自分から観測したほんとうのすこしへんてこな渡し方について
毎日まいにちnote書いてたころの、勢いのよさや流れが澄んでいる感じを思いながら。いまの気持ちは、この感じは今しかないんだな、とnoteを書いている。
アート合宿でみんなのチェックイン・チェックアウトを聴きながら、ビジュアルイメージでメモを取っていた。それは印象的なフレーズからであったり、想起した何かであったり。
役に立つことで居場所を確保しようとしている感じもありつつ、いつもの状態といい意味でちがうから面白くて、描きたかったから描いていた。
グラフィックコーチングのセッションをするときも、具体的な話とは一見関係のない絵をよく描く。質問したりフィードバックしたりしなくていいぶん、場に出ていることから着想したものだけ純粋に描く遊びをしていたようにおもう。
誰かの話を聴きながらそれをビジュアルイメージに起こす行為は、自分が描いているのに自分の意思でないものが混じっているからか、とても面白い。自分フィルターは通っているけど、モチーフとして描いたことのないものが出てくるというか。各々が自由にやっていたのでリラックス状態だったのもある。
そうやってイメージや空想を右脳っぽいスペースに浮かせていて、あんまり留めずに発生源のひとや近くのひとにぽいぽい渡していく中で傾向として気づきがあった。どうやら、自分は食感とか触った感じとか密度からモチーフを引っ張ってくることが多いらしい。
特に食べものがよく出てきた。ごまあんまんとかわたパチとか、カロリーメイトとか春巻きの端っこのカリカリとかピーナツバターとか。これは、そのときおなかが空いていなくてもあまり変わらない。
あとあれか、オノマトペの類。み゛っとかめちっとかフスーーーとか。たまにジェスチャーも入ったりする。これは直接会ってないとできないけど。
なんでなんだろうなあ、と不思議におもっていたのだけど、ストレートに理解してもらうためなんじゃないか説が濃厚。ごはんを食べるってニンゲンの共通言語だし、オノマトペは音で完結してるもんな〜〜。
おそらく、相手が音楽をやっているなら音色みたいな伝え方も混じるとおもうし、服がすきで生地の名前で伝わるひとならそれも出てくる気がする。ストックは無数にあって、いちばんしっくりきてストレートに伝わるものを選んで渡している感じ。
結局、あなたに伝えたい、あなたと近づきたいだけなのだ。なるほどね。話題という意味での領域も広い方だとおもうけど、それもたぶん同じ理由が混ざってる。
夏にも似たようなことを書いていた。
自分が相手に寄せていくのが常だったけど、手加減なしでいったん出してみるとどうなるんだろう。ふつうのひとは誰かの印象を何かに例えて言うことをそもそもしないんじゃないか?ともおもうけど。やっぱりどこかちょっとへんてこなのだなあ。
まあいいや、その凸凹を削ぎ落とさないでいると決めたのだし。それがいいよと言ってくれるひとたちがいるもんなあ。
年末年始の一連のプロセスは、ナルニア国物語でいっとうすきな”朝びらき丸 東の海へ”に出てくる、竜がライオンのつめでむかれてゆくシーンの感覚に近い。あれくらい痛かったけどふりかえればそれくらい劇的だった。
腕に食い込んでいた腕輪が外れ、ゴツゴツしていた体表面はしなやかで、ちいさく身軽になっている。そんな感じ。そのままいきたいね。AND THE BEAT GOES ON!
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