パリについて 2

 もっぱら暑い。しかも雨が降る。梅雨どころではない。日本は雨季のある国になったのだろうか。高温多湿で東南アジアのようだと思うと、ふと雑多な街の路面店で飲みたくなる。軒先でビールケースを椅子にしたものに座って、雨の往来を眺めながら冷たいビールを飲みたい。

 ビールも良いが、それ以上にこの気候に合うのがペルノだ。暑くなるとハーブ系の酒が美味くなる。一杯目はジントニックと決めているオーセンティックな店にいそうな酒飲みも、少し浮気をしてシャルトリューズトニックやスーズトニックに変える頃かもしれない。シャルトリューズにはジョーヌ=黄色とヴェール=緑があって、私はジョーヌの方が好きだ。ジョーヌ、ヴェールはどちらもフランス語。ハーブ系にはフランスのものが多い。もちろん冒頭のペルノもそうだ。その原材料のニガヨモギが持つ幻覚作用で、昔のパリの芸術家たちに愛された。透明だが、水に触れると白濁する。夏場のカフェのテラスで、氷を入れた水割りでよく飲んだ。かなり安くて5ユーロもしなかった気がする。現在では幻覚作用は抜かれている。余談だが、シャルトリューズは昔フランスの修道院で行き倒れた旅人に気付けのために飲ませた酒だと言われている。

 渋谷の「パリ」に行き始めたのは学生の頃だった。渋谷という街に私があまり行かなかったこともあり、決して頻繁に訪れるわけではなかったが、それでもハチ公に挨拶しに行ったときにはよく珈琲を飲みに行った。駅前の雑踏から一歩裏通りに入ったところにパリはあった。その店内には、数分前まで渋谷の雑踏を歩いていたことなど忘れてしまうような、どこか非日常的で不思議な居心地の良さがあった。

 喧騒から逃れてパリの席について、珈琲を注文し終えて一息ついてから吸う煙草の一服がどれほど美味かったことか。隅の一席では、どこか安心することができた。その小さなスペースの内側に限ってくつろぐことを許されているような感覚。これは乗車率999%の山手線では、ついぞ感じることができなかった(公共交通機関だから当たり前と言えば当たり前だが、世界を見渡すと、電車やトラムの中であってもくつろぎの概念の存在する余地が多分にあることに驚く)。

 その後も、私はたまにパリに珈琲を飲みに行った。それは昔通った他の多くの飲み屋や喫茶店等を訪ねる行為の一部でもあった。二十歳の頃に通った店に久しぶりに行くのが私は好きだった。何年経っても変わることのない店内で、あのときと同じ席に座り、あのときと同じ通りを眺める。情景が飛び飛びになりながらも、自然と多くのことを思い出す。その甘く苦い時空旅行にふける小一時間が好きだった。

 閉店を嘆く、ということはしたくない。それは店にしてみてはときに不快にすらなり得る。何か声をかけることができたとして、お疲れさまでした、の一言くらいだろう。そして私は、何ができたのか、そのためには何をしておく必要があったのか、それを考えなければならない。存続していて欲しい場がたくさんあるからだ。懐に余裕があったならクラウドファンディングか何かで支えることもできただろう、しかし現実には他の心配をする余裕すらない。自由にあちらこちら生き来できる身分であったならより頻繁に通えただろう、しかし現実にはそんなことはできない。つまりこの現実とやらに手を加える必要が大いにありそうだ。このようにして、突然その姿をあらわした問題意識は、999倍の大きさと重さを携えて自分のもとへと超高速で返ってくるのだった。

(注記)

 夏の酒ペルノはショットで4〜5杯煽ると簡単にガンジス川のほとりへと行くことができるので、取り扱いの心得のない方は水割りもしくはペルノトニックが無難かつ美味しい飲み方でしょう。

#パリ

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