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「合理的」について

ハーバーマスの『コミュニケイション的行為の理論』ではまず初めに「合理的」とはなにかという話がなされる。

その後、
①認知的・道具的合理性
②コミュニケイション的合理性

の2つが語られるのだが、読んだ時にはしっくりこず。なんとなく言っていることはわかるのだが、解説しろ、と言われたら出来ないなというレベルだった。

読み始めてから1ヶ月ちょっとが経ち、合理的であるとは世の中で物事を進める時には紛れもなく重要であるな、と感じていた。
それと同時に、合理的であることには危険性も潜んでいるな、と感じていた。というのも、合理的な判断は現実に則しているがために、そぐわないものを排除してしまう。効率化を図り、手段的に利用し、功利主義、帰結主義の世界に繋がってしまうのではないか。

さっき、自宅の階段を上がっている時にふと思った。
ハーバーマスの言う「認知的・道具的合理性」とはこのようなことなのではないかと。

ハーバーマスはこの「認知的・道具的合理性」は確かに合理的ではあるとしているが、「目的志向的行為」として扱っている。
また、その場における情報に基づき自由に処理をする、変化(結果とも言える?)が出たから合理的というわけではない、とも言っている。

場面に合わせて処理されることも必要であろうが、確かに、その場その場で自由に処理してしまうと、客観的事実が失われてしまったり、もっと言えば文化的背景や普遍的という言葉さえ霞んでしまうかもしれない。
そして、変化=合理的でないというのは帰結主義に否定的と捉えられる。

ハーバーマスは合理的な議論を経て相互主観的な「合意」に至るとしているのだが、この議論で重要となるのが「根拠」である。またその根拠が妥当であるか、という点において、彼は「妥当性要求」というのをあげている。
これは簡単に言ってしまえば「私の根拠が妥当であるか吟味してください」と言ったようなものであろうか。

私はまだそこまで触れることが出来ていないが、以下の三点がある。

①真理性
②正当性
③誠実性

まぁお前早く読めよ、という感じではある。一応、そのような話は出てきたのだがガッツリしていないので。

そんなこんなでハーバーマスは「目的論的行為」「戦略的行為」というものを述べるのだが、どちらも目的志向的であり、つまり認知的・道具的合理性が使われているのである。

簡単に言えば
「目的論的行為」は読んで字のごとく、目的を目指し手段的に行為すること。「戦略的行為」は人間に対する「目的論的行為」のようなものである。

読んでいてわからなかった「認知的・道具的合理性」だが、目的を志向する時(手段として利用される時)に何が行われるか?と考え、排除や効率化、結果というキーワードを元に解像度を上げることに成功。

私は「合理的」という言葉に少し囚われていたが、合理的には両義性があるのだと痛感した。し、自分で吟味して納得したなかなか味わえない幸福感を感じている。

以上、初noteでした。

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