TIME 坂本龍一 + 高谷史郎
※作品をまだご覧になっていないかたへ 以下の所感は、作品についてある程度細かい記述を含みますので、ご留意いただけますと幸いです。
2021年6月にホランド・フェスティバルにおいて初演された舞台作品の、日本初演である。
舞台の中央には全体の1/3ほどの幅をとって、奥から手前までごく浅く水が張られている。舞台奥の壁面は大きなディスプレイとなっており、さまざまな映像が投影される。
冒頭、宮田氏が笙を奏しつつ、下手袖からあらわれ、ゆっくりと水を横切り、上手袖へと消える。宮田氏は終結部でも今一度登場する。
笙の音は、天から差し込む光を象徴すると言われるらしい。とすると、ここでの笙は、太陽をはじめ時間を象徴する天体の運行をあらわすか。タイトルでもある「時」を枠組みとして提示している。
この作品には明確なストーリーはない。田中氏演ずる男が粘土で作業をおこなう場面と、漱石「夢十夜」「邯鄲の夢」「胡蝶の夢」という夢の中の場面とが交互にあらわれる。前者は上手側で演じられる。
本作での「時間」の捉え方に関して、坂本氏は最後の著作『僕はあと何回、満月を見るだろう』の中で「時間の否定」と述べている。そして、本作で差し挟まれる夢のエピソードにおいては「時間というものの特性が破壊される」という。だが、夢の中にいる人間も体感としては時間の感覚を維持しているのではないか。さもなければ、夢の中で生ずる取り留めのない出来事を、そもそも[開始]ー[展開]ー[終結]などの構造を有する「出来事」として把握できないはずだ。確かに夢の中でわたくしたちは、現実とは異なる時の流れを実感する。しかし、夢の中においても時間は体感されているのではないか。そして夢で体験される時間も含め、この作品での時の捉え方は、西洋的な、過去→現在→未来と直線的に流れるものではないのだと思われる。武満が「弦楽のためのレクイエム」や「弧」で参照した、“円環的”な時間のような捉え方が近いのかもしれないとも思った。プログラム所載の福岡伸一氏による「坂本龍一の「時間論」」によると、坂本氏は九鬼周造の「円環的時間」には疑義を示していたという。「弧」において武満は、比較的早く推移する草、緩やかに移り変わる樹木、変化することのない岩、変化と無関係な砂、と日本の回遊式庭園の諸要素を参照している。本作における時間概念の捉え方には、そうした重層的な時の把握がより親和性があるように思われる。また、そう考えると、水が配されるのは、地球の中での循環が意識されていたのではないかとも思われる。
以上の見立てを前提とすると、水を挟んで、上手が“此岸”、下手が“彼岸”のような配置ということになる。現在時以外の時に関して、未来は、命が有ればやがて迎えることができる。しかし、過去は現在からいくら手を伸ばしても届かない。一種の“彼岸”として捉えられる。わたくしたちが睡眠時の夢について語る時、それはすでに「見られている」ので、同様に過去=彼岸と考えられる。
男は上手側で、粘土を木枠にはめて煉瓦のような形に成形する。その“煉瓦”や木の枝を持って水に入り、上手側から下手側へと一列に並べていく。決して手の届くことのない彼岸になんとかして近づこうとするかのようである。
だが、粘土はどんどん水に解けるし、枝は水に流されてしまう。
作業をする男の背景には、インターネットをはじめ通信技術を想起させる画像が投影される。
終盤、藤田六郎兵衛氏による咽び泣くような笛の音を背景に、雨が打ちつける中、男は彼岸から、すなわち夢の世界から現実の水の中へと入っていく。舞台奥の画面には、巨大な波がスローモーションで映し出される。男は波に正面から向かっていくのだが、ついに力尽きて倒れ込んでしまう。人間は、どれほど技術を発達させようとも、どれほどの想いや意思を抱こうとも、時間や自然の摂理に抗うことができないということか。
舞台装置はごくシンプルだが、高谷氏による美しい照明や映像によって豊かな奥行きが生み出されている。
本作のメッセージは拍子抜けするほど平明である(ダムタイプとしての展示でも同じように感じた)。しかし、それでも本作を極めて魅力的なものにしているのは、坂本氏の音素材の選択眼、そして時間・空間における配置の妙だと思う。水音などの自然音、金属片ないし陶片の軽やかな音、やや重い鐘、厚みのある弦楽器群など、鳴るべき音が鳴るべきところで鳴っていると感じられる。設計に狂いがない。その根底には、一見ごくシンプルに聴こえる音素材の中に、豊かな世界と、それぞれの時間とを誠実に聴き出していく姿勢がある。
そうした音設計の巧みさは、長く映画音楽の仕事をしてきた坂本氏ならではのものだ。しかし、本作品には、聴くものの感情を計算ずくで刺激しようとするようなあざとさは皆無である。作曲家は、自分の一番聴きたい音をどこまでも厳しく追求している。“教授”と呼ばれた坂本氏だけれど、クラシック出身といった出自の問題などどうでもよかったのだろう。僅かでも聴きたい音に近づける、坂本氏は残された時間をその営為に捧げた。
最後の著作で坂本氏は、本作は「大切な作品」なのだけれど、作り終えてから「壊したくなった」と語っていた。「完成」を宣言したくなかった、まだまだ追求したかったという表明だったのだろうと考える。そうした、求道的なまでの誠実さこそ、多くの人から支持される所以である。
先日放映されたドキュメンタリー「Last Days 坂本龍一 最期の日々」(NHK 2024年4月7日放映)は、2023年3月28日に亡くなった坂本氏の最後の日々を丁寧に捉えたものだった。その中に、病床の坂本氏が小さな鈴を手元に置き、鳴らしてはその音を楽しんでいたというエピソードがあった。本作も、本編が終わると、少しの間鈴の音が静かに場内を満たした。聴衆も拍手することなく、しばしその音に耳を傾け、それぞれの想いに浸っていたのが印象的だった。
音楽 + コンセプト:坂本龍一
ヴィジュアル・デザイン + コンセプト:高谷史郎
出演:
田中泯(ダンサー)
宮田まゆみ(笙奏者)
石原淋(ダンサー)
能管:藤田流十一世宗家 藤田六郎兵衛 (2018年6月録音)
照明デザイン:吉本有輝子
メディア・オーサリング、プログラミング:古舘健、濱哲史、白木良
衣装デザイン:ソニア・パーク
衣装制作:ARTS&SCIENCE
プロダクション・マネージャー:サイモン・マッコール
舞台監督:大鹿展明
FOHエンジニア:ZAK
撮影助手:新明就太
映像グラフィックデザイン・アシスタント:南琢也
音響エンジニア:アレック・フェルマン(KAB America Inc.)
音響エンジニア・アシスタント:竹内真里亜(KAB America Inc.)、近藤真(オフィス・インテンツィオ)
制作アシスタント:湯田麻衣(Kab Inc.)
夏目漱石『夢十夜〈第一夜〉』、『邯鄲』 英訳:サム・ベット
『邯鄲』 現代語訳:原瑠璃彦
『胡蝶の夢』 英訳:空音央
コンセプト立案協力:福岡伸一
プロデューサー:リシャール・キャステリ、空里香、高谷桜子
共同製作:ホランド・フェスティバル(アムステルダム)、deSingel (アントワープ)、マンチェスター国際芸術祭
共同制作:ダムタイプオフィス、KAB America Inc.、エピデミック
プロダクション&ツアー・マネジメント:リシャール・キャステリ、フローレンス・ベルトー(エピデミック)
(2024年3月28日〜4月14日 新国立劇場中劇場)
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