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罪悪からの解放 #2

《誰に何を言われても、救われない。死にたがりの女の子の前に現れた、黒法衣をまとった青年の物語》

 エナフィーナの住む築20年の7階建てのアパルトマン。丁度真ん中の5階がエナフィーナの家だった。
キチネットから、トントントンと、リズミカルな音が聴こえてきた。エナフィーナが、夕食の支度をしていた。今は理由あって別居している母の得意料理でもあるシチューに入れる野菜を細かく切っていた。少食なのと、一人暮らしなので食事は決まって質素だ。
 黒法衣と分かれて、いつも利用している肉屋に向かったが、生憎今日は売れ行きが良く主人が店じまいをしているところだった。結局市場で買えたのは、売れ残りの野菜とバゲットぐらいで、いつも以上につましい夕食になろうとしていた。メイン料理のない野菜シチューとバゲット。家に常備していた固形のコンソメで味をつけた。エナフィーナは、それで満足していた。パン屋が朝早くに焼いたバケットは表面がカチカチに固くなってしまい、買い手がつかなかったところを半額で売ってくれた。だが、確かにこれはシチューに浸してふやかさないと食べれない代物だった。優しい味がして、不意に今日出会った、怖いくらいの美貌の青年を思い出した。
「…優しいひとだったな」
 ポツリと言葉が零れる。あの綺麗な人と2匹の仔猫は今、夕食をきちんと食べているだろうか。お腹は空いていないだろうか…。心配しても一方的なお節介判断したら、すっかりスープが冷めてしまい、こんな風になるまで他人を気遣ったりしたのは、初めての気がする。スープは諦め、食後に紅茶を淹れて今日をリセットしようと思った。
いつもの番茶ではなく、来客用に振る舞う少し値の張る茶葉を淹れよう。本当は、夜にカフェインを取ると眠れなくなるのだが、今夜は古書店で発掘したドレスの大型本をうつ伏せになって眺めよう。そのうちに睡魔もやってくるに違いない。
 殆ど残した夕食を片づけ、紅茶を丁寧に淹れて肩の力を抜かせると、自室でドレスの大型本を本棚から取り出して、狭い寝室のベッドの枕の上に広げた。でも、その時は既に疲労感が溢れ出ていて、ベッドに倒れ込んでしまった。
「…疲れた」
 夜になっても空気は熱をたたえ、寝返りを打つと、出窓の鍵を開け、生ぬるい風を流し込んだ。昼間の二人組の男達や、心配して声を掛けてくれた美貌の黒法衣の青年、店じまいをする肉屋や八百屋やパン屋。ひとりひとりの顔を思い出して、うとうと意識が眠りに吸い込まれていく感覚が、すぐそばまで来たとき、カツンと品の良い靴音がした。いや…これはむしろ夢かもしれない。ずっと待っていた人がきた…会いたいと望んだ人の気配…眠りと現実の狭間で揺蕩たゆたっていたら、
「…こんばんは。お嬢さん」
 驚いて声が出せなくなってしまった。ベッドのシーツを握りしめ、何故彼がここに現れたのか理解できず、金縛りにあったように、脳は鮮明に彼を捉え、けれど身体が動かない。
「…どうして…あ…なたが?」
ようやく声らしきものを発することが出来ると、自分をなにか得意気に見下ろす黒法衣が居た。黒法衣の美青年は、そういえばまだ自己紹介をしていませんでしたねと、クスッと笑う。
「僕は死刑執行人。キミを殺しに来ました」
 エナフィーナは、一瞬驚きの表情を浮かべたが、ベッドに視線を落として、
「…そうですか」
と、呟いた。まるで自分には関係のない他人事のように。
「ん?あれ、驚かない?」
 格好良く決め台詞を決めてみたが、肩透かしをくらった。
「いつか…わたしも殺される日が来るのではないかと、思っていましたから。わたしは身内二人を殺しました。死刑になるには十分な罪人です」
そう言って、ようやく身体を動かせるようになると、エナフィーナは、寝室の戸棚から短剣を取り出す。
「わたし…臆病者だから…どうしても…怖くて…手が震えて…自分の始末が出来ないんです。だから…わたし…ずっと待っていました。わたしを殺してくれる『あなた』を。ずっと待っていました」
 死刑執行人は、出窓に腰掛け話を聞いていたが、
「手伝うよ」
と、ふわりと優雅に出窓からストッと降りると、エナフィーナが、差し出す短剣を片手で受け取り、鞘を抜く。少し長い柄にエナフィーナの小さな手を上から包むようにして、死刑執行人が両手で支える。
「僕の胸に頭を預けていいですよ。ゆっくり眸を閉じて…」
「…お祖父ちゃん、お父さん…ごめんなさい…ごめ…んな…さ…」
 エナフィーナの柄を握る手が震えだす。
「大丈夫です。僕がいるから怖くないよ」
 死刑執行人は囁きとともに、柄を握るエナフィーナの手に力を込める。
「…お別れです」
 短剣の切先がエナフィーナの心臓を貫く。エナフィーナは、消えゆく意識の中で、背後を振り返り、美しい死刑執行人の頬に右掌を当て、
「あ…りが…と…う…」
 最後に想いを伝え、絶命した。死刑執行人は、細い腕でエナフィーナの骸を抱き上げ、ベッドに横たわらせる。微かに長年の罪の意識から解放された、清々しい死に顔に笑みがあった。
「ポテチ、チト…」
 死刑執行人の使い魔の仔猫達を呼ぶと、仔猫はぴょんと主の肩に乗る。
「…来世で幸せになれると良いね」
 そう言って、死刑執行人は法衣の中からハンカチで丁寧に包まれたビスケットを取り出し、
「僕は今までキミのような美しい魂の主を知らない。…これは、はなむけ。とてもおいしかったよ…ありがとう」
 口元に淡い微笑みを浮かべ、死刑執行人は息のないエナフィーナの額に口づけ、
「さようなら」
と、囁くと、口調を変えて仔猫たちの毛をワシャワシャと搔く。
「任務完了。さ、行こうか」
 と、にっこり笑って宙を蹴り、出窓を飛び出し深い闇へ消えた。

END
 


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