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紅茶と物書きと…泡沫の過去〜ふありの場合〜

“わたしの最終学歴は中学です。現病名は、統合失調症〜妄想型〜です”


 わたしに義務教育までの学歴しかないことは、家族と一部の友人、知人、そして精神科の主治医しか知りません。

わたしの名前の隣に書かれていた病名は『統合失調症』でした。

今迄、自分の病気と真正面から向かい合った事が無いので、この機会に内省も含めて今迄の自分の人生を振り返ってみようと思います。

人生で一番古い記憶は、食べ物屋さんの空気が気持ち悪くて泣いていたことです。
わたしは環境の変化に弱くて、家でない場所のその場の独特の匂いが苦手でした。生憎、両親が外出好きだったので、小さい頃から色々な場所に連れて行ってもらっていました。たとえば、週末は父の運転する車に乗って、片道1時間はかかるラーメン屋さんにお昼を食べに出かけていました。車好きで、運転がとびきり上手い父の車で
、一番多く連れて行ってもらったのはお食事処です。父には感謝していますが、それぞれの場所の独自の匂いに…気持ち悪くなりました。

《小学生時代の旅行》

 自分でも言うのが思い上がりのようですが…小学生時代、家は事業家でそれなりに上手くいっていたみたいです。
 両親は本当にわたしと弟を大事にしてくれて、休日には、どこかしらの遊園地や、夏ならプールと海、冬はスケート、スキー、ぶどう狩りにも毎年の恒例行事でした。佐渡にも、フェリーに乗って渡りました。たらい舟に乗った記憶もあります。熟練の手技の女性が祖父と弟とわたしを乗せて器用に、民謡のようなものを唄いながら上手にたらいを漕いでくれました。思えば、わたしの記憶で旅行の宿泊先は民宿でした。畏まった旅館やホテルに泊まったのは、臨時の時くらいでした。小さかったわたしは、ふわふわのベッドのある旅館やホテルに泊まってみたいな…と内心思っていましたが、両親は大人になればいくらでも泊まれる場所より、今しか泊まれない素朴で仰々しくないアットホームな雰囲気の民宿を、父が一軒一軒電話を掛け予約を取り、ピシッと制服に身を包んだホテルマンとは程遠い、たくさんの皺が刻まれた柔和なおじいちゃんや、おばあちゃんが、それに宿主のご夫婦がにこにこ笑顔でわたしたち一家を出迎えてくれました。
 家が、いくつか事業、経営を変えてきたのは子供心にも伝わってきました。ところが、某経営に失敗し、わたし達一家の豊かな生活事情は一変しました。小学校高学年頃を境に、パタリと旅行も遠出も無くなってしまいました。
以来、自分の楽園のような暮らしは幕を閉じ、以後、わたしは外出というものが怖くなってしまいました。経営の失敗に、まず母が重度の鬱になりました。

《心病める家族達》

 わたしの不登校生活は小学校5年生のときから。今でも不思議に思うのですが、何故女学生はグループのようなものを作るのでしょうか…。当時のいじめは今のように、SNSなどを利用して執拗で陰湿ないじめを行い、被害者は命を落してしまうことが少なくありません。わたしの時は、自分の家の事業をからかわれ、お嬢様気取りをしている、と馬鹿にされました。
 人間不信。最初はそんな感情が芽生え、折角友人と呼べる子も数人できていました。それでも、また学校に行けば、言葉のいじめにあうのだろうと思い、結局のところ、もうあの空間には行きたくないと判断し、卒業式まで不登校を続けました。

《病院のような中学校》

 中学校の校舎に入った途端、世界が変わりました。特に心にショックを受けたのは、廊下です。病院のように白一色の病院のような殺風景な、それでいて消毒液のような臭いがしそうな清潔な廊下。小学校の廊下は、クラス通信や、ポスターでがやがや楽しくお喋りしているような賑やかな廊下だったのに、中学校は怖いくらいに清潔感で徹底され、必要最低限の貼り紙以外は無く無機質なその空間で、果たして自分は中学生活を過ごせるのか…不安でした。

《覚醒する病魔》

 中学一年生のときは、小学校時代の、家が同じ区の友人たちがそのまま繰り上がり入学したので、なんとか三学期まで登校できました。
 しかし、2年生になったとき、クラスの振り分け表に自分の名前を見つけたとき、他に殆ど知っている名前はなく、焦りました。その後わたしがとった行動は、友達確保でした。一年生のときに数回会話をした女の子が居たので、
「わたし、○○といいます。ここには、一年生の時の友達が居ないので、お友達になってくれませんか?」
 すごい度胸ですよね、クラス通信に彼女とのやりとりをまるごと書いたら、それがクラス通信に載って、皮肉にも自分には文章を書く、力があるのだと変に勘違いして、そこからわたしの物書き人生は始まりました。わたしの文章を書く力を認めてくれた恩師、伊藤先生には足を向けて眠れないほどです。
 当時、友人に借りていたCDで、谷山浩子さんの『鳥籠姫』が、処女作となり、伊藤先生に捧げました。その後、結局クラスで孤立してしまい不登校になりました。そして、丁度3年生の受験のときに家の財務担当の祖父が他界しました。父に金銭的に依存していた父も、鬱が悪化し統合失調症を発症してしまいました。父が、最後の職となったタクシーの運転手のときから、幻視や幻覚、幻聴、被害妄想と病気にこれでもか!というくらいの重度の精神障害者になってしまいました。このとき、わたしも『社会恐怖神経症』という心の病名を告げられ、カウンセリングや投薬で治療していたのですが、一応受験した高校で、極度の緊張と不安から歩けなくなり、帰宅したその先で倒れ、救急車に運ばれ一家がお世話になっているクリニックへ。


『もう高校には行かなくて良いよ。あなたは、あなたの人生を歩みなさい』


主治医に《学校》という存在から解放された言葉でした。眼の前に敷かれた道を進むのではなく、自分で道を作っていこう。世間で言う『普通の人生』とかではなく、わたしにしか歩めない人生を行くんだ。


 その後、出来そうなアルバイトを見つけては、すごく怖かったけどいくつか挑戦しましたが、なかなか上手く続かないことばかりで、それに当然就職もしていないので、社会人として正社員雇用の仕事の経験もありません。

父は重度の統合失調症で、病院の入退院をたらい回しされ、母は重度の鬱病を抱えながらも家の家計を担うべく働いています。3つ年下の弟も軽度の統合失調症ですが、パニック障害を母、わたし、と同様併発しています。

 世間では、精神障害者=異常者などという偏見が根強く蔓延はびこっています。
けれど、主治医に聞いた話では、精神疾患の人はおとなしく(通院、入院、外来できちんと処方された薬を服用している)、とても暴力的な思考、行動は不可能だそうで、どうか偏見が無くなる世間になってほしいです。少なくとも、この文章を一読してくださった方には、優しい心で接してほしいです。


《noteと出会ってからの今》

 noteという存在を知ったのは、友人からの情報でした。それまでは個人活動を続けていていました。スマホのアプリで物語を綴ってそれを友人、家族に読んで頂いている今とは規模が比べ物にならないほどの小さい創作でしたが、思い切ってnoteに登録し、まずは自身の過去作をリメイクして投稿しました。
童話や少女小説に留まらず、ジャンル無視で、書かせて頂いています。
病持ちなので、あまり頻繁に投稿出来なくて歯痒いはがゆのですが、ゆっくり紅茶をお供に執筆しています。
約2年前に父が事故死で他界し、介護の日々は無くなったけど…父の存在感が無くなり、自分の時間は出来たけど、空虚な気持ちもあり、そんな時は上を見上げ、父に語りかけています。
 今は、noteが中心の生活になりました。ずっと、書きたかったことが山ほどあって、介護生活には書けなかったことを執筆しています。未知数のnoteのクリエーターさん達の中からわたしを見つけ、たとえ一人でも作品を読んで下さる方がいる限り、書き続けたいと思います。

今年もあと数日。
来年は、もっと勢力的に活動したいです。
皆様、どうか来る2024年もよろしくお願いします。

2023.12
ふありの書斎



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