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「絵を描く」がある人生

自分のために時間を作り、場を用意してもらって、まるまる二日間絵を描いてきた。たのしかったなあ。「絵を描く」を自分の人生に招き入れてからもうすぐ一年が経つので、ふりかえりをしつつ思うことを文章にしてみる。

2020.12

描きはじめたのは昨年末。自分が創るものを気に入る想像が一切できなくてのたうち回った。その瞬間は言葉にできなかったけれど、描いて何になるんだろう?どうしようもないガラクタができあがったらどうすればいいの?となっていた。

最終的には今までないものにしてきた感覚や回路がある事実にひれ伏した。自らが認めようと認めまいと、もうすでにずっとあるんだから仕方ない。全面降伏のはじまり。

よくない意味でみんなと違うけど、それが天才性に変わるほど突き抜けたものではないと思って生きてきた。強固なようで実体のない「普通」になろうとしたり、文句を言わせないような選択でねじ伏せようとしたりしてきたんだよなあ。

2021.05

今年のゴールデンウィークにも描いていた。場所も日程も同じだったけど、一緒に場にいる人によって全然違うんだなあと思った。

最初は引っかかりがあったけど、100枚ドローイングをしてからギアが変わったような感覚。ストイックに数を追うことで見えてくるものがある。

キャンバスに相対したときの感覚がまったく違ってびっくりしたなあ。引っかかりがなくなって、するする〜〜って出てきた。絵にたくさん触ったり、時間や目や手をかけたりするのは、自分自身にその価値があると思えていないと途端に難しくなる。

誰かになろうとしなくてよくて、なんかもうそのままですでにあるものがあって。自分が美しいと思うものを自分の手で創り出せるのは救いであり癒しであり。

何事も中途半端で純度を上げられないと思っていたけど、そんなことなかったんだなあ。あれもこれもすでにあるよね、と気づく。どうやらずっと存在していたらしいそれの輪郭を触って、その感覚だけを頼りにかたちを作る。それをひたすらにやって、身体がバキバキになった。たのしかったなあ。

2021.11

昨年末のアート合宿で描いたもののうち、何枚かを更新しに。

絵の具とキャンバスに向かうのはゴールデンウィークぶりだったので、うまく入れるか心配だったけど、そんなことなかった。自分のエンジンのかけ方がわかったからか、回路がスムーズになったのか、場所を整えてもらったからか。しばらく乗っていなくても自転車に乗れなくなることはなく、その感覚を身体が憶えているのと似ている。

「絵を描く」が日常のものになったことにも気づいた。自分のためにすこしいいコーヒーを淹れるくらいのなんでもないこと。特別ではない。平熱なフラットな状態ですぐそこにあるもの。

便宜的に理性と感性とに分けたときに、どちらにも振り切れてはいないけどどちらものある程度深い領域があるということがわかるというのはギフトなのかもしれないな〜〜とも思った。間を行き来することにも耐性があるし。

ふつうとかまともになりてえ〜〜とか、ちゃんとしなきゃ〜〜って思ってたけど、そうじゃなくても別にいいんだったということを思い出すために絵を描きに行った。ということに帰ってきてから気がついた。言語が後から追いついてくることがある。

言語ですべてが説明できるような全能感を持ったり、全てを言語で説明しなければならないような切迫感がつきまとったりするけど、そんなに世界も自分も小さくない。

非言語の領域だからさわれるものがあるし、切り捨てずに済むものがある。日々に流されていると簡単に忘れてしまうので、時折握り直す機会を持ちたい。

ここからの旅路

まだまだ描いてみたいものがたくさんあるし、描くことやそこからはじまる色々を通してすきなものや感覚を思い出したり気づいたりしていきたい。例えばこういうのとか。たのしい人生!

ゆるく規則性があるものがたくさん並んでいるようす
複数の意味を持たせること
各自がやりたいことをやりたいだけやって出来あがるもの
立体をそうと見えるように表すこと

インスタグラムのアカウントも作りました。キャプションを書くのがたのしい。描きたいものを描きたいだけ。

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