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ジョン・ケージの四季

プログラム
ジョン・ケージ:《4分33秒》
小杉武久:《 INSTRUMENTAL MUSIC 》
ジョン・ケージ:《ある風景の中で》
小杉武久:《 ANIMA 7》
水面下: 《A-Un》(世界初演)
ジョン・ケージ:《四季》
小杉武久:《 MICRO I 》

出演者
ピアノ=横山博
コンテンポラリーダンス=水面下(Osono、青沼沙季)

音響: 成田章太郎
舞台美術: 福田真太郎
照明: 植村真
撮影: まがたまCINEMA
アシスタント:川口桂生(Instrumental Music)

助成: 公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京 【東京ライブ・ステージ応援助成】、公益財団法人朝日新聞文化財団
協賛: ファツィオリジャパン株式会社

1947年に初演された舞台作品「四季(Seasons)」。ジョン・ケージの作曲した音楽は出版されているが、舞台のヴィジュアル、マース・カニンガムによる振り付け、イサム・ノグチが手がけた衣装などの詳細は不明だという。この幻の作品を再構成する試みとのことで、カニンガムの舞踏団の音楽監督を務めた小杉武久によるインストラクション作品も併せての公演。

4'33"…今回は初期稿を用いたとのことで、ブランクの五線紙を捲っていくことによる演奏だった。最初にこのバージョンの演奏をデビッド・チュードアの動画で観た時は、強い違和感を感じた。よく知られている、3楽章とも"Tacet"というバージョンと趣旨が全く異なっているためである。だが、ケージが拘ったと思われる聴取という点からすると、この初期稿では奏者も、奏者を注視する聴衆も、そこにないはずの音をひたすらに「聴く」こととなる。これはこれで成立するのだと思い至った。いわばエア聴取、否、トマソン建築の一つ「純粋階段」と同様の意味での「純粋」聴取と捉えることができるのである。(当初のケージの心積りとしては、「純粋聴取」経由で「では何が聴こえるか」という問いかけに持っていくつもりだったかとも思われる。その上で、ならば初めから全曲"Tacet"のほうが話が早い、となったのかもしれない)

Instrumental Music︎…奏者は何らかの楽曲の演奏を開始するが(横山氏は鍵盤ハーモニカを使用)やがて中断し、身体の動きも止める。正面から照明を当て、後ろの模造紙に映った影を助手が切り取る。行為の任意の一瞬を抽出する作品である。そこはかとなくポップ・アートの時代を感じる。

ある風景の中で…青沼氏の身体の動きに魅せられる。身体全体はゆっくりの動きをしつつ、手先・足など身体部位は非常に細かく目まぐるしく活動していることがわかる。そうした複雑な動きの複合体としての身体表現と対置される時、ゆったりと揺蕩うような音楽の中にも、細かな動きが見出されていくように感じる。

Anima7…こちらは先の“Instrumental Music"とは逆に、通常は一瞬で終わる行為を可能な限りゆっくりおこなうことで、行為の細部に意識を行き渡らせる。マインドフルネスそのものである。横山氏は、上着の内ポケットからスマートフォンを取り出して写真を一枚撮り、再びポケットに収めるという行為を選んだ。欲を言えば、動きはもう少しゆっくりでもよかったか。

A-Un…プログラムに掲載された、パフォーマーのお二人へのインタビューで、青沼氏はダンスというより、身体を使って「音楽を演奏する」つもりでやっていると語る。身体を自在に使っての表現だけれど、動作に伴う小さい音がマイクによって拾われて拡声される。行為を聴覚の面から拡大鏡で覗くような感じ。終わり近く、コンタクト・マイクで嚥下音や「内臓の鳴る音」が抽出される。いささかどきりとするけれど、耳をそば立てずにはいられない音。身体全体を柔軟に使う表現で、豊かな可能性を蔵していると感じた。

四季…本作は、「4つの部分からなる弦楽四重奏曲」(1949-1950)と同様、4つの季節に対応する4つの部分を持つ。ケージは古代インドの思想を参照しており、4つの季節はそれぞれ創造(春)、持続(夏)、破壊(秋)、そして停滞(冬)、というサイクルを象徴するという。、本作品では冬→春→夏→秋の順に提示され、それぞれの前に前奏が付されている。

音のみでも魅力的な作なのだけれど、パフォーマーの動きが伴うと、こういう形態で上演されるべき作品だと明確に感じられた。四季それぞれの音が確かに身体の動きを引き出す機能(affordance)を帯びている。

先のA-Unでは、動作がさまざまな音を作り出していたのに対し、ここでは音楽が動作を導き出している。

以前、ある狂言師が件の弦楽四重奏曲の演奏に合わせて舞を披露したのを観た折、正直違和感しかなかった。かの曲はあくまで音楽単体で聴くべきものだと感じた次第。

本作「四季」初演時のカニンガムによるコレオグラフィーは失われており、オリジナルがどのようなものであったかは不明という。今回の公演を観て、こういった作品については"とにかくやってみる"という試みを臆することなく積極的に進めるのが吉と感じた。本作のように、相応しい動作を音楽が教えてくれることもあるのではないか。

Micro1…スイッチを入れたマイクロフォンを大きな紙で無造作にくるみ、そのまま5分放置するという作品。テープなどで固定したりしないので、紙は自然に広がり、その際に音を立てる。奏者と聴衆はその音に耳を澄ます。広がりかたが落ち着いてくると、音は散発的になっていく。発生するかしないかわからない音をじっと聴く行為となる。

存在しない音に耳を傾けることに始まり、動作と音のさまざまな関係性を観察し、発するか否かが不確定な音に耳を傾けることに終わる。よく考えられたプログラムに感服。(2024年4月30日 豊洲シビックセンター・ホール)

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