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ダウンコートが着られない

「今日は寒いってテレビの人が言ってたよ。ダウンコート着ていく?」
「いい」

ヴィヴィアンのロッキンホースに足を入れてリボンを結ぶ。風邪をひくからマフラーくらいしろと止まらない母の言葉を受け流す。靴を履き終えて玄関の姿見をチェックする。ゴルチエの黒のコートはパターンの美しさに惚れて買った。ラメが散りばめられた黒タイツにパンプスのリボンが絡みついている。いい組み合わせだと鏡の中の人物に微笑む。

「夜ご飯は家で食べる。いってきます」

母は私が見えなくなるまでドアを閉めない。いつもと同じタイミングでふり返って手を振る。歩きながらチラチラと目に入るコートに足が弾んだ。気分に合うコーディネートができるとその日はごきげんに過ごせる。ある日はクラシカルなワンピースを着て童話のキャラクターになったり、またある日は着物を着て大正時代にタイムスリップしたりと、なりたい世界の住民になれるファッションに夢中だった。

季節にふさわしい格好をしない私に母は何度もダウンコートを勧めた。暖かいかもしれないが代償が大きすぎる。ナイロン生地はテロテロとした独特の光沢があり、擦れるたびにシャカシャカと肌寒い音が鳴る。何より同じ間隔で段が入ったデザインはミシュランマンを思わせる。耳がちぎれそうになっても、手が冷凍食品のようにカチカチになっても、あの奇妙なシルエットだけにはなりたくない。そう思いながら歯を鳴らしていた。

しかし今日の寒さは体の土台まで染み込んできた。ブルブルと振動するダイエット器具に乗っているような震え方に笑いそうになる。次第に歩くこともままならなくなり、観念した私は近くのユニクロに駆け込んだ。

アウターの売り場は混み合っていた。買い物をする人たちのカゴには、きまってヒートテックとダウンコートがセットで入っている。鏡の前でコートをあてる人や、店員に試着の場所を尋ねる人、お揃いにしようと言って盛り上がる学生がいた。

その場しのぎの適当なものを買おうとしていたら「インナーダウン」という文字を見つけた。どうやらアウターの下に着る薄いダウンらしい。どうしても避けたかったあの野暮ったい形を隠しながら暖をとれるなんて、都合がよすぎる感じがした。オシャレのためならいろいろと我慢するのがあたりまえになっていた自分にとって、それは手を出してはいけない反則な気がした。そもそも気温ごときに負けてずっと大切にしてきた私のこだわりを曲げていいはずがない。

うしろめたさを感じながらも、せめて色だけにはこだわろうとネイビーを手に取る。もっと目立たないように黒を選択するべきだったとレジの最中に後悔した。着ていくために値札を切ってもらったインナーダウンを羽織る。シャカシャカ。これまで他人から聞こえていた服らしくない音にザラつきながら、その上にコートを重ねた。

とくに暖かさは感じない。期待しすぎたと肩を落としながらショップを後にする。こんなに軽くて薄いものを1枚着たくらいでしのげる寒さではない。これなら我慢してマフラーでも巻いてこればよかったと思いながら震えに備える。

しばらくしても凍える兆しがない。それどころか体がゆっくり解凍されていくような温もりが伝わってくる。気温に左右されてたまるもんかと尖っていた私の心を優しく溶かしてくれているようだった。

インナーダウンではなくてダウンコートが着たい。それを着こなしてこそ本当のオシャレと言える気がする。このアイテムをどう調理したら素敵に見えるか研究してみたい。いろんな想いが溢れ出す中、私の足はユニクロに向いていた。


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