見出し画像

「さいころ」 

あらすじ
後藤憲一、彼の持っているコンプレックスは物事を決めれられないというものだった。彼の”平凡”な人生に中野佳純が彩を加える。

「この花をください。」
「ガーベラですね。かしこまりました。」
 僕は家の近くの花屋でガーベラを購入した。彼女が入院しているのだ。
 本来なら僕がプレゼントする花を選ぶべきだったが、しょうがない。神がガーベラを選んだのだ。  

 小学生の頃から“決める”ことが嫌いだった。僕は小学五年生、母と近所のドラックストアに、買い物に行った。母は一人で今日の晩御飯の買い物をしていた。
「けんちゃん、お母さんお肉見てくるからお菓子コーナーで選んできよ。」
「うん、わかった。」
 僕は一人でお菓子コーナーに行き、私より大きな陳列棚に並べられたたくさんのお菓子たちをぼんやり眺めていた。限られたお金の中で私はこのアメリカに匹敵するお菓子たちと戦争をしなけらればならなかった。今日で何戦目だろうか。何戦目なのかわからないが全戦全敗なのは確かだ。だけど、何をもって負けなのかはわからない。
 悩みに悩んだ末、板チョコとキャラメルポップコーンを買ってもらうことにした。本意ではなかった。
 もっと、いいお菓子があったのではないか。新発売のお菓子を買った方が、新しい発見ができたのではないか。そのような感情が僕の心に侵略してきた。僕は今日も負けたのだ。
「おかぁ、これにする。」
「それだけでいいん?あんたすぐおかしぜんぶたべるやん。」
「もっと買っときよ。」
 その母の言葉がもっと僕を惨めにさせた。欲しいお菓子も選べない僕を惨めにさせた。
 家に帰ってきた。僕の家は学校の友達の家より少し広くて大きいらしい。
 僕は帰ってすぐに、玄関に入ってすぐにある急な階段を登って自分の部屋に行った。
 小学の僕からしたらあまりにも急で手すりを使わないとなかなか登れない。少し息が切れ、心臓がドクドクと音を立てた。今日の戦利品を自分の部屋の真ん中にある丸い木製のテーブルに置いた。
 チョコレートとキャラメルポップコーン。確かに美味しい、しかし何回も食べたことがある。私はチョコレートの包装紙を破り、口に入れた。安定した美味しさだ。僕はまだ食べたことのないお菓子に挑戦しなかったことを思い出さないようにチョコレートの甘みを肯定的に捉えようとした。
 気づいたら28個入りのチョコレートがなくなっていた。またやってしまった。母親には怒られはしないが、何らかのツッコミが入ることは確定した。
 確かにチョコレートは美味しかった。しかし、その美味しさと引き換えに何かを失ったような気がした。
 木製のテーブルの上にチョコレートの包装紙が無造作に散らばっている。テーブルから落ちているものもあった。チョコレートを全部食べてしまった罪悪感に少し浸っていたが、すかさずキャラメルポップコーンが目に入った。食べたすぎる。チョコレートでお腹はいっぱいなはずなのに。
 多分これは食欲ではない。食欲ではない何かが僕にキャラメルポップコーンを食べさせようとしているのだ。もちろんそいつには抗おうとした、少しは。だけど、そいつはめちゃくちゃに強かった。僕がただ弱かった可能性もある。どちらにせよ僕はそいつに負けた。
 キャラメルポップコーンの箱が空になっている。今日で2回も美味しさと引き換えに何かを失ってしまった。空の箱はテーブルの上で死体みたいに横たわっていた。それはまるで獰猛な獣に貪られたかのようだった。
「けんちゃん、ごはんばいー。」
「はよ、よりてきよー。」
「はーい。」
 僕は母の鬱陶しいくらい甲高い声に対し、声変わりの準備段階の声で応答した。
 我が家の急な階段を駆け降り、リビングに入った。食事用の机にはすでに父と母が席についていた。
 視点を机の中央にやるとそこには唐揚げが山のように盛られていた。なぜか、謎の怒りが込み上げてきた。今考えるとそれは2種類に分けられる。晩御飯前にお菓子を貪り食べる愚かな僕に対する怒りとこんなに唐揚げを山盛りに作った母に対する怒りだ。少し冷静になると、山盛り唐揚げの横にサラダが見えた。サラダにはキャベツ、レタス、ミニトマトが入っていたと記憶している。唐揚げの量に比例してサラダの量も多かった。
 僕は先ほど食べたお菓子で満腹だ。
 とりあえず、小皿にサラダを装った。しばらくはそれで乗り切っていたがやはり母のツッコミが入る。
 「あれ、けんちゃん唐揚げ食べんと?」
「うーん、食べるよ。」
 本当は、全く食べる気はなかった。今振り返ると申し訳ないが、本当に鬱陶しかった。たぶん思春期に片足を突っ込んでいたのだろう。
 僕はこれ以上母にツッコミを入れられないように唐揚げを2つほど装ったサラダの上に乗せた。次の瞬間やはり母は2度目のツッコミを入れてきた。もう何と言われるかはわかっていた。
 「あんた、さっき買ったお菓子全部食べたやろ。」
 やはり、母はこう言った。別に全部食べようと思っていたわけではないのだが食べてしまった。私は心の中でこう言い訳にならないような言い訳をした。
 「いや、まー食べたっちゃ食べたけど。」
 「やけん、ごはん食べれんくなるんやん。何回目ね。」
 やはり僕はだめなやつだ。欲しいお菓子も決めることができないだめなやつだ。晩御飯前にもかかわらずお菓子を貪ってしまうだめなやつだ。僕には生まれつき強い意志のようなものが備わっていなかったのかもしれない。
 食事が終わると自分が使った皿を台所へ持っていき、溜めてあった水の中に皿を入れた。テーブルを見ると唐揚げがたくさん余っていた。僕が食べていないからであろう。しかし、明日の朝から唐揚げを食べられることを考えると僕はワクワクした。
 僕は食器を台所へ持って行った流れで風呂に入った。父はもうすでに済ませており、母はいつも最後だ。父が先に、風呂に入ったからか湯が少し温かった。自分に対する嫌な感情を打ち消すには、熱々の湯が必要であった。僕は湯船に湯を足し、それが貯まるまでリビングのソファで少し待った。母が、湯が貯まっていることを私に知らせる。僕は今からこの感情を打ち消しに行く。
 目が覚めると朝日がカーテンの隙間からこれでもかと差し込んでいた。日光が僕の部屋を侵略しているように見えた。僕以外のみんなは、嫌なことは寝れば忘れるというが、そんなのは全くの嘘である。寝ることで少しは楽になるかもしれないが、またあの感情は肥大し僕を食い潰す。僕の今の感情は“くもり“だ。いや、正確に言うと曇りのち雨である。降水確率は100パーセントだ。僕は僕の気象予報士であった。
 ベランダに出て深呼吸をし、空を眺めた。特になんとも思わなかった。我が家の急な階段をドタドタとおりていく。朝は眠いので階段を降りる音を小さくするという配慮はできない。まあ、それでまた母に怒られるのであるが。
 「けん、うるさいんだけど。」
 「もっと静かに降りれんのかあんたは」
 今日もいつもと変わらず怒られた。母はすでに朝食の用意をしてくれていた。目玉焼きとウインナー。それから味噌汁とご飯。いつもと同じ顔ぶれだ。私はそれらを即座に平らげ、学校に行く準備をする。父はもうすでに出勤している。私はランドセルに必要な教科書を次々と詰め込んでいく。僕は確認を怠らない。心配性なのだ。学校に忘れ物をしてしまった結果が脳裏に浮かぶ。みんなの前で先生に忘れ物があるということを報告する。あれが苦痛で仕方ないのだ。あんなことは2度とあってはならないということを心に刻み、教科書の確認をしていく。
 10分ほどの確認が終わり、ようやく家を出ようとした時母が僕を引き留めた。
 「あんた、提出物忘れとるよ、今日までやないん?」
 危なかった。間一髪であった。僕はこの時少しばかりの胸の鼓動を感じたのを覚えている。母からプリントを受け取り、ランドセルに詰め込む。少し乱雑に仕舞われたプリントは少しばかりシワが入っていた。しかしそれを治す余裕は僕にはなかった。たしか、あのときはランドセルが少し湿っていた。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
 この扉を開けると、また退屈な1日が始まる。

 僕は23歳になっていた。大学は地元の国立大学だった。そんな僕は4年間フル単だったのだが、ギリギリで単位を取得しているような学生としても、人間としてもクソつまらないやつだった。
 卒業後は親戚の伝で地元の鮮魚店で働くことになった。給料はそんなに高くない、だけれども魚を捌いている時は何も考えなくてよかった。鱗をとり、頭を落とし、腹を割き内臓をとる、そして3枚に下ろす。それを何回も繰り返す。まるで座禅のようだ、やったことはないが。
 そんな僕にも彼女くらいはいた。僕と違って笑顔が素敵な人だった。彼女とは大学3年の時の春、財政論の初回の授業で出会った。

 火曜日の1限、僕は授業開始2分前に、教室についてしまった。1限の授業なのに人がいっぱいで空いている席があまりない。初回の授業だからだろう。駐輪場もほぼ空きがない状態だった。入り口の近くにちょうど誰もいない3人用の席を見つけたので右端に座った。
 リュックサックの中から指定されていた教科書を取り出す。すると、チャイムと同時に教室に駆け込んでくる金髪ロングの女性の姿が見えた。その女性は間髪入れず僕が座っている席の左側に座ってきた。真ん中の席は空いている。僕の心拍数は一気に跳ね上がった。中高と彼女はおらず、大学に入ってもそれは変わっていなかった。
 彼女は走った影響で額に汗をかいたのか、ジーンズのズボンのポケットからハンカチを取り出し、額の汗を数分間拭い続けた。彼女の熱気が香水の匂いを乗せて僕の方まで飛んでくる。それはあまり悪い気がしなかった。むしろ、女性の体温の高まりを感じられた気がして得した気分だった。
 彼女が額の汗を拭うのをやめたのは授業が始まって15分後くらいだった。彼女の香水の匂いにも慣れ、教授の話にもやっと集中できるようになった。
 大学の授業では初回にオリエンテーションをすることが大半だが、その授業では思いっきりテストの範囲の内容をやり出した。
 「教科書の15ページを開けてください」
 僕はあらかじめ取り出しておいた教科書を開いた。事前に配布されていたレジュメに書いていない内容だった。
 隣を見てみると、慌てた様子でトートバックの中を探していた。絶対教科書を忘れている。
 教科書を忘れて同様したのかまた額の汗を拭っていた。
 「すいません、教科書見せてくれませんか?」
 僕だったら、教科書を忘れても隣の人に見せてもらうことはしなかっただろう。
「いいですよ」
「じゃあ、隣行きますね」
 彼女はそう言うと右側の耳に髪をかけながら机の一番中央、つまり僕の隣に座ってきた。治っていた僕の鼓動がもう一度一気に跳ね上がるのを感じた。今度は逆に僕が額にうっすら汗をかいたのでハンカチで拭った。
 全然授業の内容が頭に入ってこなかった。
「えー、16ページを開いてください」
 教授が指示をする。
「おーい、次16ページだってよー」
「おーい、聞こえてるー」
「!!!!!」
「あっ、ごめんごめん、16ページだよね」
 こんな時間の飛ばし方をしたのは初めてだった。16ページを開けると今度は授業がおわるまで時間が飛んでいた。
「キーンコーンカーンコーン」
「では、今日の講義はこの辺で、来週も教科書を使うので忘れないように」
 僕は開かれた教科書を閉じ、リュックサックにそれをしまおうとした。
「あ、それと来週からも今日座った席に座ってください」
「え?」
 不意に変な声が出てしまった。なんとなくだが、この時この授業の単位を取れない気がした。来週のこの時間も彼女が隣に着席すると言う事実を僕はまだ受け止めきれていなかった。
「今日は教科書見せてくれてありがとね!」
 この時、初めて彼女の顔をしっかりと見た、明るめの金髪に見劣りしない白い肌。両耳に付けられた銀色のピアス。そして、恥ずかしげもなく歯を見せた満開の笑顔。
「い、いや、別にいいですよ」
「いやーほんとに助かったよー」
「あ、やばい何年生ですか?」
「3年、ですけど」
「あーよかったー、先輩じゃないんだー」
「年齢は関係無いのかと心の中でツッコミを入れた」
「なんか、来週もここに座らなくちゃいけないらしいね」
「そうだね」
「私、中野佳純、あなたは?」
「後、後藤憲一」
「LINE交換しとこうよ、ほら、これから半年間の付き合いになるでしょ」
 リュックからスマホを取り出すと中野佳純はQRコードを僕に差し出した。僕はQRコードを読み取ると彼女のアイコンが表示された。表示されたのはサイコロだった。
 「後藤憲一くんだからー、憲ちゃんで登録しとこー」
 彼女はなかなか距離を詰めるのが早かった。さぞ、友達もたくさんいるのだろう。そう思った。
 「じゃ、憲ちゃんまた来週の授業でね!」
 「う、うん」
 そう言うと、中野佳純は教室から立ち去っていった。

           
 彼女は2回目の授業もチャイムと同時にやってきた。
「おはよー憲ちゃん!」
「いやー暑くなってきたねー」
 暑いのは季節が変わっているからではなく、彼女がここまでくるのに走っていたからだと思った。
「おはよう、中野さん」
 授業のチャイムが鳴るまで読んでいた三島由紀夫の『金閣寺』にしおりをして閉じた。
「憲ちゃん、小説読むんだー」
「ま、まあね、授業始まってるから静かにしないと」
「はいはい」
 女性が隣に座っていることに少しは慣れたが、全く授業に集中できない。1回目の授業の時に対面してから、正直彼女の面は僕の好みではなかった。このようことを公に言うと童貞が何を言うかと世間から袋叩きに合うかもしれないなど要らぬ心配をした。
 だがしかしだ、彼女の明るさと時折見せる満開の笑顔はぼくの心をおもいっきり貫いていた。しかし、僕はそのことを認めたくなかった。そのことを認めてしまうと“恋愛”と言う工程に片足を突っ込んで自分を保てなくなりそうな気がしていた。
 僕が彼女に一目惚れするのには時間は要らなかったが、好きだと認知するのには少々時間がかかると思っていた。
「では、教科書の25ページを開けてください」
 僕はあらかじめ机に置いておいた教科書を広げた。彼女はトートバッグの中をゴソゴソと探して一言。
「また、忘れちゃった」
 こいつ、またやりやがった。僕のこの授業においての平穏はどこにあるのか。そう思った。
「見てもいい?」
「まあ、いいけど」
「次は、持ってきなよ」
「はいはい」
 申し訳なさそうな顔1つせずに、彼女は僕のとなりに座ってきた。これで彼女が僕の隣に座るのは2回目となるが、多少は免疫がついたようだ。免疫がついたからといって僕のせいに対する貪欲な雑念が消え去ったと言うわけではない。むしろ、彼女の1つひとつがエロティシズム的に僕の目に鮮明に、映るようになっていた。
 授業が終わると彼女はこんな提案を僕にしてきた。
「ねー憲ちゃん、昼休み一緒に学食行かない?」
 いわゆるコミュ力の高そうな彼女には友達が複数いそうだが、なぜ僕を誘ったのか不思議に思った。
「いいけど」
「じゃあ決まりね、食堂の入り口付近で待ってるから!」
「うん」
 2限の授業が終わると、僕は面倒臭さと少しの期待を両手に持ち食堂へ向かった。食堂の入り口の手前まで来ると彼女は男と中良さげに談笑していた。僕の少しの期待は3分の1までに減少した。
 向かってくる僕に気がついた彼女は男との談笑をやめ、こちらに手をふってきた。  
 「憲ちゃん、おつかれー!」
 彼女は満開の笑みをこちらに向けた。恥ずかしいので一刻も早くやめて欲しかった。 
 「おつかれ」
 「じゃあ、またな佳純」
 「うん!またね!」
 あの男は彼女のことを“佳純”と呼ぶ仲なのかと僕の中に嫉妬らしきものが生まれた。
 「憲ちゃん、行こ!」
 「うん」
 彼女は食堂の中に入ると、入り口にあるメニュをー眺めていた。僕もそんな彼女を眺めていた。
「ん?どうかした?」
「いや、なにも」
「そう」
 誤解を招かないようにいっておくが、このときは全くもっていやらし目などで彼女を見ていないと断言できる。彼女のヒップラインや胸を見ていたというわけではない。断言できる。
 そのようなくだらないことを思っていると彼女はポケットからサイコロを取り出した。それを手のひらで転がした。
 出た目は1だった。
「カツ丼だ」
「なんだよ、それ」
「ああ、気にしないで、私は決まったから」
 気にするだろ、と心の中でいつもより激し目のツッコミを入れたが、深堀はしなかった。
「憲ちゃん何食べるの?」
「うーん、ラーメンかうどんかで迷ってるんだよなー」
「もー、優柔不断だねー」
「私が決めてあげようか?」
「私が決めるって言うか、このサイコロで決めるんだけどねー笑」
「いや、自分で決める」
「ラーメンだ、ラーメンを食べる」
「そう」
 僕は優柔不断で、それが小さい頃のコンプレックスだった。しかし、彼女の行動に少し腹が立ったと同時に奇妙さを覚えた。自ら決定を避け、サイコロに運命を委ねる、それに抗いたかった。いくら悩んでも最後は自らの手で決める。それが正義で人間の美しさだと思っていた。
 各自、注文した物を受け取ると窓際の席が空いていたのでそこに座ることにした。
「よーし!食べるぞー」
「少し静かにしてくれよ」
「いーじゃん、お腹減ってるんだもん」
 全く静かにしなくても良い理由になっていなかった。
「はいはい」
「いただきまーす!」
「いただきます」
「んーおいしー!」
 やっぱり、聞かずにはいられなかった。なぜ彼女がサイコロで自分の行動を決定しているのかということを。
「あのさ」
「なんで、サイコロなんか使って自分の食べる物決めたの?」
 彼女はカツ丼を頬張ろうとしたところで手を止めた。一瞬顔がこわばったような気がしたが気のせいだろうか。
「んーそれはねー」
「もっと仲良くなったら教えてあげる」
 “仲良く”とは何を指しているのかこのときはわからなかった。

 
           
 土曜日の朝8時、僕はバイトに行くための準備をしていた。いつもなら自転車でバイト先の本屋までいくが、雨が降り出しそうだったので歩いていくことにした。バイト先から指定されている黒のズボンを履き、肌着の上にロングTシャツを着る。
 雨が降るならもっと勢いよく降って欲しかった。降るなら降る、降らないなら降らない、もっとはっきりした方がよいと天の神様に心の中で説教をしてやった。その説教は即座に中途半端な自分にブーメランとして僕の胸に深く突き刺さった。
 自分で自分の気を悪くした僕は、気を紛らわそうと換気扇の下でタバコに火をつけた。一瞬でもこいつが気を紛らわせてくれることで僕は生きていけるのだとタバコを吸うたびに考える。
 タバコを吸い終わり、バイトの時間が迫っていることに気づく。ドアを開けるとさっきの中途半端な天気が打って変わり、堂々とした雨になっていた。僕の説教が神様に届いてしまったようだ。
 カバンを持って傘をさし、バイト先まで向かう。本屋に着くと店長がいたので挨拶した。
 「店長おはようございます」
 「おはよう、後藤くん」
 「そうだ、本棚の整理お願いしてもいいかな?」
 「わかりました」
 開店まであと少しだったので急いで頼まれた仕事をこなした。
 開店して15分くらいだっただろうか。本棚を整理していると金髪の女性が入ってくるのが見えた。それは中野佳純だった。
 まず彼女が向かった先は意外にもビジネス書が並んである棚だった。僕は彼女に見つからないように小説が並んである棚に移動した。ああいう人でもビジネス書を読むのかと不意をつかれた。
 彼女は何冊か手に取りパラパラと本を眺めていた。彼女の挙動は少しおかしかった。本を手に取ったかと思えば少し周りを見渡し、また本をパラパラと眺める。うちの本屋では立ち読みは許可している。それは店内にもわかりやすく掲示してあるので彼女も知っているはずだ。店員を警戒する必要はなかった。
 不思議に思った僕は彼女の行動を観察し続けた。5分くらいして彼女の行動に動きがあった。次は料理本が並んである本棚に向かった。僕もバレないように先ほど彼女がいた、ビジネス書が並んである棚に向かった。
 またキョロキョロと周りを見渡し、料理本を何ページかパラパラと見ている。目的がなく本屋にくる人はいるが、なぜ周りを警戒しているのかが全くわからなかった。
 「後藤さん」
 「!!!」 
 中野佳純に気を取られているうちに誰かに背後を取られていたようだ。後ろから僕の名前を呼んだのは同じバイトの西川いおりだった。
 「ちょっとわからないことがあって」
 彼女は同じ大学の2年生で、ここの本屋で働いて4、5日の新人だ。
 「そうなんだ、今すぐ行くよ」
 「ありがとうございます。助かります!」
 僕がその場を去ろうとすると中村佳純にまた動きがあった。キョロキョロしながら小説が並んである棚に向かっていた。彼女をずっと見ている僕にも 問題があるがそれ以上に彼女の行動は奇妙だった。
 西川に呼ばれたことで中村佳純の観察は終了した。僕は西川に仕事のやり方を教えたところでバックヤードへ自分の仕事をしに戻った。
 「後藤さーん」
 「ちょっといいですかー」
 また西川の声だった。
 「どうしたの」
 「レジのやり方が少しわらなくて」
 「そっか、ちょっと行くよ」
 僕はバックヤードを出て、レジに向かった。
 「お待たせしました」
 「!!!」
 「憲ちゃん!」
 レジの前に立っていたのは中村佳純だった。彼女はレジのところに置いていた本を自分の背中の後ろ側に隠した。
 「ナンデ、ケンちゃんイルノー」
 めちゃくちゃ棒読みになっていた。
 「いや、ここでバイトしてるんだけど」
 「ア、ソウ…」
 「うん、後ろも詰まっているから本出してもらってもいいかな」
なにか観念した様子で2冊の本を彼女は背中の後ろから出した。それは2冊とも官能小説だった。

 

            
 先週と同様に、中村佳純に誘われ食堂の前で待ち合わせをしていた。昼休み真っ最中なので人が多く、気のせいか目が回っていた。ゴールデンウィークのショッピングモールでも同じような体験をした。毎週、昼休みに、食堂に来ると考えたらすこし気が重かった。
 朝はいつもお腹が空いていないが、なぜか今日はお腹が空いていた。きのうの夜、白米を炊いていたので、目玉焼きとインスタントの味噌汁を朝、たらふく食べて来た。というわけで昼飯を食べるというような気分ではなかった。
 しかし、好意を持っている女に飯を誘われたわけだ。これを断るバカがいたら説教してやりたいくらいだ。というようなことを考えながら中村佳純を待っていた。
 「あーお腹すいたなー」
 彼女はそう言いながら人混みの中から現れた。
 「おっす、憲ちゃん、元気か?」
 「元気かってさっき1限の授業で一緒だったじゃないか」 
 「それもそうか、お腹空きすぎて死にそうだよー」 
 「食堂混んでるけど、我慢できる?」
 「うん、なんとか、我慢できなかったら憲ちゃん食べちゃうから」
 食べられたかった。
 食堂の中に入ると彼女はアルコール消毒の液を多めに、取り僕にぶちまけて来た。
 「うあ、何すんだよ」
 「いやー衝動が抑えられなくて」
 「どんな衝動なんだよ」
 アルコールなので乾きが早かった。自分の服が乾くにつれ、彼女が遠ざかるような気がした。もっと濡れていてもいいと思った。
 入り口付近の壁に貼ってあるメニューを2人で眺めていた。彼女はメニューを15秒ほど眺めて、ポケットからサイコロを取り出した。彼女はまた迷っていたようだった。
 「この間、このサイコロポケットに入れたまま洗っちゃたんだよー」
 「そのときはもうめっちゃ焦ったね」
 「もう一個買えばよかったじゃん」
 「それじゃダメなの」
 彼女は一瞬少し悲しそうな顔をした。おそらく僕が何か余計なことを言いたのだろう。でも、彼女の持っているサイコロが彼女に取ってどれほど大切なのかまだ理解しきれていなかったので謝る気にならなかった。
 「で、中村は何食べるの?」
 「迷ってるからサイコロ出してるんじゃん」
 「何と何で迷ってんの?」
 僕は今から食べるものについて質問したはずだったが、なんとも検討はずれな回答が彼女からあった。
「んー生きるか、死ぬか?」
 一瞬、核爆弾を投下された後のような静けさがあった。このことについて触れるべきか、触れないでおくべきか、僕は長いようで短い猶予を与えられた。
 「で、何食べるの?」
 「そうだなー、期間限定の海鮮丼もいいしー、うどんも食べたいなー」
 「奇数が海鮮丼で偶数がうどんねー」
 「はいはい」
 彼女はこなれた様子で、手のひらでサイコロを転がした。出た目は5だった。
 「海鮮丼だ!」
 彼女のメニューが決まったので、各自、自分のものを取りに行った。海鮮丼のレーンは期間限定というのもあって混雑していた。僕はうどんのレーンに並び、混雑を回避できた。
 うどんを食堂のおばさんから受け取り、テーブルがあるところに向かう。彼女はというと待ち時間が暇すぎたのか、僕が海鮮丼の列の横を通る時に、僕に向かって変顔やら出来もしないウインクをしてきた。反応の仕方がわからなかったので無視してやった。
 しばらくして、彼女が僕の座っているテーブルへやって来た。
 「なんで無視すんの」
 「なんでって、どう返したらいいんだよ」
 「あんなこと二人ともやってたら気色悪いカップルかと思われるだろ」
 「いいじゃん別に」
 僕はカップルと思われてもなんらダメージはないが、明るくて、社交的な彼女にとってはマイナスになると思った。
 「この海鮮丼めっちゃ美味しそうじゃない?」
 「うん」
 「リアクション薄いなー、さてはモテないだろ」
 「はい、モテませんよ」
 「またー開き直っちゃって、憲ちゃん彼女いないの?」
 「いたら、こうやって2人で昼飯食わないだろ」
 「いたことは?」 
 「ないよ」 
 「へー、じゃあ童貞なんだー」
 「うるさい、悪いか」
 なんだか知らないうちに、彼女に会話の主導権を握られてしまって少し惨めな思いをした。
 「あ、この間の本の件は誰にも言わないでね」
 「言わないよ、ていうか言いふらすような友達いないし」
 「うあ、悲しいこと言うなー」
 「じゃあ、私が友達になってあげるよ」
 「中村が?」
 「そう、私じゃだめかな」
 「いや、ありがたいけど」
 「サイコロで決めようか?」 
 「いや、やめてくれ」
 という感じで僕と中村は友達になったわけだ。
 
           
 「キーンコーンカーコーン」
 テスト前最後の授業が終わった。
「あーテスト嫌だなー」
 「どうしたんだよ、急に」 
 「いや、そのままでテストが嫌なんだよ」
 「そうだ、今度私の家で勉強しない?」
 「んー、テスト勉強はいいけど、なんで中村の家?図書館でもいいじゃん」 
 「まーそれもそうなんだけど、ちょっとうるさくなるかなと思いまして」
 僕の常識の中で1つの矛盾が生じた。
 「なんで、勉強してうるさくなるんだよ」
 「まあまあいいじゃん」
 女性の家など行ったことがなかった。大学生の間に女性の家を訪れるチャンスを神様は与えてくれたのだろうか。それだったらありがたく頂戴するまでだ。だが、僕は男として情けない部分を持ち合わせていた。
 「わかった、中村の家でやろう」 
 僕は男の情けない部分を隠し、返事をした。
「じゃあ、決まりね」
「土曜日はバイトある?」 
「ないよ」
 「じゃあ、今週の土曜日、18時とかでいい?」
 「ちょっと遅くない?」
 「あたし、バイトあるんだよー」
 「わかった、じゃあそれで」
 
 
 今日は約束の日の土曜日。僕はカーテンから差し込む光より早く起きていた。朝一番にすることはタバコだった。あと残り数本のになったタバコの箱とこの間買って使わずにいたジッポのライターを手に取り、キッチンの換気扇の下へ行く。
 着火と同時にオイルの香りが鼻に入ってくる。安物のライターでは味わえないだろう。
 期末なのでテストのない授業は課題があった。まだ起きたばかりだが、僕は提出期限にまだ余裕のある課題に取り掛かった。
 気づけば、11時を回っていた。朝食も取らず黙々と課題をやっていたようだ。いつもこのくらい余裕を持って課題に取り掛かればギリギリになって提出ということにはならないと改めて気づいた。
 これから食べるご飯を朝食として食べるか、昼食として食べるかそんなことを考えていた。少し値段が、高そうなウインナーが実家から届いていたので、それと目玉焼きを焼き、おかずとして用意することにした。ウインナーが入ることで少し豪勢になったので、昼食として食事をとることにした。
 食後の一服はやはり美味しく感じる。以前、YouTubeで3大欲求を満たした後にタバコを吸うのがうまいと言っている人がいた。その通りであると言い切りたいが、相手がいて性欲を満たしたことがないので僕の中では仮説である。
 最後の一吸いを終えると少し眠くなったので仮眠をすることにした。まだ18時まで時間があったのでアラームをつけずに布団の中に入った。

 目が覚めると、16時になっていた。何も考えずにとりあえず一服した。
 たぶん、彼女は授業内容がほぼわかっていないような様子だったので、少し復習することにした。僕も内容が曖昧だと彼女になんか言われそうな気がした。

 復習しているとスマホが鳴った。中村から家の位置情報が送られてきた。僕の家から自転車で10分くらいの距離だった。時計を見ると17時39分になっていた。僕は少し早めに家を出ることにした、避妊具を買うために。

             
「ピンポーン」
「はい」
 インターホンから中野らしき声が聞こえる。
「後藤だけど」
「憲ちゃん!今開けるね!」
 たどり着いたのは、いかにも大学生が住んでいるようなアパートの2階だった。中野の家が高級マンションじゃなかったので安心した。そんな場所ではおそらく勉強は捗らないし、なにしろ、僕の近くにいる中野が本当は遠くにいる人間だと思ってしまうから。
「やっほー憲ちゃん!」
「おう」
「入って入ってー」
 彼女はご飯粒を一粒口の右横につけて僕を迎え入れた。彼女が、相当お腹が空いてご飯をかき込んだのが容易に想像できた。
 僕はこの一瞬でこんなことを妄想する。
「口にご飯粒ついてんぞ」
「あら、いつついちゃったんだろう」
「憲ちゃん、取って」
 甘い声で佳純が僕に言う。どのぐらい甘いかというとハチミツに砂糖を入れて煮込むくらいだ。
「なんだよ、自分で取ればいいじゃないか」
「やだよー憲ちゃんがとってー」
「もーわかったよ、しょうがないなー」
 俺は佳純の顔に口を近づけ、米粒を吸い取る。某吸引力がすごくて軽い掃除機のように。そして手を頭に持っていき…
「憲ちゃん、憲ちゃん!」
「どうしたの急に」
 戻りたくもない現実に戻ってきた。中野は心配そうに僕を見ていた。
「い、いやいや大丈夫、勉強やろ」
「うん」
 中野の部屋の中は今片付けましたというような感じだった。授業のプリントが入った段ボールが部屋の端っこに置かれていた。これが女子大学生の部屋かと歴史的瞬間に立ち会ったような感覚だった。そのふわふわとした感覚のまま僕はベットの横にある黒色のソファーに座った。
「コーヒーがいい?お茶がいい?」
「コーヒーで、ブラックでいいよ」
 飲めやしないブラックコーヒーが僕のもとへ届いた。中野はコーヒーをブラックで飲む男性のことをかっこいいと思うだろうか。僕は好意を持ってくれるために中野の中で僕の虚像を作り上げようとしていた。
「トン、カラカラカラ」
 キッチンの方で何か小さなものが、落ちるような音がした。
「どうかした?」
「いや、どっち飲もうか決めてるだけー」
「あ、そう」
 中野のこの奇行にはもう慣れてきた。別に理由も聞く気はない。
 しばらく待っていると中野がタプタプのコーヒーカップを持ってきてリビングの方にやってきた。
 「おまたー」
 「コーヒー飲めるんだ」
 「大人だからね!」
 この一言で僕は大人じゃないのかという気持ちにさせられた。
 「さっ、勉強教えてもらおうか!」
 「はいはい」

 家を出る前にやってきた復習のおかげもあってなかなかいい感じで中野に教えられている。中野も性格に反して結構勉強はできるようだった。僕が教えているところをもともと理解しているのではとも思った。
 「はぁー結構やったねー」
 中野は座ったまま手を組み背伸びをした。少し服が上に上がって腹が見えそうだったがこんな至近距離でチラ見すると絶対にばれるのでやめておいた。中野のタプタプに入っていたコーヒーもあと一口分くらいになっていた。僕のは数口飲んだだけだった。
 「もう2時間も経ったか」
 「もういいんじゃない?」
 「そうだなー」
 「憲ちゃんご飯食べた?」
 「いや、食べてない」
 「よし!」
 中野はそう言って立ち上がった。
 「イテテテ、足痺れちゃった」
 中野らしい。そう思いながら中野が、足が痺れて苦しんでいる様を眺めていた。僕もトイレに行きたくなったので立ちあがろうとした。
 「イテテテ、足痺れた」
 足が痺れた時の不快感には独特なものがある。言葉にはできないかもしれないが、言葉にできない瞬間を中野と共有できているのが嬉しかった。
 2人とも足の痺れが治り、動けるようになった。僕はトイレに行き、彼女は冷蔵庫の方へ向かった。
 トイレから帰ってくると、缶の飲料を手に持っていた。
 「なにそれ?」
 「酒」
「酒って、今から飲むの?」
「そうだよー」
「あれ、憲ちゃん飲めないの?」
「飲めなくはないんだけど」
 酒を飲むには何か理由が必要だと思っている。確かに、今日の勉強は酒を飲むに値する。
「飲みます」
「よっしゃー、チューハイでもいい?」
「うん」
 彼女はキンキンの500mlのチューハイを僕に手渡した。
「プシュッ」
「かんぱーい」
「あー生き返る」
 僕は酔いやすいと自覚しているが、酔った後の自分がどうなるのか分からなかった。勉強した後の酒というのはアルコールに加え、達成感が僕を酔わせる。一気に半分くらい飲んだところで普段の目まぐるしい思考が停止した。
「憲ちゃん、けっこう飲むねー」
 
「んー」
 ソファで寝てしまっていたようだ。携帯で時間を見ると23時を回っていた。テーブルにはスーパーで買ってきたであろう食べかけの唐揚げとポテトサラダ、空っぽ茶碗、そしてストロング缶の空き缶が2つあった。
 彼女はソファの横にあるベットを覗いてみると仰向けになってでぐっすりだった。別に起こす必要もないだろうと思ってしばらく放っておいた。
 しばらくしても、起きる気配はなかったので帰り自宅をしようと、散らかったテーブルを片付け、自分の資料もバックに入れていた時だった。
「憲ちゃん、こっち来て」
 一瞬ドキリとしたが平然を装えるだけ装おうとした。
「どうした?」
「いいから」
 僕は腰を上げすぐそこに、あるベットに座った。すると彼女に押し倒され一瞬で唇を奪われた。
「ん、んんー」
「憲ちゃんと、したい」
 僕はバックの中に入ってきた覚悟を取り出した。駆け巡る高揚感は緊張で押しつぶされていた。
「憲ちゃん、童貞でしょ」
「私もやったことないんだー」
「やさしくしてね」

 物事に集中すると一瞬で終わったように感じるということはよくあることだ。今回もそうだった。
「中野、ベランダ出てタバコ吸ってもいい?」
「憲ちゃん、タバコとか吸うんだー童貞のくせに」
 今さっき卒業したばかりなので何を言われても気にしないでいられた。
「私も行く」
「あ、そう」
 タバコとジッポライターと携帯灰皿を持って2人でベランダに出た。火をつけると夜の明かりに煙が吸い寄せられていく。
「私にもちょうだいよ」
「え、吸えんの?」
「吸ってみたい」
 タバコとライターを渡したが初めて吸う人はなかなか火をつけられないものだ。
「咥えて、吸いながらつけるんだよ」
「なるほど」
「おーできたできた」
「おいしい?」
「まずい」
「だろうね」
 こうやって女性と2人でタバコを吸うのは憧れていたシチュエーションでもある。僕は幸せ者だ。
 
            
「ブーブーブー」
 テスト勉強をした次の日曜日の夜の19時程だっただろうか。鳴っている携帯を見ると画面に表示されたのは“中野佳純”だった。今まで夜に電話が来たことなんて一度もなかった。夕食を食べ始めていた僕は手を止め、電話に出た。
「け、けんちゃん、はぁ、はぁ助けて」
「どうした?」
「はぁはぁはぁ」
 中野は僕の質問にも応答できないくらい深刻な状態のようだった。なぜ、僕に連絡して救急車を呼んでいないのかが気になった。しかし、そんなことを言っているような時間が無いと言うことは中野の声を聞いたらわかる。幸いこの間中野から住所を送られていたので、中野の家に救急車を呼ぶことにした。
「今そっちに救急車呼んだから!」
「俺も今からそっち行く!」
「できたら、家の鍵開けといて!」
 俺は電話を繋いだまま、家を飛び出た。土砂降りの雨が降っていたがそのまま自転車で彼女の家に向かった。中野のことを思って全力で自転車を漕いだ。雨に打たれる苦しみなど微塵も感じなかった。とにかく全力で自転車を漕ぎ続けた。
「キィー」
 自転車を漕ぐことに、一生懸命になりすぎて、危うく通り過ぎるところだった。振り向きざま後ろから来ていた車に、轢かれそうになった。
「あぶないだろ!」
「すみません」
 車に轢かれようがどうなろうがどうでも良かった。僕は自転車を止めてアパートの2階中野の部屋へ向かった。
「中野!」
 僕がこんなに大きな声を出したのに中野からの返答は何もなかった。テーブルの上にはすでに飲んでいると思われる睡眠薬のシートが3枚と1つのサイコロが置いてあった。彼女はオーバードーズをしたのだと一瞬でわかった。最近ODが社会問題としてニュースなどで取り上げられているのをよく見ていた。
「ピーポーピーポー」
 救急車が到着したようだ。ほっとしたと同時に僕と彼女の関係はなんなのだという疑問が発生した。
「中野!救急車が来たぞ!」
 なんど、呼びかけても中野からの返答はなかった。
「中野さんはどこにいますか?」
「こっちのリビングで横たわっています」
「意識はありますか?」
「ないと思います。僕の呼びかけには返答がないです」
「おそらくオーバードーズをしたんだと思います」
「そうですか」
「あなたも付き添いで救急車に乗ってもらいたいのですが」
「わかりました」
「ご関係は?」
「ゆ、友人のようなものです」

 救急車の中で意識の回復しない中野を見ながら、なぜ彼女はオーバードーズをしたのかを考えた。すると中野の言っていたある言葉が浮かんだ。“生きるか死ぬか”中野が昼食のメニューの何で迷っているのかと聞いた時、中野が放った言葉だ。彼女は死のうとしたのか?だとすればなぜ?サイコロの出た目は4だった。彼女の意思は本当にサイコロに委ねられているのだろうか?

             
 私が目を覚ましたのは、私が倒れた翌日の月曜日、午前7時過ぎだそうだ。目覚めて最初に思ったことはテストに行かなければいけないということだった。しかし、私の目の前にある照明は、見慣れたものではなかった。腕には点滴のようなものが刺さっていた。私は思い出した、昨日死のうとしたことを。
「やっと起きた」
 この聞き慣れた声で朦朧としていた意識は少し鮮明になった。
「憲ちゃん!」
「なんでいるの?」
「いや、中野が電話してきたからじゃん」
「あ、そっか思い出した、昨日憲ちゃんに電話したんだった」
「まあ、聞きたいことは山ほどあるんだけど、それは後日で」
「僕は帰るから」
「憲ちゃん、今日テストは?」
「月曜日は全休だから何もないよ」
「もう少し居てくれない?」
「うーん、わかった」
「看護師さんに目を覚ましたことを伝えてくる」
 憲ちゃんからほんのすこしだけ怒りを感じた。おそらくそれは私に対する感情だとわかった。
「中野さーん、大丈夫ですかー」
「はい」
 私は少しの間医師の診察を受け、2日入院することになった。

「中野、1つ聞いていい?」
「ん?」
「死のうとしたの?」
「サイコロで決めたのか?」
 私には日常すぎて、自分で睡眠薬を飲んだと思い込んでいた。しかし、振り返ってみればサイコロで自分の行動を決める私は世界からしたら異質なもので憲ちゃんもそう感じているということがわかった。
「そうだよ」
「そっか、、、」
「もしも4以外の目が出たらどうしてた?」
「4が出るまでサイコロ振ってた」
「本当に死にたかったんだね」
「よかった」
 何がよかったのかこのときは何もわからなかった。人が死にたい=よかったというのはどうも矛盾しているように思えた。
「何が?」
「中野にもちゃんと自分の意思があるんだなって」
 私は気がついた。サイコロを振って自分の行動を決めているということをもっと分解して考えてみると、私の行動を起こしたいという意思が埋もれていただけだということだ。私はその埋もれた意志をサイコロによって掘り出そうとしていたのだ。
 朝の7時過ぎ、セミたちが鳴いている。彼らに意思というものがあるのかわからないが
 間違いなく自分で鳴くことを決めているのだ。
「憲ちゃんありがとね」
「うん」
 私はセミたちと共鳴するように泣いた。私の意思で。これは紛れもなく私が決めたことなのだ。

「じゃあ、僕はテスト行ってくるよ」
「うん、いってらっしゃい」
「またテスト終わったら来るから」
「うん」
 僕は一旦中野に別れを告げ、中野がいる病室を後にした。もっと中野のそばに居てやりたかった。いや僕が中野のそばに居たかった。しかし、テストがあるので流石に休めなかった。もし授業であればずっと中野のそばにいただろう。
 僕は病院の廊下を歩いている。中野の病室との距離が離れれば離れるほど、一緒にいたいという気持ちが大きくなる。僕はその肥大していく気持ちを静観し、中野の病室との距離をどんどん離していく。
 そういえば救急車でここまで来たので帰りは歩きということに気がついた。テストは10時からなので大きな影響はなかった。
 とりあえず、コンビニでタバコとライターを買った。タバコに火をつけ、人吸いした。このとき初めて五臓六腑に染み渡るということはこのことだとわかった。
 中野。僕が好きな人。僕の大事な人。しかし、僕はこの思いを伝えるべきかまだ決めあぐねていた。中野にあんなことを言ったはいいものの、僕はまだ変わっていなかった。
 僕のポケットには中野がいつも使っていたサイコロが入っていた。バンジージャンプをする人の動画を見たことがある。その動画では背中を押す人はいなかった。あくまで自分の意思で落下するというものだった。サイコロは背中を押す役割をしていたのだとこのとき気がついた。中野には背中を押して高いところから落としてくれる何かが必要だったのだ。
 そんなことを考えている間にタバコを吸い終わってしまった。僕はタバコの火を消し、自分の家へと向かった。
 家に帰り着くととりあえず一服した。タバコが僕の不安を和らげてくれるわけではない。だけど、やめられないのだ。中野にこの思いを伝えたいと思えば思うほど、日に日に本数が増えていくのだ。僕はタバコの本数が増える理由をそういうことにした。

「今から期末テストを始めます」
「ガサガサ」
 教室にいる人間が一斉にプリントを表にし、問題を解き始める。一方、僕はというと今回のテストに必要な電卓を忘れ冷や汗が止まらないという状態であった。まず、中野のことなんか考えていられなかった。頭の中の容量をテストに全振りし、とにかく筆算をしまくった。問題用紙は僕の頭の中と比例し筆算まみれになっていた。何度も言うが中野のことを考える余地は僕にはなかった。
「これより途中退室を認めます」
 電卓を持ってきた人たちはゾロゾロと帰り始めていた。周りを見渡すと、残ったのは何らかの理由で電卓を忘れた人たちと電卓を持ってきていてもおそらくテスト勉強をしていなさそうな人たちだった。
 本来なら僕はテスト勉強もしているし、途中退出が許可されたら教室を出て中野のいる病院に向かうはずだった。このとき初めて僕は僕の計算力のなさを呪った。
「テスト終了5分前です」
 これは僕にとって、テストの出来不出来に関係なくこの教室から飛びすカウントダウンなのだ。この5分間ほど長いと感じた5分間は経験がなかった。カップラーメンができるのを待つ5分間とは次元が違うのである。
「終了です」
 僕は大量の筆算によって生み出された大量の消しかすを集め、それを手に持ち教室を飛び出した。消しかすをゴミ箱に捨てるのを忘れそうになったが、そこはしっかりゴミ箱に捨てた。
 こういう時に限って自転車をどこに停めたか忘れるものだ。自転車を探すのに1分半はかかった。僕は自転車を見つけ、僕が持っている最大の力で中野のもとへ向かった。

 自転車を漕ぎながら病院に、着いたら中野に今日のテストのことを笑い話で話そうかということを頭の中で考えていた。僕は中野に会えることをとても楽しみにしていた。
 おそらく今日のテスト1つ単位を落としたことは確定している。中野はそのことをきっと笑い飛ばしてくれるに違いないと思った。早く中野の笑顔が見たい。そう思いながら自転車を漕いでいた。

「中野――、来たよー」
 ドアを開けた時だった、中野は毛布を被せられていて、顔には白い布のようなものが被せられていた。これが意味することは1つであろう。僕は頭が真っ白になった。別にパニック的な行動を起こしたと言うわけではなくただ立って中野の亡骸を見ていた。
 学校に行く前に、中野に思いを伝えられていたら、その後悔は僕のコンプレックスでもある“決めることが苦手”というものが生み出したものだ。僕の脳内は自己嫌悪でいっぱいになった。自分で何かを決定するということがとてつもなく大事なことだと思い知らされた。
「中野、死んでるの?」
「ねえ、中野」
「ねえ、中野、好きだ、君のことが好きだ」
「おそらく、出会ったときから君のことが好きだった」
 僕の顔は涙と鼻水でいっぱいだった。
「ごめん、好きって言えなくて」
 僕の中の中野は一度死んでいたのだ。後悔という感情の裏側には中野が自分で決めたことを尊重してあげたいという気持ちがあった。
「中野さーん、お昼ご飯持ってきましたよー」
 看護師さんが中野の昼食を持ってきたようだ、ここの病院は亡くなった人に対してご飯を用意する病院なのだと一瞬思った。
「え?どうかされました?」
 この言葉は涙まみれで鼻水まみれの僕に向けた言葉だろう。この病院の看護師さんは淡白で人の気持ちを察してくれないのかと思った。
「中野ご飯だよ」
「あーやっとお昼ご飯かー」
「じゃあまた何かあったら言ってください」
 看護師さんは何事もなかったかのように病室を出た。当たり前だろう何事もなかったからだ。
「は?」
 中野がひょっこり起き上がった。初めは純粋な嬉しさが込み上げてきたが、よくよく考えると、さっき泣きながら言ったことを中野に聞かれているということを思い出した。僕はもう何が何だかわからなくなった。
「いやーおなかすいたなー」
「え?死んでるんじゃないの?」
「いや、何言ってんの憲ちゃん」
 何を言っているのかわからないのは僕からしたら中野の方だ。僕はだんだん落ち着きを取り戻し、冷静な思考ができるようになった。
「憲ちゃん、泣きながらなんか言ってたね〜」
「え?やっぱ聞いてた?」
「うん、いやーお腹空きすぎてお腹グーってなりそうだったよ」
「とりあえずご飯食べよーっと」
 そういうと中野は黙々と目の前の食べ物を頬張り始めた。とても気まずかった。亡くなった女性に泣きながら愛の告白をしたと思いきや、それは白い布を顔にかけているだけの生きている女性だったからだ。
 中野が昼食を食べ終わりそうな時、彼女は口を開いた。
「憲ちゃん、私のこと好きなの?」
「…うん」
「そうなんだー、もっと早く言ってくれればよかったのに」
 それはこれまで中野に思いを伝えることを渋っていた僕にとって耳の痛い話であった。もっと早く伝えたかった。だけどそれができなくてやはり僕は変わっていないのだと思った。
「憲ちゃん、生きてる私にもう1回言ってよ」
「さっきは死んだ私に向けてだったでしょ、それは後悔からの告白」
「ほらさっき言ったことを私に言ってみな」
 確かに中野の言う通りだ。さっきは中野が死んだ悲しみからでた告白だった。中野があんなことをしていなければ今頃僕は思いを伝えるチャンスを失っていただろう。
「中野、好きです」
「私も好きだよ」
 その言葉を聞いて治っていた涙の制御が崩壊した。本当に中野が死んでいなくてよかった。僕は彼女が本当に好きで、本当に愛おしい。
 病室の窓を見てみた。その近くにはからのガラスの花瓶が太陽の光を反射しているのを見つけた。
「憲ちゃん、私今日誕生日なんだ」
「え、そうなの」
「プレゼント欲しいなー」
「そんな高いものは買えないけど、何がいいの?」
「花瓶が空っぽだから花がいいなー」
「何の花?」
「ガーベラがいいかなー」
「色は?」
「うーん、迷ってるんだよねー」
 僕はポケットから中野がいつも使っているサイコロを取り出した。
「これ使う?」
「いや、自分で決める」
「ちょっと待ってね」
 中野はスマホで何か調べ物をし始めた。
「決めた、ピンクのガーベラがいい」
「わかった、じゃあちょっと買ってくるから待ってて」
 僕はまた自転車に跨り花屋さんへ向かった。
 

「いらっしゃいませー」
「何かお探しですか?」
 花の名前が何だったか忘れてしまった。
「あのーピンクの花なんですけど名前を忘れちゃって」
「少し待ってもらっていいですか」
 僕は中野に電話をすることにした。
「もしもし、花の名前なんだっけ?」
「ガーベラ」
「ピンクのね」
「うんわかった」
「じゃあまた」
「はーい」

「あら、彼女さんにですか?」
「そうなんです」
「本数は何本にしましょう?」
「何本がいいですかね?」
「そうですねー本数によっても意味合いが変わりますからねー」
「そうなんですね」
 花言葉があることは知っていたが本数によって意味が変わることは知らなかった。僕はスマホをポケットから取り出し、【ガーベラ ピンク 本数】で検索した。彼女がなぜピンクにしたのかここでわかった。僕の顔からは少し笑みが溢れた。
「3本でお願いします」
「かしこまりました」
 僕は家の近くの花屋でガーベラを購入した。彼女が入院しているのだ。
 本来なら僕がプレゼントする花を選ぶべきだったが、しょうがない。僕の彼女がガーベラを選んだのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?