2022年3月15日B→C バッハからコンテンポラリーへ240 瀬川裕美子(ピアノ)

瀬川裕美子(ピアノ)
北爪裕道(エレクトロニクス)*

J.S.バッハ/北爪裕道編:カンタータ第20番《おお永遠よ、雷の言葉よ》BWV20から「おお永遠よ、雷の言葉よ」*
シューマン:「天使の主題」による変奏曲 WoO24
ブーレーズ:ピアノ・ソナタ第3番(1955-57/63)から「コンステラシオン」
北爪裕道:リインカーネーション ── エクステンデッドピアノのための(2022、瀬川裕美子委嘱作品、世界初演)*
バルトーク:《ミクロコスモス》から第148〜153番「6つのブルガリア舞曲」
湯浅譲二:プロジェクション・トポロジク(1959)
J.S.バッハ:フランス風序曲 BWV831

バッハ…電子音の中からカンタータが聴こえてくるのは劇的効果はあるけれど、楽曲の行間が完全に規定され、広がりが消えてしまう。むしろ時折ピアノのみが聴こえる部分のほうに遥かに奥行きが感じられるのが皮肉。

シューマン…ラインナップを見たとき、バッハからシューマンに繋ぐという趣向に、ミヤギフトシの映像作品「ロマン派の音楽」(2015)を思い出し、興味深く思っていた。ところが、実際に曲が始まると、左右の運指のタイミングが微妙にずらされ、拍節感がどんどん失われていく。敢えてそのように弾いているのか。変奏によっては、不思議なアクセントのために波に呑まれた主題の断片ががちらちら見えるかのような印象。ホントにこんな感じの曲なのかなあ。

ブーレーズ…こういう作品のほうが性に合う人なのかなと考えつつ聴く。この作曲家らしい響きやフレーズが聴こえてくるけれど、シューマンの印象のせいか、何となくじめっと感じられる。

北爪新作…最初のバッハ同様、「エクステンデッド・ピアノ」ということで、ピアノの響きを拡張しようとする新たな試みとの由。AI制御により、ピアノの音をリアルタイムで取り込んで電子音響を生成するシステムらしい。だけれど、結局ピアノの生音と電子音との掛け合いや合奏の域にとどまっているように聴こえる。シュトックハウゼンで言えば「マントラ」よりも「コンタクテ」に近い印象。

バルトーク…舞曲集のはずなのだけれど、ドライブ感が全く無い。音と音とが小気味よく切れていかない感じ。変拍子のはずなのだけれど、全ての拍が同じ重さで、どの曲も1拍子であるかのように聴こえる。

湯浅作品…ブーレーズよりもさらに手の内に収まった感があり、落ち着いて聴ける。だけれど、それは全体にわたって明確なリズムが聴取しにくい作品だからではないかなどと思う。

フランス風序曲…バルトークでの違和感がさらに剥き出しになった形。小節の感覚が恐ろしく希薄で、曲によっては2拍子か3拍子かさえ俄には判然とせず、ワンフレーズが長大な一小節であるかのように聴こえる。しかも、不意に溜めが入るので4/5や7/8などの変拍子に感じられる。奏者と自分との拍節感の乖離のせいで「酔った」経験は初めて。ものすごく消耗した。
よろよろと帰途につきつつ、自分の中にあるバッハ像の強固さに驚いた。

西洋の伝統音楽において小節は煉瓦のようなものかと思う。形と大きさがきっちり同じだから、コツコツ積み上げて大きな構築物ができる。規格が揃っていなければ当然ガタガタになる。前期・後期ロマン派にしても同様で、基盤に厳格な compositionality ないし modularity  が存在したからこそ、それを徹底的に腑分けするセリーという書法も誕生し得た。とするなら、かつ、バッハを起点とする今回の趣旨からするなら、古典作においては拍節感を保持するのが基本だったのではないか。仮にそれを消し去っていくことを趣旨とするなら、もっと相応しいやり方があったはずだ。しかし、今回のプログラムからはそういった企図は汲み取れなかった。アンコールにプーランク「この優しい顔に」を弾き語り。(東京オペラシティ・リサイタルホール)

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