介護の日々と私「母のこと。その2」

母の入院は3か月に及んだ。その間、いつ急変するかもわからず、毎日携帯が鳴るたび、ビクビクしていた。コロナ禍という事もあり、対面での面会は許されていなかったし、母の状態もある程度安定するまでは面会はできなかった。ようやく週1回だけ病院が用意した待機室と病室をつなぎ、オンラインで面会ができるようになった。しばらくぶりに画面越しに見た母は一回りも二回りも小さくなっていた。顔色も目の周りがパンダのように茶色っぽく色づき、私はおどろきを隠せなかった。母はまだあまり話せる状況ではなかった。しかし余程苦しかったのか、「生きるか死ぬか(の状況)だ。お母さんがいなくなってもしっかり生きていくんだよ。」と振り絞る様に言った。

こんなに苦しいさなかにあっても、子供である私たちを思う深い愛情に何とも言えない気持ちになった。

少し母について話しておきたい。母はすでに日本の平均寿命を超える年齢だ。様々な持病を抱えながらも、ここまで長生きしてくれたと思う。

母は生まれも育ちも東京だ。東京といっても、貧しい長屋で育ち、言葉はがらっぱち風、品も器量のない(そう自分でも言っている)。でも心持は美しく、温かく、人の世話好き、お人よし。まず自分より人のことを尊重するような人間だ。
戦争経験者である。東京大空襲時も疎開などできる余裕のなく、空襲警報がなるたびに防空壕に逃げ込んだらしい。10代前半位だったので、学徒奉仕で本人曰く、「大砲のたまを磨いていた。おっかちゃん(母ちゃん)が適当に磨いたから、日本が負けちゃったんだよ」と冗談でよく話していた。

中卒で某大手企業の工場勤務し、やがて知り合いだったある人物の弟を紹介され、結婚したのが、私の父にあたる。結婚後も今でこそ、共働きは当たり前だが、その当時としては珍しく、出産しても身内に子供をみてもらいながら、働きつづけた。その企業からの勤続〇年記念のメダルなどがいくつか残っている。母は働きつづけた事に対して、「働かなきゃ食べられないんだから、しょうがない」と言っていた。

確かに父は決して働きものでなく、むしろ怠けものと言っても過言ではない。母は苦労の連続だった。しかし私はそれだけでないだろうと思っている。母は働く事が好きなのだ。

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