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サントリーホール サマーフェスティバル2023 所感まとめ

サントリーホールで毎年開催されている現代音楽祭、今年の「プロデューサー・シリーズ」は作曲家、三輪眞弘氏のプロデュースにより「ありえるかもしれない、ガムラン」をテーマに展開。また、テーマ作曲家としてオルガ・ノイヴィルト氏を迎え、トーク&作曲ワークショップ、オーケストラ作品、室内楽作品それぞれの個展が開催された。いつになく勤勉に通うことができたので、自分なりの勝手な所感をまとめてみたい。

今回のフェスティバルの主役は何といっても、ブルーローズに設られた、四阿風の構築物(プロジェクト•ディレクション:KITA)だった。ここがプロジェクト型コンサートEn-gawa の舞台となった。長く伸びた庇はこぢんまりとしたホール空間の中で若干窮屈そうであった。けれど、その同じ庇のもとに演者も観衆も集ってきて、音楽や舞踊、影絵などさまざまな出し物を楽しんだ。その周囲には、屋台が出たり、演者たちが持ち寄った品物の物販もあった。ホール奥の、通常公演の際には床がせり上がってステージとなるあたりが、腰掛けられる程の高さに階段状に上げてあり、その端には今回のプロデューサー三輪眞弘氏による時報マシーン(マーティン・リッチズ氏と共作)が設置されていて、定時に音が鳴る。階段のそれ以外の場所は、時にはガムラン楽器が置かれて舞台ともなったが、客席として解放されている時間帯もあり、横になって寛ぐ人の姿も見られた。

普段のブルーローズの、扉によって外部と隔絶される空間ではなく、開演時間内は自由に出入りできたところがよかったと感じる。来るものを拒まず、去るものを追わず、といった姿勢は、ガムランが内的に備えている性質かと思う。ガムランは音階は、日本音階にも近いのだけれど、確実に異国的に響く部分を有している。そうした性質によって、わたくしたちにとっては、ちょうど日常と非日常を繋ぐ機能を果たすのかもしれない。

以前にも一度、ブルーローズが普段とは異なる様相を示すのを目撃したことがあった。それは、ケージ生誕100年の催しとして上演された「ミュージサーカス」だった(サマーフェスティバル2012内企画。この折にも確か今回のプロデューサーの三輪氏が関わっていたと記憶する)。献茶式に始まり、舞踏、室内楽がホール内のいろいろな場所で、同時多発的におこなわれる。時折会場隅に置かれたテスラ・コイル(杉本博司氏による)がばちばちと音を立てる。終幕は、福島にいる大友良英氏と映像で繋がり、2つの会場で一般応募者が加わっての演奏といった内容だった。まさに「サーカス」の様相を呈しており、観衆は出し物を求めて右往左往した。ケージは音楽のみならず、社会の在り方のようなものについても思うところがあったのだろうななどと、不思議な空間の中に座って、ぼんやりと考えた。

今回の En-gawa はもちろん「ミュージサーカス」とは全く方向性が異なってはいた。が、いつもは固く閉ざされている扉を開け放った点では共通する。閉じ込められれば音楽は停滞する。人の集まりも同じである。

大ホールで現代作品のコンサートを聴いたあと、ガムランの音が響く小ホールに移ると、ほっと肩の力が抜けたのが印象的だった。ガムランの音の柔らかな響きの効用もあったと思われるが、それ以上に、En-gawaの、聴いてもいいし、聴かずにいてもいい、出ていってもかまわないし、また戻ってきても良い、という融通無碍な雰囲気が働いた。

伝統的な音楽の享受は、一定時間行儀よく席に座って黙って耳を傾ける姿勢が基盤にある。En-gawa も「ミュージサーカス」もそういった規制を取り払った点が眼目である。聴衆は、その場にとどまるか否か、聴こえてくる音に注意するか否かを自らの意思で決めて良い。漫然と聴くもよし、注視するもよし、だが、主体的に求めなければ得られるものも限られてくる。奏者→聴衆という一方向的な需給関係を固定しない。したがって聴き手には自己の行動に関して一定の意思を持つことを求められることとなる。音を生成することと、音を聴取することとを同じ重さで捉えるといっても良いか。奏者と聴衆の関係性を、双方が意識しつつ変えることである。特にEn-gawa においては、ガムランの、特定の楽器や指揮者が差配するのでなく、奏者同士が互いに深く聴き合いながら演奏を展開していくという性格も大きく作用したに違いない。

En-gawa での奏者と聴衆が緩やかに繋がる雰囲気がブルーローズから、最終日の大ホール公演「Music in the Universe」へと流れ込んでいった。

「ありえるかもしれない、ガムラン」は、「ありえるかもしれない」という一見弱腰にさえ見える形容なのだけれど(挟まれた読点もその印象を強めている)、実は「ガムラン」のみを修飾するのではなく、わたくしたちの音楽聴取一般にかかるもの、という見解が背後にあったのではないか。三輪氏の音楽は(今回、明確に氏の作品として提示されたのは、件の時報マシンと、やはり常設プログラムの「4ビット・ガムラン」のみだった)、コンセプチュアルな性格が強いと個人的には捉えている。今回の企画は、三輪氏ならではのものだと考えた次第である。

サマーフェスティバルのもう一つの柱であるテーマ作曲家ノイヴィルト氏の音楽は、ごく微細なズレの蓄積が、音楽を展開させていくという部分が重要な特徴の一つだと感じた。この作家独自の音世界に入っていくには、その微細なズレを、奏者のみならず聴衆もある程度は共有することが鍵となる。ここでも聴取が持つ役割は大きい。ノイヴィルト氏の音楽とガムランとは、重なる部分は少ないと思われるが、一段抽象化したレベルで通じ合うところがあった。その意味で、今回の二つの柱は、おもしろい形で共振しあっていたのではないかと思った。

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