大事なひとたちの話す声や表情、仕草。確固たるものがもうあるってこういうことか。

自分でわかってやれていたのは、すきな服を着ること、自分のために文章を書くときの表現やひらき具合、音楽を聴く行為、ノリで料理、くらいかな。

▲もう、出てるやん!と言われた服。確かに。

正直なところ、気づいたばかりの怖さも気持ち悪さもまだまだあるけど、とりあえず一緒にいてみることにする。この胆力がついたのは言語でやれる領域をどっぷり扱ってきたおかげだ。いいタイミングだったんだな。

執着も愛着も、なかったことにしないでちゃんと取っておくところからはじめてみるつもり。いつだって気づいたところからすでにはじまっているし、はじまっていく。

▲3枚目が特に気に入ってる。アクリル板っていいよな。

▲年始に目標を立てるのもはじめてやったかも

年末年始でじっくりやれたのもよかった。つくづくラッキーだなあ。

各々のあり方や佇まいにとっても勇気をもらいました。ニンゲンみんな何かの師匠なのだよな。一緒にいてくれて、いさせてくれてありがとう。

ほんとうの、100%のたのしい人生がはじまっているし、ここから何度だってはじめていける。3Dのニンゲンをやるぞ〜〜

各位、もへ2021もよろしくお願いします!押忍!

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