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オペラシアターこんにゃく座公演 オペラ「リア王」

こんにゃく座にとって7作目のシェークスピア・オペラとのことである。実に見ごたえのあるオペラ。

舞台装置

舞台装置はこの一座らしくごくシンプル。舞台中央に円形のステージが設けられ、奥のほうがわずかに高く、手前に向かって傾斜がつけられている。その真上、かなり高い位置に金属製の四角い枠が吊るされている。そして、その枠の内側に白い球体が下がっている。球体さまざまな色の光を放ちながらゆっくり上下し、天体や雷光をあらわす。その光は金属製の枠に反射し、その場その場の状況をきめ細かく表現する。

ことばとナンセンス

あまりに有名な物語である。冒頭、リア王は、三人の娘に向かって自分への愛が最も深い者に最も豊かな土地を譲ろうと述べ、それぞれ己の考えをことばにせよと言う。ここで、王がうわべのことばしか信じないところから悲劇が始まる。王はなぜ娘たちにうわべのことばを求めたのか。単に耄碌したせいなのだろうか。

ことばには情報的に有意なものとそうでないものとがある。後者、つまり、それによって何ら情報が伝達され得る可能性がないことばの典型がナンセンスである。

道化のことばも、狂人のことばもナンセンスである。
王は「狂う」以前から道化を寵愛していた。

道化のことばは、うわべはナンセンスだけれど、毒や皮肉の背後に真実を含んでいる。王が正気を失い始める嵐の場面で、道化たちは「娘に許しを乞え」と、まともな発言をする。全て心得ていて、無意味な言説を放出し続けるのが道化の職務である。王は、そのことを知っていたはずだ。しかし、王は道化のことばの裏側を正確に読み解くことができない。道化が繰り出すナンセンスに対して、「何を言っておるのだ」としか返すことができない。

王にとって道化のことばは耳の娯楽であったのではないか。何を言っているのかはわからないけれど、次から次へとテンポ良く繰り出される、わずかずつ毒を孕んだことばたち。王が道化を手放せないのは、うわべが心地よく感じられることばのみをひたすら消費する姿勢による。

王は上の娘二人に裏切られたことで精神の均衡を失い始める。ただし、初期の段階においては「きちがいにはなりたくない」と述べる。正気と狂気の区別がー少なくとも本人のつもりとしてはーついていたこととなる。

その後、王の言動はさらに狂気を帯びる。正気を失った王は、狂人のふりをするエドガーに惹きつけられる。ここでも、王はことばのうわべにのみ反応している。ただし、狂ってはいても、二人の娘の裏切りに憤慨し続けており、二人を裁く裁判劇をはじめたりもする。

そして、草の冠を被って登場する王のことばはさらに常軌を逸しているが、エドガーは「狂気の中に理性が含まれている」と証言している。

昔話

王に三人の娘がいて、上の二人は性悪で強欲、末娘が優しくて誠実というのは、昔話の建て付けである。
しかも、王は思いついたように領土を分割して娘たちに分け与えると言い出す。さらに、どの人物も、その時その時の課題や欲望には忠実に取り組むのだけれど、長期的展望を欠き、視野狭窄とさえ感じられる。昔話の登場人物たちは、小沢俊夫氏の議論によると「内面を持たない」とされる。本作の登場人物にも当てはまる。

王がうわべのことばのみを受け取るのは、内面を持たぬ人物という設定ゆえではないか。

終盤に入って主要人物がばたばたと命を落とす。舞台表現としては劇的になるけれど、個々の死の描かれ方はあまりにも軽い。

このように、さまざまな点において、「リア王」は昔話や寓話の構成にみえる。

モラル

ところで、昔話は教訓を伴うことが多い。寓話は文字通り寓意を持つ。本作中、主たる登場人物たちは、道義上許容されえないおこないを重ねていく。キリスト教において「七つの大罪」とされる次の7項目を次々に実践していくこととなる。さながら、罪のカタログである。

傲慢 強欲 嫉妬 憤怒 色欲 暴食 怠惰

リア王の姿勢は終始「傲慢」である。エドマンドが物語の進行に従って増長させていく権勢欲やオズワルドの出世欲は「強欲」に当たるだろう。コーンウォールは「憤怒」に任せてグロスターの両目を抉る。ゴネリルとリーガンはエドマンドによって「色欲」に溺れていく。そして、エドマンドをめぐってゴネリルとリーガンは互いに激しい「嫉妬」を抱く。オズワルドはゴネリルの指示で、王に対してなるべく馬鹿にした態度をとるが、これは一種の「怠惰」と言える。また、姿を変えたケントが登場し、リア王と対面する直前、王が食事の支度を急かすのはーやや強引かもしれないけれどー、「暴食」に当たるのでは。というふうに、話のモラル(教訓)がてんこ盛り状態である。

以上のように、本作は寓話の形を用いた戯曲、否、むしろ、戯曲という枠組みを使って、最大限に手の込んだ寓話を構築するといったところに眼目があったのではと思える。

物語が王の気まぐれから始まる点では、「森は生きている」と重なる。「森」では超自然的な力によって、女王もむすめも救済される。けれども、本作においては十二の月の精のような存在が降臨することはなく、王も末娘も破滅してしまう。シェークスピアは、世の中の実相をあくまでもドライに捉えたのである。

音楽と芝居のこと

上村氏の演出により、AB両組とも、作品との間に絶妙な距離が保たれており、長めの上演時間もさほど気にならなかった。上で記したような、昔話や寓話に通ずる構造とよく調和する舞台の創り方だったと感じる。

救いのない話のはずなのだけれど、観終わった後のなんとも爽やかなこと。それはひとえに萩氏の音楽のおかげだろう。親しみやすい表情を浮かべつつ、いつもどこか切ない。かと思えば、冷徹な現実を突きつける厳しい表情にもなる。ドライな物語が、美しい音楽と相まって、激し過ぎず、それでいて観客の気持ちをそらすことのない、程よい重量のある舞台空間を作り出していた。

器楽はピアノ、サックス、コントラバス、打楽器という編成。冒頭部分をはじめ、要所要所で鋭く打ち込まれるボンゴや金属製楽器によって緊張感のある舞台が繰り広げられた。ケントと淑女の場面だったか、コントラバス一本のみが歌に寄り添う箇所はしみじみとした味わいがあった。サックスはソプラノからバリトンまで持ち替えで、それぞれの場面によく合う音域と音色が選ばれていた。四人の楽士が好演。佐々木氏のコントラバスの音色が素晴らしい。

終盤のエドマンドの独白の場面や、最終場をはじめとして、コーラスの使い方が巧みで劇的だった。

娘三人が役代りのダブルキャスト。A組(鈴木あかね@ゴネリル、豊島@リーガン、小林@コーディリア)のほうが、B組(鈴木裕加@ゴネリル、川中@リーガン、入江@コーディリア)より少しだけ作品と役者の距離が近く感じた。おもしろいのは役代り以外の役者さんの芝居も組によって微妙に違うところ。
あかね@ゴネリル、豊島@リーガンは妖艶、ドスの効いた台詞回しにどきりとさせられる。裕加@ゴネリルは狡猾さを巧みに表現。これまで悪女という役どころは珍しかったのではと思われる川中@リーガン、夫を殺める場面での絶叫の迫力。
佐藤@ケントはなりを変える前後での演じ分けが見事。富山@オルバニーは重厚な存在感。体当たりの泉@エドガーは表現がどんどん深まっていった。島田@エドマンドのニヒルな悪役ぶりは見応えがあった。彦坂@オズワルド、欲に目が眩んだ小悪党なのに、どこか憎めない人物を熱演。沖&金村@道化の息の合ったやりとりが見事。
大石@リア王は見るたびに重厚さを増していた。狂気を帯びていく過程を丁寧に辿っており、感服。

出演者・スタッフ

【出演】
リア王:大石哲史
ゴネリル(リアの長女):鈴木あかね(A)/鈴木裕加(B)
リーガン(リアの次女):豊島理恵(A)/川中裕子(B)
コーディリア(リアの三女):小林ゆず子(A)/入江茉奈(B)
ケント伯爵(リアの忠臣):佐藤敏之
オールバニ公爵(ゴネリルの夫):富山直人
コーンウォール公爵(リーガンの夫):北野雄一郎
グロスター伯爵(リアの重臣):髙野うるお
エドガー(グロスターの息子):泉篤史
エドマンド(グロスターの息子):島田大翼
オズワルド(ゴネリルの執事):彦坂仁美
道化1:金村慎太郎
道化2:沖まどか
淑女(ブリテン王国に仕える人物):青木美佐子
フランス王(コーディリアの夫)・兵士:沢井栄次
バーガンディ公爵・兵士:吉田進也
使者・刺客:冬木理森
人々:鈴木裕加(A)/鈴木あかね(B)
人々:川中裕子(A)/豊島理恵(B)
人々:入江茉奈(A)/(B)小林ゆず子
サクソフォン:野原孝
コントラバス:佐々木大輔
パーカッション:高良久美子
ピアノ:服部真理子(A)/入川舜(B)

【スタッフ】
原作:ウィリアム・シェイクスピア(小田島雄志訳による)
作曲:萩京子
演出:上村聡史
美術:乘峯雅寛  
衣裳:宮本宣子  
照明:阪口美和  
舞台監督:大垣敏朗 
音楽監督:萩京子
宣伝美術:ワタナベケンイチ(イラスト)・片山中藏(デザイン)

【提携】
公益財団法人武蔵野文化生涯学習事業団

【主催・制作】
オペラシアターこんにゃく座
(2024年9月13日〜23日 吉祥寺シアター)

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