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サントリーホール・サマーフェスティバル2024(1)  ザ・プロデューサー・シリーズ アーヴィン・アルディッティがひらく 室内楽コンサート1

武満 徹(1930~96):『ア・ウェイ・ア・ローン』弦楽四重奏のための(1980)
ジョナサン・ハーヴェイ(1939~2012):弦楽四重奏曲第1番(1977)
細川俊夫(1955~ ):『オレクシス』ピアノと弦楽四重奏のための[サントリーホール、アルディッティ弦楽四重奏団委嘱](2023)日本初演
ヘルムート・ラッヘンマン(1935~ ):弦楽四重奏曲第3番「グリド」(2000/01)

弦楽四重奏:アルディッティ弦楽四重奏団
(第1ヴァイオリン:アーヴィン・アルディッティ 第2ヴァイオリン:アショット・サルキシャン ヴィオラ:ラルフ・エーラース チェロ:ルーカス・フェルス)
ピアノ:北村朋幹
後援:ブリティッシュ・カウンシル

今回のプロデューサーであるアルディッティ氏率いるカルテット公演の一つ目。

武満作品…トゥッティの直後や最後の和音などの入りに、あと数ミリだけ間合いがあればと思う。僅かに忙しなく感じられてしまう。フレーズごとに音楽があまりに明確に切れてしまうのも残念だった。

ハーヴェイ作品…冒頭はヴェーダ瞑想に着想を得たとのことで、ハーモニクスを奏者同士が聴き合うおもしろい展開と感じた。少し進むとユニゾンでふしが奏でられる。このふしは変形を加えながら幾度かあらわれる。が、その後は一種の変奏曲となり、冒頭の瞑想によるシークエンスは一つの趣向となってしまう。コル・レーニョ、バルトーク・ピツィカートなど、限られた素材のみで充実した音楽を構成している点は、作曲年代を考慮しても評価されるべきだろう。しかし、せっかく深い聴取に通ずる要素から始めたのだから、もう一歩深められたらとも感じた。

細川作品…ピアノのマルカートな打鍵に各弦楽器が呼応する箇所など、息の合ったアンサンブルが心地よい。徹頭徹尾細川節で、嫋々とした音楽がどこまでも展開されていく。静かに始まり、盛り上がってクライマックスを迎え、再び減衰して沈黙に還っていく。良くも悪くも見えている景色は常に一つで、変わることがない。

ラッヘンマン作品…全編を通じて、伝統的な合奏形態から、なんとかして新しい響きを抽き出そうという熱量が感じられる。作家と奏者の熱い協働の現場が目の前に再現されていくようである。弾いた弦を左手で素早く押さえる弾き方が多用され、単純な奏法ながらミュージック・コンクレートを彷彿とさせる音響にはっとさせられる。極端に圧力をかけて弾くことでノイズを発生させる、弦以外の部位を弾くなど、特殊奏法が次々に繰り出され、実に多彩な音空間が展開されていく。それでいて決して新しい音の見本帳にならないのは、作家の高い構成力によるものである。

この四重奏団の音色の魅力を改めて感じた。切り口は鋭いのだけど、決して汚い音にならない。常に品があって、柔らかい。特に第2ヴァイオリンのサルキシャン氏とヴィオラのエーラース氏の落ち着いた味わい深い音色に惹かれた。アルディッティ・スタイルというべきものが確立されていて、どの曲も実に巧みに、おもしろく聴かせる。ただ一方で、スタイルに収まらない部分は切り捨てられてしまう。武満作品の間合いなどはその一例であったか。

ラッヘンマン作品が作曲されてから四半世紀近くが経過している。その間に弦楽四重奏という形式に関して、どれくらい批判的考察がなされたのだろうと考えた。実は、ラッヘンマン作品からさらに四半世紀近く遡るハーヴェイ作品を聴いている間も同じことを思っていた。昨年(2023年)末の Cabinet of Curiosities 公演は、最近の弦楽四重奏作品を聴かせてもらえる機会だった。けれども、たとえばこの形態を発展的に解体していくような試みはいまだ不十分なように思われた。アルディッティ弦楽四重奏団が果たしてきた役割は極めて大きいし、彼らのお蔭で数多の傑作が生まれたことは間違いない。しかし、それはあくまで弦楽四重奏という形態を所与のものとする枠組みの中でのことだったのではないか。これは創作する側の問題と考えるべきか。

終演後、アルディッティ氏は客席に向かってこう呼びかけた。"If you want to hear more, come back on Sunday!"……しっかりご商売なさってるなあ。よござんす、日曜も聴きにこようぢゃありませんか。その上で改めて考えよう。(2024年8月22日 サントリーホール・ブルーローズ)

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