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コリン・カリー・グループ ライヒ《18人の音楽家のための音楽》

出演:
コリン・カリー(パーカッション/指揮)
コリン・カリー・グループ
シナジー・ヴォーカルズ

■曲目
スティーヴ・ライヒ:
ダブル・セクステット(2007)
トラベラーズ・プレア※(2020)[日本初演]
[オランダ公共放送アムステルダム土曜マチネ/サウスバンクセンター/カーネギーホール/フィルハーモニー・ド・パリ/ハンブルク・エルプフィルハーモニー/バークレー・カルパフォーマンス/東京オペラシティ文化財団共同委嘱]
18人の音楽家のための音楽(1974〜76)

※プログラムやフライヤーの表記は「プレイヤー」とあるが、"Prayer"で「祈り」の意とおもわれるため、原音に寄せて書くならば「プレア」ぐらいが近い。

コリン・カリー・グループは、イギリスのアンサンブル。ライヒ作品の演奏に関しては作曲家からの厚い信頼を得ている由。

ダブル・セクステット…昨年、名古屋で聴いた公演では、一方の六重奏が録音だった。今回は2つの六重奏による演奏だったけれど、昨年聴いた時の印象とほぼ同じで、なぜ「ダブル」にしたのかがやはりよくわからない。ピアノ同士、ヴィブラフォン同士、あるいは木管群、弦楽器群が塊となって聴こえてしまい、六重奏としてのまとまりが見えない。弦楽器とクラリネットが重なる部分の、エッジのたった音が印象的だっだけれど、記すべきはそれくらい。

トラベラーズ・プレア…冒頭、男声から弦楽器の動きがするすると導き出される部分、後段でやはり声と弦楽器の絡む箇所ははっとするほど美しかった。だけど、あとはまあ普通という印象。

18人…冒頭の「パルス」での、楽器の移り変わりがこれほど繊細だとは。録音では把握し難い、生演奏ならではの聴取体験である。作曲者のプログラム・ノートによると、各セクションは冒頭の「パルス」で提示される和音から派生するものだという。そして、各セクションの生成は和音の関係性をリズム的に変容させることによっているとのことである。限られた手技で紡がれていく各セクションには、共通の素材もあらわれるが、和声や楽器編成を変えることで、それぞれの間の関連性は、家族的類似にもなぞらえることができると語る。新しいセクションに入るごとに新しい風景が次々と鮮やかに展開するかのようであり、長い作品ながら、飽きることなく楽しむことができる。
終結部、奏者が1人また1人と演奏から抜けていく。そして、気がつけば開始時と同じメンバーがパルスを奏しており、やがて減衰して終わる(最後の音が止んで、余韻を味わう間もなく拍手が起きたのは残念)。だが、長い作品の鳴り終えた世界は、曲の始まる前とは異なっている。仏典の「華開」の逸話の教えるところーひともとの花の咲いた世界は、咲く前の世界とは異なるーとも通ずるのではないか。
この作品で、セクションの切り替わりの指示は、ヴィブラフォンが担うのだけれど、身振りではなく、あくまで短いフレーズを奏することでキューを出す。バリのガムランや西アフリカのドラム・アンサンブルと同様の流儀だという。このしかけにより、「演奏者は注意深く聴き続けることになる」(作曲者によるプログラム・ノート)。"深い聴取"は、「ピアノ・フェーズ」以来、ライヒの音楽の原点にある。

ライヒの最近作は、互いが慎重に聴き合ってアンサンブルを作っていくという姿勢からはかなり離れたところにある。前半2曲で、カリー氏が指揮を務めていたことが象徴的である。音楽の持つ豊かさや力において、前半の近作と「18人」は明らかな差があった。この作家の最盛期は「ディファレント・トレインズ」の80年代くらいまでであったか、などと思うと少し寂しい。

作品を完全に手中に収めた感のある「18人」の演奏に感服。誇張でなく、いつまででも聴いていられると感じた。(2023年4月21日 東京オペラシティコンサートホール:タケミツ メモリアル)

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