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On Air from Fukuoka #5


コウジ(以下K):今回の "on air from fukuoka" 、これまでは80年代、90年代にシーンを湧かせてきた先輩方にインタビューを取らせて頂きましたが、それに続く90年代半ばから90年代後半の福岡のシーンに改めてスポットを当て、僭越ながら当時シーンを引率してきたワタクシ(fame the mod)とシーンの顔役バンドとして活動してきた小野タケシによる対談形式のインタビューとさせていただきます。
長文、ローカルな話になりますが皆様に楽しんでいただけたら幸いです。
小野さん、本日はどうぞ宜しくお願いします!

小野タケシ(以下O)、よろしくお願いします。


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①<空白の数年から福岡モッズシーンの再燃>

80年代後半からシーンのみならずクラブイベントの核ともなった "60年代研究所" の先輩方の活躍も90年代半ばに差し掛かる前にはメンバーがそれぞれの道を追求しだし、僕らが熱くなりだした94年、95年には事実上福岡にはモッズシーンはなかった(いたのだがそれぞれが少人数の仲間での行動だったのでは?)と思われる。
ファッション誌、音楽誌、モーターバイク誌…様々なメディアがこぞってモッズを特集していた90年代半ば。
全国的にモッズリバイバル期になる95年頃、福岡のモッズシーンも再度盛り上がりを見せてきた。
ファッション、スタイル、アイデンティティなどが東京を発信源として全国に飛び火した筈が、ここ九州では独自のスタイルでシーンを盛上げてきたのだ。
始まったのは中央区高砂にある某マンション、集った3人の熱い思いがそうしたのだ。

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K:先ずは小野さんも含めチームで主催してましたクラブイベント UP TIGHT(以下アップタイト)のお話を聞かせて下さい。

O:普段、小野さんって言われなれないからむず痒いけど(笑)
アップタイトは1996年から1999年まで開催したイベント。
95年に自分が福岡に戻って来て、中学の頃からの悪友(Sagara)が「紹介したいやつがおるっちゃけど」と紹介してくれたのがNABE(イベント主催リーダー)でした。
ナベとルームシェアしていたサガラともう一人、これも中学の頃からの悪友マツオが住んでいて一緒につるむようになったのかな。
そこでドラムを叩けるナベとベースの僕で「バンドやりたいね」と始めたのがORANGEというバンド。

1ORANGE、ビブレホールにてライブ

※ORANGE、ビブレホールにてライブ

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※ORANGE、HEATBEATの楽屋にて(手前:小野タケシ、奥:尾前)


O:バンド活動を続けていく内に嗅ぎ付けてきたコアなモッズ達が1人、2人と増えてきたことで、皆が集れる60s、モッズをキーワードにしたイベントを立ち上げる事になった…それがアップタイト。
日頃からクラブ遊びをしていたナベ、サガラはもともとレコード収集もしてたこともあってDJにも興味を持ち始めた。
スタート時の主催メンバーはナベ、サガラ、小野タケシ(僕)。
記念すべき1回目のDJがナベ、西野くん、タカシ(*1)、そしてフクシマだったかな。

2UP TIGHT vol. 1プライヤー design by Fukushima

※UP TIGHT vol. 1フライヤー design by:Fukushima


K:僕自身も初回から遊びに行かせて頂きました。
まだ高校生というのもあり主催、メンバーの方々からはとても可愛がって頂きました。
熱い3人から始まり、バンド、DJ、イベントと活動の範囲がもの凄いスピードで進んでいくわけですが、福岡初?とも言えるモッズスクーターチーム "The Chocolates" をバンド活動と同時期くらいに結成されるわけですがメンバー、エピソードがあれば聞かせてください。

3The Chocolatesステッカー  design by

※The Chocolatesステッカー design by:小野タケシ

4The Chocolatesメンバー photo byプッシュロッド

※The Chocolatesメンバー photo by:プッシュロッド

O:メンバーは6、7人くらい?
サガラが始めにランブレッタを買った。お店の名前は出せないが当時1番悪名高いお店と言えばリアルタイムの人には伝わるのでは?!笑
LI の3型で赤・白をベースにしたジミランを少し意識した感じ。当時ベスパは走ってるのはよく見かけたが、ランブレッタに乗っている奴なんてモッズではない人ですら居なかった時代。
それに続いてナベがランブレッタLIの1型を同じく悪名高いお店で購入(笑)あのランブレッタはトラブルだらけだった記憶が(笑)
バンドORANGEのギタリストで長身イケメンの尾前はGPランブレッタ(その後アップタイトDJのタカシに売却)。
アキラは地元のプッシュロッドでLIの2型を(現在この車両のオーナーは僕です)スカイブルーとホワイトのシンプルなスクーター。あいつのファッションに対する拘りは凄かった。東京のボストンでいつもオーダーしてたくらいだからな。

5スクーターラン

※UP TIGHT前のスクーターラン
左上は入江氏とTV200、右下のベスパは広島The Rearsから脇坂が自走で参加

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※Sagara / Lambretta LI series III

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※Nabe / Lambretta LI125 series I

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※Takashi / Lambretta GP

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※Fukushima / Vespa standard


O:長崎にいたフクシマはベスパスタンダード(今はVBBって言うのかな?)
長崎に住むことになって連絡をしたらヤツはスタンダードに乗って現れた!高校の頃、フクシマより先にベスパ乗ってたのは僕らなのに(笑)一気に越された感じ。

K:確かに!小悪魔倶楽部(小野、マツオ、サガラで結成されたスクーターチーム。大分県日田市にて)の方が早かったですよね!(笑)

9小悪魔倶楽部

※小悪魔倶楽部(左から→松尾、相良、小野)
1992年、九州モッズのメッカと言われる日田市にて結成。それに続き福島はスタンダードを購入。
更なる若い世代はベイリーズのノブ、キミ、キンヤ、福島(弟)と日田市出身のモッズだけでも当時のイベントに8名もいたことになる。

K:主要人物の6、7人がDJ、バンドをやってスクーターに跨がり、ファッションにも拘る。今考えても若い僕らにしてはお金が幾らあっても足りないスタイルですよね。拘りが強ければ強い程…
金銭的にも情報的にもこのスタイルを貫く事が過酷な中、メンバーでモッズという知識・表現をトータル的に熟知されているのがフクシマさんの印象でした。
フクシマさんはチームメンバーよりもスクーターをデコレーション(フルデコの手前)してたし、DJでの選曲も1番詳しい感じだった。
何よりフクシマさんは顔がモッズ顔なんですよね(笑)

O:当時長崎では "ピートさん" ってあだ名だった(笑)
90年代前半、長崎はロカビリー、サイコビリーなどが強く、モッズスタイルはほぼ皆無な状況。
そんな中、フクシマと僕はデコレーションしたベスパに乗ってたので、街の中ではかなり浮いた存在だった。
デコレーションしたベスパなんて僕ら2人以外見た記憶がなかったからね。
フクシマは好きなものをとことん突き詰めるヤツで、自分が知らなかった60年代の深いところやその先の音楽の流れとか、悔しくも1歩、2歩先をいってたね。
音楽、ファッション、カルチャー全てにおいて彼はよく知ってた。元々頭良かったし(某国立大学進学)(笑)
彼がずっと福岡にいれば中心人物になってたと思うし、福岡のモッズシーンも、もしかしたら変わっていたのかもしれんね。

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※Fukushima @Fukuoka Tower Photo by:プッシュロッド

K:フクシマさんは初回もあわせて数回のDJ出演で九州を離れる(上京される)訳ですが、アップタイトのメインアクトとして活動されていたバンド "ORANGE" についてもう少し聞かせてください。

O:モッズリバイバル期プラス、アシッドジャズの余韻があった為か、DJイベントにロックバンドではなくクラブサウンド系のバンドが出ることが定着してきた時代だったとも言えますね。
レパートリーもジャクソンシスターズの "I belive in miracles" やブランニューベビーズなど、まさに時代にいい影響を受けたニューモッズスタイルだったと感じます。
テンポの早いダンスナンバーだけでなくオーティスレディングやアイズレー・ブラザーズなどゆるく踊れる曲(カバー)も多かった。
とにかく <フロアで踊れる> グルーブ感を意識していたかな。

11オレンジ

※ORANGEメンバー
左上、Nomiyama 右上、Omae
左下、Nabe  右下、Takeshi Ono


K:アップタイトだけでなく人気クラブイベントはDJの合間にメインアクトとしてバンドが出演する事は珍しいことではなくなってきた時代でしたね!
例にあげると、ナンバーガール(現ザゼンボーイズの向井さんのバンド)、ロレッタセコハン、スカロケッツなど、後に全国区になるバンドばかりですね。
DJとバンドが一夜で楽しめるイベントは多かったし、どっちも楽しみにしてるお客さんは多かったと思う。
あとはUFO(ユナイテッド・フューチャー・オーガニゼイション)のレーベルからデビューし、ここ福岡でも人気があったスモールサークルオブフレンズなどはクラブ系アーティストの先駆者ともいえその影響は大いにありますね。


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②<DJタカシが中心に再スタートした第二期アップタイト>


ナベを中心に始まったこのイベントもメンバーがそれぞれの道を歩むようになり1人、また1人シーンから去っていく。
モッズという現在進行形ならではの宿命なのか短い期間でシーンを去る者は少なくはないと思われる。
バンドORANGEも解散、それと共に頭角を表してきたのが初回からDJとして参加する "Takashi"(以下タカシ)がリーダーシップをとってイベントを動かすようになる。
モッズクラシック、60s、70sソウルだけではなく、ジャズ、ラテン、レアグルーブ、クロスオーバージャズなど幅広いジャンルへと広がっていった

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1左、Takashi(20歳) 右、fame(コウジ18歳)

※左、Takashi(20歳) 右、fame(コウジ18歳)


K:僕にレコードの深いトコを掘ることを色々と教えてくれたのが タカシさんでした。僕の音楽に対しての師匠とも言える方。
現在の師匠はモッズ的風貌は微塵もありませんが、当時シーンの中では1番レコードを買っていてノーザンソウルというジャンルにいち早く着目したDJです。DJだけでなく何よりファッショナブルでダンスが1番うまかった。

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※UP TIGHT vol.1〜vol.3
左上、Takashi、Omae 右上、ORANGEライブ
左下、初回のUP TIGHT 右下、Sagaraライブ乱入


O:遊びにきてた大半の女の子はタカシのダンスに釘付けだったよね!あいつモテてたからなぁ。

K:確かに!レコードの取り扱い以外にも、女性の取り扱い方も教えてもらいました(笑)
タカシさんは女性だけでなく僕も含めた後輩(男の子)にも支持されてましたからね!ホントに面倒見のいい方でした。
ノーザンソウルの追求と野田啓太郎(*2)さん(当時1番人気のあったレアグルーヴDJ)との出会いにより、7インチに特化したレコード収集となり、始まったのがソウルミュージックオンリーイベント<Soul Dressing>(以下ソウルドレッシング)。
更に99年ケブダージ氏の初来日(来福)がそれに拍車をかけたのだと思われます。
今やワールドクラスのネームバリューとなった神戸のヌードレストランですが、そのキタアキさん達に次ぐノーザンソウルにスポットを当てたイベントがソウルドレッシングだったと思われます。
これは事実として述べますが、ケブが99年に来日した際に全国を8ヶ所くらいツアーしてますが、当時のケブは既にディープファンクを推奨してて、その中でもノーザンソウルを色濃くプレイしたのは神戸と福岡だけみたいです。
ブルードレスのフリーペーパーにもその時の記事が記載してありましたが、東京よりも、神戸、福岡がノーザンソウルの盛り上がりが凄かったみたいですね!

3ケブダージ

※ケブダージ氏、初来日(来福)
左、全国ツアーフライヤー 右、福岡版フライヤー

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※左、野田啓太郎 中央、ケブ 右、コウジ 2001年@Club O/Dにて


O:ケブダージ、トータルで4、5回はタカシが共演してるけど初回の "BEAMS PRESENTS" ジャパンツアーイベントは相当盛り上がってたね!
2周年くらいからかな?良くも悪くもアップタイトのDJはそれぞれが個性を追求しだしてタカシはノーザン、アキラはアシッドジャズ・クロスオーバー、西野くんはジャズ、ラテンなど決して悪い事ではないのだろうけどモッズイベントという枠からはもう卒業した雰囲気もあったのでは?
2周年あたりから集客も含めそういった低迷期だった。そこで若い血を入れて変化させようと、白羽の矢がたってコウちゃんがDJとして参加するんだよね?

K:はい!
タカシさんのお誘いでDJをやる事になりました。200枚もレコードなかったと思います(笑)
しかもデビューDJの時は何故か全てスカで選曲するという。。。
ただ僕もvol.14、15、16と3回の参加で惜しくもファイナルになりました。
後にも先にもタカシさんとレギュラーをご一緒させていただいたのはこれが最後でした。ただその限られた時間の中で、どうやって集客をするのか、イベント当日の主催者の動き、誰よりも1番楽しみピエロになること、など色んな事を教えていただきました。
タカシさんの名言集はまた別の機会を設けたいとおもいますが1つ紹介するとすれば…
「DJは酒が強くないとつまらんぜ」

5UTふらいやー

※UP TIGHTフライヤー
vol. 1、vol. 3を除いて全てTakashiのデザインによるもの。
敢えて60年代の写真を使わずにオリジナルのデザインに拘っていた



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③<ニュージェネレーション達によるオリジナルモッズへの動き>


99年4月、アップタイトは2年半の歴史に幕を下ろした。
今考えると低迷期の時期に既にDJ達も燃焼していたのかもしれない。
丁度、会場のキースフラックが中州から親不孝に移転したのをきっかけにタカシは "Soul Dressing" 、追いかけるようにコウジは 99年3月"Groovin'at the Go Go"(以下グルーヴィン) をスタート。
この4人の新しい動きによって更なるコアなモッズシーンへの扉が開かれたのである。

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※98年末頃に初の<Soul Dressings>フリーペーパー
この時はユニット名がソウルマスターズと記載
この時のメンバーがタカシ、ユウイチ、アキ

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※Groovin' vol. 1 design by:fame(コウジ)


K:アップタイトのダンスフロアを盛り上げてたモッドダンサー、ノブ(BAILEYS)、ユウイチ(Soul Dressing)、優一郎(現在広島在住Take Five所属)の4人が集まり
「もっと60s主体のコアなモッズイベントをやりたい!」という僕の誘いを元に始まった感じですね。
アップタイトはドラムンベースや70sジャズ・ラテンなど僕ら4人にとってはチョット大人っぽ過ぎました。タカシさんのノーザンソウルの時間以外は少し退屈だったんですよ…(モッズ以外の音楽に詳しくなかったので)

O:確かにそうやったよね。
アップタイトってモッドクラシックから始まりノーザン、アシッドジャズ、それからドラムンベースやジャズ・ラテンとある意味進化していった感があるよね。この頃はいわゆるコテコテのモッドなレコードをスピンするDJはいなくなってたからねえ。

K:僕ら4人だけでなく60s、モータウン、クラシックを求めていたお客さんは多かったと思います。
ブルードレス程の年代定義はありませんが
モッズ= 60年代サウンド+ファッション+ダンス+スクーター
というコテコテの疑似体験を僕らもしたかったのだと思います。
DJみんなスクーターにも乗ってましたしね。
僕はGS160、ノブはSX200、ユウイチはLIの2型、優一郎は相良さんから引き継いだLIの3型。それ以外にも仲間のランブレッタが3台、スモールベスパが3、4台はいたと思う。
現在のモッズシーン同様この時期からランブレッタの方が人気だった!
ただ今振り返ると僕ら4人が1番いいスクーターを持っていたにも関わらずスクーターシーンを盛上げる事が出来なかったのは1つやり残した悔やみでもあります。実際レコードにお金と時間を使う事の方が優先だった、それくらい音楽に没頭してましたね。
僕らを含めあの時のスクーター乗りは車両をフルレストアしてオリジナルのカラーリングで所有することがゴールになってしまってた。
ビンテージアクセサリー、ライト、ミラーなどのデコレーションに対する知識も全くなく、いいお手本となる先輩方も居なかった。
1人でも皆をリードできる知識・センスを持ったスクーターリストが居れば違っていたのかもしれません。

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※【Push Rod presents】Scooter Run
左上、Mitsu / Lambretta 150 LI series Ⅱ
右上、fame the mod / Vespa GS 160 mk1
左下、Nagatani / Lambretta LI series Ⅱ
右下、SPY(Numbers!) / Lambretta LI series Ⅰ

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※@Kego park
左から→mitsu、Nobu(SX200)、Kinya(TV)、Yuichi(LI150)
photp by:Yuichi(Soul Dressing)

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※Groovin'前のスクーターラン
左、fame(コウジ) 右、Kenji(Arrows名古屋)
photp by:Yuichi(Soul Dressing)

O:それ解る!
僕も高校生の時にスモール、スプリントと乗り回していたけど、22歳になる頃には優先順位はバンドでベースを弾く事だったし。
スクーターって1人で楽しむ時間が多いじゃない?バンド、DJとかって複数の人間で作り上げる音楽と空間な訳だから、徐々に仲間が増えだした事でその個人主義ではなくチームで何かを産み出す楽しさってあるかもしれない。
ORANGE解散後に結成した "BAILEYS" (以下ベイリーズ)なんかはメンバーが歳下だったこともあってバンマスは僕だったから特に自分の主張も持ちつつチームで作り上げる楽しみがあったよね。

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※Groovin'のフライヤー
デザインは全てfame(コウジ)作
尊敬するタカシからの影響が出まくるレトロフューチャーなシンプルデザイン

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④<シーンの顔役バンド "BAILEYS" 参上!>


一度でもイベントをオーガナイズした人はわかるであろう。
お祭り(イベント)にはメインタイムが必要だ。
それが生演奏と書いてライブなのだ。
ORANGEの解散後、アップタイトのフォロワー達が集って結成された若手ソウルバンド "FINGERTIPS" が登場。
それに続きシーンのキーマンでもある小野タケシが "BAILEYS" を結成。減速してたと思われる福岡モッズシーンの風車が1つ増え2つ増え、新たに回り始めたのである。

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※モータウン、60s、カバーバンドFingertips
メンバーは全て19歳。その後、岡山ファンキーブロウドウェイにも出演を果たす

K:ベイリーズの活動は99年のアップタイト(ファイナル)がデビューになった訳ですが、バンドの音楽性や参考にしてたアーティストなどあれば聞かせてください。

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※99年に結成時は4人でスタートしたBAILEYS
その後サイドギターのKAZU(写真右)が加入


O:コンセプトはまずヴィジュアル系バンド(笑)
ボーカルのノブのファッションスタイルや、僕のマッシュルームカットなど見た目がモッズ的だったし、わかりやすい "モッズバンド" にしたかった。
最初のバンド名の候補は "3つボタンズ" とか "ザ・スリムパンツ" とか解りやすさ重視で皆で話し合ってたよ(笑)
でも流石にそれは…ってことで当時僕が1番ハマっていたクリーム系のリキュールから名をとって、ベイリーズってバンド名に決まったんよ。
音楽性もビジュアル同様で
「誰もが知っているモッズが好きそうな曲をやろう!」って始めた事もあって、メンバーそれぞれのモッズとは?というのを各々で考えカバーしたい曲を持ち寄ってスタジオに入るという感じ。
ノブと僕以外のメンバー3人はモッズというカルチャーにどっぷりという感じではなかったので、勉強しながらハマっていく感じでしたね。

K:メンバーそれぞれが良くも悪くもキャラクター(役割)があり、その音楽性をうまくミックスされた感じがしました。
ノブはサムクックやオーティスレディング、ヘアのルイさんが好きでしたよね。小野さんは60sガレージ、パンクからソウルと歳相応の幅広さ。
他のメンバーもミッシェルガンエレファント、ブルーハーツが好きとか、音楽性が違っても共通ワードはやはりR&B(不良)だった感じがしますね。

O、そっかあ。そんな風に見てくれてたんやね!当の本人たちは何も考えてなかったと思うよ(爆)
ま、その音楽性の統一感の無いギアが噛み合った時の奇跡(グルーヴ)がカッコいいことが産み出せたのかなと思うねえ。
<オーディエンスが踊れる曲・体を揺らせる曲>というのは意識してたかも。
ノブのボーカルスタイルは最初は歌のウマいヤツって感じやったけど、いつやったか広島でルイさん(元THE HAIRシンガー)と一緒にやらせてもらった時に

「黒人の曲をカバーするならちゃんと日本語訳して意味を理解し、そのアーティストの気持ちになって魂を込めて歌う事が大事なんだ」

とノブの憧れだった人から直接師事していただいたことが効いたのか、そこから本格的なボーカリストとして成長したね。
当時ミッッシェル・ガン・エレファントが絶頂に人気あったのもあってサイドギターのカッティングはアベフトシの影響をモロに受けてたよね。
その後カバーだけでは物足りなくオリジナルも作るようになったかな。
根底にはメンバーみんなR&B的な音楽(不良音楽)が好きだったと思う。

K:パブロック、ガレージ、パンクへの影響も強かったですよね。要は何かしら1つのテーマに紐で繫がってさえすればそれぞれの考え方でいいのでしょうね!
ベイリーズとグルーヴィンに共通してたのも<踊る><ファッション><リズム&ブルース>でしたしね!
ノーザンソウルはクラブミュージックの原点、R&B(モッズ)はクロスオーバー文化の原点だというのが僕個人の見解です。
当時のモッズはソウル、リズムアンドブルース、ジャズ、ラテン、ブリティッシュビート、スカ、様々なお国の音楽はもとより黒人も白人も関係なく手を出しているユースカルチャー。
こんなカッコいいカルチャーは後にも先にもモッズだけでしょうね。
それだけに追求のあまり枝分かれしていくのでしょう。

O:核心をついたね!!!

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※@Groovin'
左、Takumi(Fingertips) 中央、kimi 右、fame
キミちゃんは大阪や名古屋のメーデーに遊びにいくほどの熱いモッドダンサー
photo by:Yuichi(Soul Dressing)

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※@Groovin'
左上、左から→福島(弟)、ミッチー、優一郎、コウジ、小野タケシ
右上、Kasumi & fame
左下、アップタイトvol.1から関わってるカスミちゃんは、途中からORANGEのハモンドオルガンとしてメンバー加入
右下、グルーヴィンのゲストライブにカプチーノ(神戸)がきた!真ん中のお友達はマリちゃん

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※ブルードレスの影響もあって、ここ福岡でもストロールを踊るようになった。
ただ福岡の場合はロカビリーとの交流が深かった為ロカビリー仕込みのストロールになっている
photo by:Yuichi(Soul Dressing)

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※@Groovin' 【THE HOOVERS】
photo by:Yuichi(Soul Dressing)

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⑤<遠征!岡山ファンキーブロウドウェイ〜大阪モッズメーデー>


98年、古着屋<日英同盟>(*3)の店長をしていた小野タケシのとこにある客が来店した。
岡山でバンド活動をする<PICO>のメンバーMだ。
この2人の出会いによって福岡モッズシーンが更なる発展に繫がるとは知る由もなかった。

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K:その僕らにとってのターニングポイントになったのが99年、若手バンドの遠征として一緒に遊びに行った岡山のイベント <ファンキーブロウドウェイ>ですよね!
DJはR&B主体で、皆が列になって同じダンスをする<ストロール>や<マディソン>を初めて見た事は今でも鮮明に覚えているくらい。
各地のフェイス達、京都の山田悟さん、名古屋のタクさん、岡山の月野さんなどDJ陣を見てもレベルの高いイベントでした。
ハモンドオルガンが入ってる本格派バンド<Les Cappuccino>、黒いリズム&ブルースを自らがハードモッズと名乗り男らしいステージングの<PICO>などのライブも衝撃的でした。
土地柄(福山市)もあってかやたらスキンズの人が多いのも印象的でした。

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※@Funky Browdway 【Les Cappuccino】

O:あれがすべてのキッカケだったね。今思えば。

K:僕はファンキーブロウドウェイで受けた刺激、一緒にイベントを始めたノブは大阪に住んでた事もあってイベント<Move On Up>に通いつめていた。メンバーの赤松さんとは頻繁に連絡を取りレコードの知識を教えていただいてたりレコードを譲ってもらったりしていたと聞いております。
ユウイチはタカシさんからの影響をキッカケにノーザンソウルにのめり込み、気がついたら誰よりも早く海外にレコードをメールオーダーしてた。
優一郎は地元の大分・佐伯のカリスマモッズ、ヒロフミくん、マキオさん?(名前間違ってたらすみません)に高校生の時から一緒にツルみモッズの英才教育を受けていた。もちろん酒の飲み方も。
それぞれが独自に影響を受けてきたルーツが1つとなったイベントがグルーヴィンでした。

O:九州では感じる事ができない本州は岡山に集結した各地のフェイス達との出会いがそれぞれが刺激をもらえた貴重な時間だったよね。
僕がベイリーズを結成するに当たって大きな刺激をもらったのも同様にファンキーブロードウェイやね。
ORANGEではクラブ寄りな音楽をやってたんだけど、なんかもっと激しさが欲しくて。と言うかもっと解りやすくモッズを表現したいと思って。
その時に岡山でPICO(カーブレイターズの前身バンド)を観たのがキッカケ。PICO自体はLOWELL FULSOMとかやってたんやけど、もの凄くその時ブルースを感じたんよね。
その後、自分が思うモッズ的バンドをやろうとすぐさま行動に移す。
まずギターはアップタイトに来ててET3に乗ってたミヤザキを誘った。ミヤザキはアップタイト初期DJフクシマの弟の後輩という事もあってモッズという知識も持っていた。
それから2人で「メンバー探そう!」って。
実はこの時に既にアップタイトファイナルでライブやる事を決めてたんよ(笑)
それからボーカルはコウちゃんとグルーヴィンを立ち上げたノブ。この3人で始まったんよね。
ファンキーブロードウェイは、2018年のモッズメーデー福岡にも出演してもらったカーブレイターズのシュウくんや、チョコメイツのサラちゃんとか、その後の僕のイベントでの出演に繫がる良い出会いだった。
あの日岡山に行ってなければベイリーズも存在しなかったと思うしね。

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※FAKESの武田氏が作ってくれたフライヤー(2000年)

K:それに引き続き翌年の大阪モッズメーデー2000に参加したことも同じくらい刺激でしたね!
ベイリーズが出演することが決まり僕も同行させていただきました。港に面してるムーディーな雰囲気に出迎えられ、エントランスを通ると体育館以上にデカい会場にはVJが大きな映像を写し、ステージの脇には認められた選ばれしクールなスクーター達が10数台展示されており、会場内の雰囲気に圧倒された事を思い出します。

O:大阪メーデ-の出演キッカケは、それこそ前述のファンキーブロードウェイの時のMくんや、シュウくん達からの紹介で出させてもらったんやったなあ。
初の県外ライブがまさかのメーデーだなんて、ワケわからんよね(笑)ありがたかったです。
共演者にはあのカプチーノなどを筆頭に強者揃い。カプチーノもその大阪メーデーが初だったっと後でTommyさん(JUMP THE GUN)に聞きビックリ!
まだ南港のベイサイドジェニーがメーデーの会場として使われていた頃です。大きな会場でマジ足がすくんだのを思い出しますね(笑)
メーデーでの自分たちのライブ自体はどんなのやったかよく思い出せないけど(笑)、大阪まで高速使って行く道のりとか、大きな会場での興奮とか、バンドメンバーやコウちゃんとの密な時間や刺激的な体験が、よりみんなの結束力に繫がる実のりある時間だったね。

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※ベイリーズが出演した2000年大阪モッズメーデーのフライヤー。会場は今はなき南港のベイサイドジェニー
DJにはレジェンド黒田マナブ氏も参加!

K:大阪メーデー、岡山ファンキーブロウドウェイ、ワッキー、田村などの広島オールザットモッズなど県外での経験が刺激になって、地元での活力になっていたのは間違いないですね。
99年にまだ20歳という若さでモッズメーデー福岡を開催できたのもその刺激が背中を押してくれたのが大きいですね。
勿論、ベイリーズも含め周りの仲間の手助けがなくては出来なかった事だと思います。

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⑥<僕らの集大成ともなった福岡モッズメーデー2000>


イベント"グルーヴィン"、ベイリーズの活動によりシーンのアピールとして間口が広がったこともあり、モッズ、60sへと門を叩く者も増えだした。
毎週水曜日を帯に<レアグルーヴ>、<50s VS 60s>、<ノーザンソウル>、<モッズ>、キースフラック(*4)にて夜な夜な繰り広げられた。
タカシは野田啓太郎と共に<7inch Hunters>というイベントを立ち上げよりコアな道へ。
それぞれの力が強まったことが2000年のモッズメーデーの開催へと繫がった。
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※フェルジ(東京)を迎えての最高動員数と盛り上がりを見せたモッズメーデー福岡2000。
design by:Takashi(Soul Dressing)

O:あの頃手探りで始まった新たな福岡のモッズシーンは色んな人たちとのご縁や刺激があって形が出来て行ったんやね。
そして2000年の5月には福岡では2回目となるモッズメーデー。コウちゃんが仕切ってくれて「福岡で本格的にメーデーが開催される!」と興奮したね。
出演者は勿論のこと協賛をとって、フリーペーパー作成・配布など今迄にはないシッカリとした形でのメーデーの開催はコウちゃんもかなり大変だったのでは?

K:日々の積み重ね、人と人の繫がりをモッズメーデーへ詰め込んだだけです。やるだけはやりました(ちゃんとやれませんでしたが笑)
その後、キースフラックのディレクションとしてイベント開催やクラブシーンを作る事をお仕事にしていくのですが、
まぁ2000年のモッズメーデーはその後振り返ると色んな方にご迷惑を掛けたと、お恥ずかしい限りです(笑
やった事もない事にあれこれ挑戦しすぎましたし、チームとしてのオーガナイズが出来てないのが最も反省すべき点でした。
現にスクーターランの仕切りまで頭がまわってなくて、当日になってランの仕切りをFuku(福太郎)にお願いしたくらいなんで。
最後のフェルジのお見送りもMatch(マッチ)がやってくれたし。

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※【modsmayday fukuoka 2000】Scooter Run
Hayashi Kou(*5) (The Numbers ! / PHELGE)

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※【modsmayday fukuoka 2000】Scooter Run


O:色々あったと思うけど、でもそれをやった事が後のシーンに繋がっていくわけやし、福岡がモッズというキーワードを意識しだした良いキッカケやったと思うよ!
個人的にも2000年の福岡メーデーはターニングポイントでしたしね。
メーデーの目玉と言えばやっぱ、フェルジの出演やったよね!
ノブがかなり興奮しまくってたのを思い出すね(笑)
フェルジに来てもらったのはどういった経緯やったかな?
ハヤシくんとコウちゃんの繋がりからやったよね?

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※PHELGE (from Tokyo)

K:あれこれ大きい事に挑戦したウチの1つがフェルジに出演をお願いした事ですよね!
僕も覚えてませんが恐らくハヤシさんとのやり取りがキッカケだと思います。
当時の東京モッズシーンでも人気絶頂のバンドということで話題性もあり反響がありました。
個人的にはバンドメンバーの大半がスクーターチーム【The Numbers!】の面々という事もあって緊張感マシマシでした。
当日の仕切りなどの忙しさもあって、木村さん(CAMEL)とまともにお話出来なかった事が今となっては悔やまれます。

O:僕らも、あの開場前のリハの時からのCAMEL氏のオーラはビシバシ感じて緊張しまくったな。

K:緊張感と期待感を胸にフェルジを招いた2000年のモッズメーデーでしたね!
当時、福岡モッズシーンのベストメンバーで迎え入れ出来たのではと僕は自負するバンド・DJラインナップだったのではと思います。

80sモッズバンド"ザフェイクス"の復活、

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※THE FAKES(80年代エリーキャット前にて)

踊れるコアなナンバーを繰り広げる"ザ・フーバーズ"、

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※THE HOOVERS

グルーヴィンのファーストライブから瞬く間に人気を手にした和製R&B"ザ・ヤング"

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※ザ・ヤング


ブルースを下敷きにサイケデリックなサウンドを奏でる兄貴達 “トリオ・ザ・レインボウ”

そしてシーンの顔でもある"ベイリーズ"

主催者としての働きの中、正直イベントの内容を断片的にしか覚えてないのですが(笑笑
ただバタバタしてアベコベなメーデーだったにも関わらず
出演者も合わせ総勢350名の方に来ていただけたというのは、福岡のシーンに一石を投じれたのだと思います。
しかも日曜日だったし!笑!笑
出演者、お客様、次の日仕事の方が大半だったなか今振り返ってもフェルジの方々には申し訳ないですね。

O:そうやね。コウちゃんの言うようにその当時の最強の布陣だったよね。DJ、バンドに加えファッションショーも開催したよね。
音楽、アート、色んな分野の <MODS> に興味がある人たちが集結してたよね!

K:DJ陣もベストメンバーでしたね!
7inch Huntersからタカシさん、のちにグルーヴィンのレギュラーDJに加わる久留米モッズの雄・豊島さん、スカシーンからはスカロケッツのゲストヴォーカルとして活躍するセレクター・プリンスシロアリ、グルーヴィンからは僕とノブ、ノーザンソウル、レアグルーブ、スカ、モッズ、これからの福岡を盛上げて行くDJがここに集結できたのでは?
ファッションショーに参加したブランドAsymmetric(アシメトリック)の石野田マリちゃんは当時の若手ブランドとして注目されてた実力者。
シーンのイベントにも毎回参加してくれてて音楽、ダンスとトータル的にカルチャーに没頭してくれてた当時のモデットのリーダー格。
60s、ビートルズなどが好きな兄の影響もあって幅広い意味でのビンテージ感を現代風に落とし込んでいたブランドKATSUSHIGE(カツシゲ)の長瀬ヒロコちゃん。
この2人もバンドと同じくらい時間と費用を使ってこのイベントを成功へと導いてくれた立役者です。この場を借りて改めてお礼を申しあげます。
2人とも未だファッションをお仕事にしてると聞いております。嬉しい限りです。

O:2000年の福岡メーデーをキッカケにそれぞれが進む道?みたいなのを確立されたのではないかと思ってるね。
ベイリーズはあのライブでベースをぶっ壊して暴れたのがきっかけで音楽の方向性はよりガレージになっていったかな。
メーデー以降はバンドメインの主催イベントをスタートし、ガレージ系のバンドも多く出演してもらったね。それこそフーバーズとはよくやったなあ。メンバーチェンジもありオリジナル曲も増えてきて、2001年には京都のMETROでカプチーノやJackFlippersと演らせてもらって、その後、大阪メーデーに2回目の出場。この時の大阪はニートビーツが一緒だったなぁ。

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※ベイリーズ出演の京都METROでのCAN'T STOP MOVING!のフライヤー

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※ベイリーズ2年連続出演の2001年大阪モッズメーデーのフライヤー
カプチーノも2年目、ニートビーツやカーブレイターズ、スピークロウも出演


そして8月には主催イベントで姫路のBUNNY'Sに来てもらいましたね。そのイベントでベースの人(僕か?!笑)がまたやらかしたんですけどね。
ステージから飛び降りて靱帯切って入院(笑)
ごめん。自分のことばっかやったね(笑)

K:小野さんの笑える武勇伝!笑!笑!
とにもかくにも、皆さんの協力もあって無事メーデーも終わった訳ですが、メーデー以外にもあの時は100人規模のパーティーを毎月何かしら主催したりDJとして出演したりと、イベントが終われば翌日から次のパーティーに着ていく服を考えて、自身のイベントだったらフライヤーデザインも自分でやってたし、それに向けてレコードを買っていくという、ほぼ毎日モッズの事を考えていました。
出演者(ゲストDJ、ゲストバンド)を考えるのも大変でした。
毎回楽しみにしてくれているお客さんに満足してもらいたい事を考えると、ありきたりなメンバーでなく新鮮味あるラインナップにしたくて、知られざるバンドを発掘して出演してもらったり(ザ・ヤングのデビューはグルーヴィンだった)、時にはロレッタセコハンみたいにネームがあるバンドをモッズイベントに出演させる事もありました。
出演していただくとなると、そのバンドやDJさんのところに顔を出して挨拶したり、その後のお礼も言いにいったり。
始めは10人で手を繋いでいた小さいサークルも50人、100人で手を繋げば大きくなる、そう信じて頑張ってきました。
モッズでありながらも日に日に僕はイベンター的なエンターテインメントの方に力を入れていたのかもしれません。
いつしか僕はモッズシーンの中だけで認められることではなく、街の中のクラブイベントとして格好良く在りたい…そういう考えに徐々にシフトチェンジしていきモッズを窮屈に感じ、表現の場を変えていったのです。

メーデーをやり終えた事がゴールではなく、あの時の熱意と自信を胸に僕らはスタートラインに立って飛び立った…そう信じてます!

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シーンを支えてきた看板バンド、ベイリーズは自身のライブイベントや京都、大阪のモッズイベントへ出演。その後解散(2004年のモッズメーデーで一時復活)

ザ・フーバーズは有名なプライベーツの九州ツアーに同行その後ニートビーツの真鍋氏のレーベルから7インチをリリース。

50sハイティーンズはガレージシーンの人気バンドへと飛躍し全国からオファーが絶えないほどの人気バンドへ。

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最も出世したバンドとしてはザ・ヤングは人気絶頂で解散。裏話としては誰もが知る某有名アーティストのプロデュースでデビューの話がきたにも関わらず、自分達の音楽性を大事にしたいという理由で断ったという。

シーンの主要DJ達は

タカシは福岡でケブダージ、ジャズマン、フロリアンケラー、DJ JIN、デブラージ、などと共演・主催。ノーザンソウルからレアグルーヴへと活躍の場を移行した後、上京。
上京後、日本のファンクレアグルーブのトップDJ黒田大介氏と渋谷roomにてレギュラーイベントに参加。

グルーヴィンの後期にレギュラーDJとして参加した豊島は、その後名古屋へ拠点を移し名門イベント<DANCE CRAZE>へ加入。
以前から好きだったファンキーミュージックが高じてイベント<OILY>を立ち上げ名古屋の人気DJへと活躍の場を広げた。

オリジナルメンバーの浅野優一郎は広島モッズシーンのフィクサーとして活躍。ケブダージ、ブッチ、Night Fox Clubクルーなどと共演・主催し広島にはない音楽の土俵を開拓した。暖簾分けになる<7インチハンターズ広島>を年に1度開催。

2000年のモッズメーデーでシーンの火が消えたと思いきや…
翌年、明太子モッズ "阿部カンタ" の出現により福岡のモッズシーンの歴史が新たに動き出すのである。

続く…

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◆Special Thanks

(文章内に出てこなかったお世話になった方々のお名前です。20年以上前の記憶なので漏れがあったらすみません)

また当時の雰囲気や懐かしさも感じてもらいたいのでカッコ内は当時の所属、勤務先を表記しております。

ジュークレコード
ボーダーラインレコード
チクロマーケット
ビッグビート(久留米)
田口商店
Groovin'
オールディーズジャパン(埼玉)
日英同盟
ジキル&ハイド
トランジット(イエローサブマリン)
文明開花室
La Gare
リージェンツ
エリーキャット
monogrim
Hard to Find
チャーミン
ラブマーケット
Sakura Hair
キースフラック
Hi Numbers
プッシュロッド(那珂川)
ベローチェスクーターズ(熊本)
フェニックス
バルコン六本松
キョーエイ服飾
PUBLIC REBEL STORE(長崎)
クランプダウン(長崎)
GOLD RUSH(長崎)
BANZAI STORE(長崎)


キンキー康さん(ジュークレコード代表)
小田さん(キースフラック代表)
坂田さん(当時クラブO/Dのディレクター)
あるじ(文明開化室・日英同盟・ジキル&ハイド代表)
田代さん(ラブマーケット代表)
ヒロコさん(当時タワレコの店員さん)
武田ユウジさん(サイトBlow Up管理人・The Fakes、現在→武道家)
小出水さん(Taboo代表・60年代研究所)
横山さん(Sakura HAIR・60年代研究所チルドレン)
寺崎さん(stellar R)
原さん(ソウルソニックバー)
寺田さん(長崎PUBLIC REBEL STORE店主)
藤井さん(当時monogrimスタッフ、現在→KRANK/marcelloオーナー)
アッくん(ジキル&ハイド、現在→バー・モア店主)
マドカ(日英同盟、現在→カラフルブティック・モア店主)

ユカリ(日英同盟)
アキくん(ジキル&ハイド、Soul Dressing)
西村慎一郎(バンドCutie Jhons)
西田大輔(Groovin' at the Go-Goスタッフ)
長井さん(Let it Rock、現在Saloon YOLO)
シンキチ(Let it Rock、現在→Billys Weekender)
タクミさん(ラブロック)
takumi(バンドFingertips)
マツクマ(バンドFingertips)
カサイさん(バンドFERRIS WHEEL)
クック(ベイリーズヘルプドラマー、現在→バンドV.S.HONOUR)
ユウゴ(ベイリーズ後期ドラマー)
マキちゃん
ユウコさん
まきちゃん
メイちゃん
ノリちゃん
マコちゃん
リコちゃん
エイコちゃん

< "Groovin' at the Go-Go" 出演者>
-Guest Band-
BAILEYS
THE HOOVERS
ザ・ヤング
Thee 50's Highteens
The Fakes
Trio The Rainbow
ロレッタセコハン
Les Cappuccino (from KOBE)
Special Ska Spy
Cutie Jhons
Fingertips
mellow yellow
Soul Flies

-Guest DJ-
Takashi (Soul Dressing)
Keitaro Noda (7inch Hunters)
Igawa (Channel 5)
H.I.G.O (Pet Sounds)
Akira Nishitani (GOLD)

-Regular DJ-
Kow-chang(fame the mod)
Nobu
Dr. soul(Yuichi)
Harper(Yuichiro Asano)
Toyoshima(Toyo The PIMP)

◆注釈

*1) Takashi(タカシ)
"Afro-Tee"という名義で東京都内を中心に活動するブラックミュージック(ノーザン・ファンク・レアグルーヴ)DJ。
現在、"Ryuhei The Man" と渋谷Roomにてレギュラーイベント<Sound and Friend>にて活動。

*2) 野田啓太郎
ジャズ喫茶を営むレコードコレクターの父親の影響もあって幼少のころから音楽にのめり込む。90年代初頭からDJ活動を開始。
福岡での第二期レアグルーヴ世代の代表的イベント<EVOLUTION>主催。
99年、念願のケブダージ氏の来日に合わせここ福岡でも主催、成功を収める。現在主流ともなっている7インチのみでのDJプレイというスタイルを90年代後半から実践していた功績は大きい。

*3) 日英同盟
1996年福岡市大名にオープン。
店名からわかるように日本の古着とイギリススタイルの古着を取り扱うお店。98年から小野タケシが店長を勤める。
モッズ達の交流の場としてエリーキャットに並ぶホットスポット。

*4) キースフラック
来年で27年目を迎える福岡の老舗クラブ。
90年代当初はロカビリー、モッズ、スカ、パンクなどのイベントが行われる。UP TIGHT〜Groovin'〜NAME GAMEなど福岡の主要モッズイベントが開催されてきた会場ということもあってメーデーの会場として使われる事が多い。
現在はハウス・テクノのダンスミュージックからヒップホップ・ソウル・レアグルーヴなどのブラックミュージック、オープン当初から根強いパンク・ハードコアのライブなど新旧問わず楽しめる箱。
欧米を中心にワールドクラスのDJが幾度となくプレイしてきた。
国内有名アーティストとの繋がりも強いお店なのでテキーラを一緒に乾杯したら隣の人がまさかの有名人だったという事もあるかも?!

*5) Hayashi Kou
熊本市出身。九州を代表するモッズ。
熊本モッズシーンをひと通り盛上げたあとの90年代後半に上京。
スクーターチーム "Tne Numbers !" へ加入。同時にCAMEL氏のバンド "PHELGE" のドラマーとして活躍。
近年はスクーターリスト、靴職人としてのイメージが強いが、ここ福岡でも96年アップタイトvol.1(バンド名不明ベーシストで参加)、2000年のモッズメーデーではPHELGEで楽器奏者としてのパフォーマンスの顔も見せている。
現在、熊本を拠点に "maison de chatnoir" の靴・鞄などのレザー職人として製作・販売を行っている。

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