暗い丘
川が流れ水音がこだましていた。遠く離れた電車はゆっくりと通り過ぎていき後には静けさが残った。夜の河原沿いは景色がぼやけ点々と連なる灯りは少し滲んでみえた。帰路考えることはまとまりがなくとめどないものでその足取りは重くそのうえ不明瞭だった。
今朝にケイが死んだという連絡が来たのは私にとって突拍子のあるものでは無かった。共通の知人がおり彼がそのことを伝えてくれた。私たち三人は皆高校の同級生で仲のいい友人だった。卒業後ケイとは疎遠になっていてしばらく連絡を取り合ってはいなかった。詳しいことはこれから聞く予定だったが、彼がどのような死に方をしたのか受け止める勇気は湧いてこなかった。知人は周囲の人たちに対してひどく怒っていたがその正当性は私には分からなかった。停めてあった車に反射した自分の顔は他人のように奇妙な表情をしていた。
彼は不器用な人間だった。周りには器用で人当たりが良いと思われていたがその齟齬が彼の不器用さを象徴するものだった。私には彼が演技をしているように思え、彼のそういう所が嫌いになれなかった。
「どんなに言葉をかけて人に伝えても伝わることの方が少ないんだ。心の深い部分で連帯することは難しい。だからこそ文学というものは相互理解という幻想をほんの一歩でも現実に近づける試みであるべきなんだと俺は思う。」
少し空気が冷たくなってきた頃彼は煙草の箱を開けながらゆっくりと話した。本が並ぶ部屋の住人らしいセリフだった。
「俺たちも幻想?」
意地悪く私がそういうとひどく困ったような顔を真剣にしていた。その表情はひどくペーソスに溢れていてとても悲しい匂いがした。本当の彼は人と話すのが億劫そうで表情にはいつも険しさが残っていた。
家に向かうまでの橋にはパトカーが停まっていた。夜の見回りらしくここ最近何回か同じ時間帯で見かけていた。中には中年の警察官がおり疲労を見せまいとする表情にはおかしみがあった。私は気づかぬうちに声をかけていた。
最近何かあったんですか?
いえ、ありません。ただパトカーが停まっているだけである程度の抑止力を与えることができるんです。
そういうものなんですか?
そういうものなんです。
何時まで停まっているんですか?
十二時までです。あと二時間くらいはここに停まっていなきゃなんです。
大変ですね。お疲れ様です。
ありがとうございます。あなたも気をつけて。
私の言葉が彼をどこまで労えたかは分からなかった。
四月の夜の道路はとても静かでそれでも時折車が等間隔に通り過ぎた。私は赤信号を歩いていきふと足を止めた。アスファルトは夜より黒く冷たさが心地よかった。道路の真ん中に立って目をつぶると破滅的な陶酔が訪れた。向かいのコンビニの青と緑の看板が赤で染まりぐるぐると周囲が回転していく。上と下が逆転しながら悲鳴が響きその声は暗闇に吸い込まれていく。その瞬間だけは全てが平等で同じ痛みを持っている気がした。クラクションの音で夢想は止み風が並木道を吹き抜けていった。私は少し躊躇いながら横断歩道を渡りきり進み続けた。ケイのことをもう少し考えたかった。
彼は友人を自分の部屋に呼ぶことを強く嫌がっていた。隠したいものがあるわけではなさそうだったが滅多に人を入れなかった。それでも私は赤い置き時計が置いてある彼の部屋によく通うことができた。私と彼は不思議と音楽の趣味が合ったからだった。私たちが一番好きな曲はプリンスのsometimes it snows in April だった。部屋で流したバラードの旋律はこおろぎの鳴き声にまじりたゆたんでいた。秋の夕暮れに木造アパートの二階で私は彼から哀れみを教わった。
コンビニを出た後、気まぐれに帰り道と違う道を選び歩き続けた。このまま家に帰りたくはなかった。人気のない公園の右手を抜け、朧げな記憶を辿って近くにある小高い丘を目指した。人に何を伝えることができるのかを考え続けた。親切心では届かないものがあると思った。誠実な生き方という暗い虚像を上手く形どりたかった。坂を登り木々に溢れた道を進んでいった。暗緑の揺らぎは心地よかった。しばらくして気がつくと開けた場所にでていた。高台のようになっているその丘は周辺の街が見渡せることができ遠くのビル群までくっきり見えた。景色の手前には学生街がありたくさんの住宅が並んでいた。その先で駅が街自体を収束しさらに遠くにあるビルは生活を整えていた。丘には誰もおらず音と呼べるものは何も無かった。見下ろした街の中で人は愛し合い形を作っていた。様々な感情の渦を生みながらも一定の秩序を保ち続けていた。ケイはその流れの中にいなかった。彼の心はほんの少しの隙間からこぼれ落ちてしまった。そんなことがあっていいはずがなかった。街の明かりはオレンジと黄色を混ぜたような色でくすんでいるが綺麗だった。煤けた夜空の先に薄らと電線が見えた。街並みに浮かぶ黒い線は一定間隔の家に配給されその一つ一つに意味があった。細やかな光は強くなくそれでも眩かった。ケイのためにこの景色を書きたいと思った。一枚絵みたいな、それそのもので生きていけるようなそういうものを作りたいと。そう感じたことに自分でも驚きながら、もしそうならこの灯りを言葉を尽くして書きたいと強く思った。
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