第26回東京大学教養学部室内楽演奏会 プリペアード・ピアノのからくり|井上郷子
主催:東京大学大学院総合文化研究科 教養学部 ピアノ委員会
協賛:東大駒場友の会|協力:先進融合{アヴァンギャルド・アート}部会
プログラム
○リンダ・カトリン・スミス《ここからの眺め》(1992)
○近藤譲《間奏曲》(2017)
○ジョン・ケージ(ソナタとインターリュード)(1946-48)
ピアノ委員会委員長を務める中井悠氏による企画。初めに井上氏、中井氏による短いトークがあった。
スミス作品・近藤作品
スミス作品…音数が少なく、淡い色調で描かれる水彩画のよう。協和音が続くようでいて次の瞬間には崩れてしまう。短いけれども不思議な後味の作。
近藤作品… 曲の半ばに「複雑な対位法的書法」(作曲者によるプログラム・ノート)がみられる。冒頭から多声部が同時に動いており、件の箇所も自然な流れの中にあると感じられる。
ケージ作品
プリペアド・ピアノ=打楽器
たまたま井上氏の表情がよく見える席に陣取ることができた。自身がプリパレーションを施した音たちが、想定した通りに鳴っているか。ケージが思い描いたと思しき音にどれくらい寄り添えているだろうか。そういったことを一音ずつ丁寧に見極めるようにして奏でていく姿が印象的だった。プリペアド・ピアノは一人の奏者で演奏することのできる、打楽器の巨大な集合体である。打楽器奏者は、個々の楽器について一つひとつ音色を調整し、場合によっては自作したりもする。本作におけるピアニストは、それと全く同様の営みを地道に進めることとなる(今回、事前のプリパレイションには4時間を要したとの由)。その結果、乾いた金属質の音、鈍くデッドな打撃音、思いがけず大きく響くタムタムのような音…等々、ピアノの外観からは想像のつかない魅力的な音たちが次々に立ちあらわれる。
プリパレイション
本作品にはプリパレイションに関する詳細な指示が添えられているとはいえ、挟み込みの強さや位置が僅かに変われば音も変わる。特にガサガサしたノイズなどは、その都度微妙に変わらざるを得ないだろう。今この会場で鳴っている音には今しか出会うことができない。そのことを意識すると、音たちが余計に愛おしく感じられる。
ピアニストは自らが紡ぐ不思議な音の一つひとつを深く聴く。聴衆もまた丁寧に耳で追いかけていく。その場に居合わせる全員が、聴こえてくる音を深く聴取するという営為は、仏教の「止観」における「止」(シャマタ:心を一つの対象に集中する)に当たる。これは本作の数年後の「4'33"」(1952年)を先取りするものでもあるだろう。
ケージは自らプリパレイションを行う中で、「楽音」を発するピアノが、僅かに手を加えるだけで「非楽音」のオーケストラに変貌する様を目の当たりにした。それは、楽音と非楽音が連続的であることの確信に繋がったはずである。プリペアド・ピアノという楽器を開発し、そのための作品を多数創作したこと自体が「4'33"」へと繋がるものであったろう。
作品の構成
本作の全体の構成は次のようになっている。
(S1 S2 S3 S4) I1 (S5 S6 S7 S8) I2 I3 (S9 S10 S11 S12) I4 (S13 S14 S15 S16)
ソナタ8に続くインターリュード2までと、インターリュード3以降とが鏡像関係を成す。
16曲のソナタはいずれも基本になる拍構造が規定されている。また、それぞれの曲全体の構造も、拍構造と同比率になっている。例えばソナタ3の拍の比率は1, 1, 3+1⁄4, 3+1⁄4である。そして、同曲全体はソナタの大半と同様にAABBの構造をもつ。そして、このAABB各部分の長さの比率がやはり1, 1, 3+1⁄4, 3+1⁄4となっている。このようにフラクタルにも似た自己相似的関係が見られる。
4曲がひとまとまりになっていることは、バレエのために書かれた「四季」(1947年 過日観た公演のnote)や「四つの部分からなる弦楽四重奏曲」(1949-1950年)を想起させる。これら2作品はどちらも四つの主要な部分がそれぞれ四つの季節と関係づけられている。他方、本作品の4曲ずつのソナタは明確に“四季”とされているわけではないけれど、エネルギーの発生・発達・停滞・衰退というプロセスに対応するのではないかと感じられる。
そして、ソナタが4曲にインターリュードが添えられた5曲がセットを成すかと思われる。
「プリペアド曼荼羅」
先に、深い聴取は仏教的営為に繋がる可能性を指摘した。今回の演奏を聴きつつ、本作は構成面においても仏教思想に近いものを下敷きにしているのではないかと考えた。例えば、先述の通り4曲ひと組になったソナタがそれぞれ四つの季節に結びつけうるとすれば、4曲で小さな曼荼羅を成すとみることができる。さらに4つのセットから成る全体もまた大きな曼荼羅と捉えられるのではないか。上述の拍構造における自己相似的構造も、曼荼羅を彷彿とさせる。
先に見た通り、本作の前半はソナタ+インターリュード、後半はインターリュード+ソナタと、曲順が反転している。ここで仮に、4つのセットがそれぞれ上述のエネルギーの四つのフェーズに対応するとみなす。すると、この4つのセットは本来中心点から四方へ放射状に配されるべきものなのではないかと思われる。この場合、4曲のソナタの配置順は、前半(発生→発達→停滞→衰退)とは逆行すると考えられる(衰退→停滞→発展→発生)。後半2つのセットをあらためて見てみると、例えば最後のソナタ16は非常に明るい色調で、いかにもエネルギーの発生と結びつけられそうである。このように二次元に配されることによって曼荼羅が視覚的にも完成される。
以上の見立てが正しければ、全体が鏡像構造をとっているのは音楽が一次元にしか配置できないことによる便宜的な措置ということになるだろう。
井上氏の、慈しむような演奏に導かれ、実にさまざまなことに想いを巡らせた。(2024年5月17日 東京大学駒場コミュニケーションプラザ北館2階音楽実習室)
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