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えーころかげんな死体と探偵たち

あらすじ


 舞台は七十年代の名古屋市。大学生の植田哲夫はダラけた生活を送っていた。ある日植田は先輩の橋本が死んでいるのを発見するが、面倒事を避けるために逃げ出す。その後、罪悪感を覚えた植田は友人と一緒に死体発見現場に戻るが、死体は消えていた。
 次の日、植田が発見した橋本の死体が別の場所で見つかる。警察は橋本の死を事故死だと判断したようだが、植田と映画研究会のメンバーは真相を探るために動き出す。
 死んだ先輩橋本の裏側が次第に明らかになっていく。植田は罠を仕掛けて、事実をあぶり出し、真相に近づいていく。



植田死体を見つける


 1973年、季節は秋に入っていた。名古屋市にある中城大学にはいつものようにけだるい雰囲気が漂っている。午後四時過ぎだからキャンパスには人影もまばらだ。
 植田鉄夫は『映画研究会』の部室に入ろうとして舌打ちをした。ダイアル鍵がかかっていたからである。
「なんや誰もおらへんのかい」と独り言が出る。
 ダイアル鍵の番号を知っている植田は鍵を外して、部屋に入った。
 部室の中央には長机、まわりには折りたたみ椅子とソファー。壁には黒ヘルが並び、『黒テント』や『状況劇場』といったアングラ劇団のポスターが貼ってある。
 部室は四階建てのビルの裏になっていて、日当たりが悪く、電柱が傍に建っているから見晴らしも悪い。誰もつけようと思わないのかカーテンさえもない。
 部屋には甘い匂いが残っていた。誰かが吸ったタバコの匂いだと思うのだが、記憶にないものだった。
 植田はしばらく部室にいたが、誰もやってこないので部室を出ると、鍵を掛けた。大学付近の交差点まで歩きながら、さてどうしようかと考えた。
 このまま下宿に帰る気にはなれなかった。だから、少し離れた所に住んでいる友人を訪ねることにした。つまみでも持って行けば酒くらいは出してくれるだろう。
 植田は性格に難はあったが、小柄で愛嬌のある表情のおかげでどこか憎めないところがあった。法学部の二年だが、真面目に授業に出ていれば四年生になっていたはずだ。
 ぺらぺらのスタジャンに、いつ洗濯したのかわからないジーンズをはいている。ジーンズの後ろポケットにはいつも文庫本が入っていた。ランボーの詩集やロシア文学が多い。
 ちょっとしたインテリを演出するのには、恰好のアイテムだ。それが証拠に本のタイトルが見えるぎりぎりの絶妙な位置でポケットからはみ出している。
 大学正門の横には花壇があり、お婆さんが腰を屈めて、花壇の花を手入れしていた。お婆さんの近くにはジョーロや肥料の大袋を入れた一輪車が置いてある。
 植田はお婆さんに見覚えがあった。なじみのタバコ屋で店番をしている老人だったからだ。
 趣味で花壇の世話をしているのか、それとも大学から委託されているのかはわからないが、七十歳近いだろうにこんなことをやっているとはご苦労なこった、と植田は思った。
 交差点を北西に、隼人池公園のほうに歩いていると、日が落ちてきた。
 秋の夕暮れはどことなく哀愁があって、胸を締め付けられるような気分になる。

 ほろ酔い気分で植田は大学付近まで戻った。時計を見ると午後十時を回っていた。
 正門近くに「嶋本たばこ店」と看板がかかったタバコ屋がある。
 いつもは八十歳を過ぎた女性が店番をしているが、休日には若くて可愛い女の子が店にいることがある。タバコを買うなら、お婆さんよりも若い女性がよいと思っているのだが、ここ一ヶ月ほど彼女を見かけない。
 チラリとタバコ屋を見たが、すでに店じまいをしていた、隣に設置された自販機の灯りがついているだけだ。
 ここから下宿に帰る最短のルートは、Y霊園の中を通るコースだ。夜中に霊園を一人で歩くのは、ちょっと勇気がいる。いくら男とはいえ、夜の墓場は気味が悪い。
 どこかでラーメンでも食べていきたい気もするが、財布には千円札一枚しか入っていない。これで今月を過ごさなければいけないのだ。親からの仕送りだけで生活しているから、金銭的な余裕はない。
 ふと、大学校舎のほうで何か光った気がして、そちらに首を回した。
 映研の部室があるボロ校舎の二階あたりで何かが動いているようだ。植田は足を止めた。すぐに、重いものが叩き付けられるような音がした。
 部室には灯りが点いていないし、誰かがいるような様子もないが、少し離れているからはっきりとはわからない。
 そのまま霊園のほうに歩き出し、交差点で信号を待った。
 妙な胸騒ぎがする。
 交差点を渡り、しばらく歩いた。それから振り返り、校舎を眺めた。さきほどの物音が気になってくる。
 どうしようか考えているうちに好奇心が抑えきれなくなってきた。余計な事に首を突っ込むのが植田の悪い癖だった。
 今来た道を戻った。人通りはなく、いつもと変わらない光景だ。
 道路に面したちゃちな商店街にあるビルと、隣の雑貨屋兼タバコ屋の間に隙間がある。そこは狭い通路になっているのだが、園芸用品やブルーシート・麻ロープなどが置かれて物置のようになっている。
 植田は体を横にして音がしたほうへと進む。
 路地のどん詰まりに崩れかけたブロック塀がある。塀の裏側に設置された二メートルほどのフェンスの向こうが映研部室がある木造校舎だ。
 暗闇に目をこらすと、人間のようなものが横たわっているのが見えた。近寄ってそれに手をかけると、冷たい衣服の感触がある。
 ぼんやりとした月明かりを頼りに目を注ぐと倒れている男の横顔が見えた。男の頭には茶褐色の血のようなものが付着していた。
 植田は思わず声を出しそうになって、口元を手で押さえた。顔つきや小柄な体格が法律研究会の先輩橋本良明にそっくりだったからである。
 顔を近づけもう一度確認した。橋本の顔にどこか違和感がある。眼鏡がないからや――植田はそう思った。
 橋本はキザな黒縁のインテリぶった眼鏡をかけていた。眼鏡がないとのっぺりとした平凡な男に見える。
 手のひらを男の口元と鼻に当てた。すでに息をしていないようだ。口のあたりからウィスキーの匂いがした。ジージャンとジーンズに見覚えがあるから橋本に間違いないだろう。橋本はポケットにウィスキーの小瓶を入れて飲んでいたほどの酒好きだった。
 ――なんで、こんなところで死んでるんや。
 警察に電話をしようという考えが一瞬浮かんだが、すぐに打ち消した。
 サツにお世話になる気はないし、なによりも橋本には公安のスパイだという噂がある。
 橋本には可哀想だが、このままバックレようと思った。息があれば、救急車でも呼ぶのだが。
 隣にあるタバコ屋から物音が聞こえた。植田はあわてて路地を離れた。

 Y霊園に入り、納骨堂の横を通ると、急な石段がある。そこを注意しながら下っていく。所々に外灯があるがあたりは薄暗い。日頃からこの道を利用していないと、迷ってしまうだろう。
 霊園に入ったとたんに寒さがきつくなったような気がして、植田はスタジャンのポケットに両手を入れ、肩をすくめるようにして歩いた。
 夜ということもあって園内は誰もいないようだ。木々のざわめき、自分の足音だけが聞こえてくる。
 歩いているうちに、植田の心に橋本を見捨てたという罪悪感が芽生えてきた。
 細身の橋本は貧相な顔をしていたが、黒縁の眼鏡だけがちょっとインテリふうだった。屋上にある法研の部室にふらりと訪れて「茶でも飲みに行こうや」といつも誘ってくれた。
 そんな情景を植田は思い出すと感傷的な気分になって足取りも重くなる。
 映研部長の上前津鋭のアパートがすぐ近くにあることを思い出した。あいつに相談してみるか、そう考えた植田は足を速めた。

 塩釜口の近くに上前津のアパートはあった。
 植田たち貧乏学生が六畳一間風呂なしの部屋に住んでいるのに、彼だけは風呂の付いた豪華なところで暮らしていた。親が裕福だというのは本当らしい、と上前津のアパートに行くたびに植田は思う。
 幸いにして、上前津はまだ起きていた。
 彼は植田の顔を見ると、サングラスを指で直しながら露骨に嫌な表情を見せた。
「ちょっと話があるんや。橋本って知っているだろ。それが驚いた事に死んでいたんや」
「また、こんな夜中に冗談はやめてくださいよ」
「違うって、本当のことやわ。映研の部室があるやろ。その向かいが商店街の路地みたいになってるやん。あそこで死んでいたんや」
 植田が真剣だとわかったのか、上前津はいつもの表情を取り戻し「詳しい話を聞かせてもらいましょうか」と言った。
 居間にあるガラス製のテーブルに置かれた紅茶を一口飲むと、植田はさきほどの一部始終を話した。
 腕組みをした上前津は黙り込んだままだ。その沈黙が自分を責めているような気がして植田は居心地の悪さを感じる。
 しかたないので、ハイライトを取り出して百円ライターで火をつけた。仲間からは「カミ」と呼ばれている上前津も、タバコを口にくわえる。
 彼はいつも黒ずくめの服装をしている。タバコもジョーカーという黒く細長いものを愛好していた。服も黒ならタバコも黒というわけなのだろう。部屋の中でも黒いサングラスをかけているような変わった男だ。背中まで伸ばした黒髪には、アイドルが宣伝しているシャンプーを使っているらしいが、シャンプー代が普通の二倍はかかるに違いない。
 紅茶を飲み終えた植田は壁際に置かれた本棚を眺めた。
 新潮社の海外文学シリーズや早川書房の金背・銀背と呼ばれるSF本が多く並んでいる。
 本棚の横にあるカラーボックスには高級そうなカメラとサブ機なのかハーフサイズカメラが並んでいた。
「警察に電話するのが一番じゃないですか」
 上前津は考え込んでいた割には常識的なことを言った。
「そんなことはわかっとるけど、いろいろ面倒なことになるやん。なにしろ映研の部室のすぐそばやさかい。それに橋本は公安のエスだという話もあるやろ」
「たしかにスパイという噂もありますね。だったら、匿名で電話だけしましょうよ」
 植田は顎の下をなでながら、本棚を見つめるようにして考え込んだ。
 とにかく、あのままほったらかしにしておくのはあまりに忍びない。
「そやな。酔っぱらいが倒れているとでも言って、電話してみるか」
 植田が黒電話のほうに顔を向けると、上前津はうわずった声で植田を制止した。
「ここから掛けるのはやめてくださいよ。電話をかけた場所が特定されたりしたら困りますから」
 結局、公衆電話をかけにいくことになり、二人で外に出た。
 植田は部屋の外に置いてあるホンダモンキーに視線を走らせると「バイクで行こうやないけ」と上前津に声をかけた。
「すぐそこに公衆電話がありますけど。天気予報だと深夜から朝にかけて雨になるそうですよ」
 上前津は天気のことが心配なのか、口元をゆがめた。
 空を見上げた植田は、ぶ厚い雲が張りだしているのに気がついた。たしかに一雨降りそうだ。空気もやけに湿っぽい。
「どうせなら、現場に行ってみようや。ひょっとしてなんかの見間違えとか誰かの悪戯かもしれへんし」
「今さら、何を言っているんですか。もうわがままなんだから」
 上前津は言ってから、足を止めた。
「死体発見とか希有な体験ですよね。ちょっと興味が湧いてきました。じゃ、雨が降る前にひとっ走り現場に行ってみますか」
 そう言った上前津はポケットからキーを取りだした。
 死体に興味でもあるんかい、好奇心旺盛なやっちゃな、植田はそう思いながら、上前津に張り付くように座席に腰掛けた。

 モンキーに二人乗りして、153号線を北西に走らせると五分ほどで現場に着いた。
 植田はバイクから飛び降りると、あたりをうかがうような仕草をしてから、上前津のほうに手で合図をする。
 二人して、あの路地に入った。ほんのりとした月明かりだけで、あたりは暗い。
「ここや、ここ」と小さく呟いた植田は、すぐに「どうなってるんや」と悲鳴のような声を出した。
「どうしたんです、なにもないようですけど」
「なくなっている。死体がないんや。こんなアホな話あるかい」
 植田は崩れかけのブロック塀に手を掛けると自分の体を持ち上げ、ブロックの基礎部分によじ登り、上から見下ろした。
 ガラクタが放置されているだけで、何もなかった。
 死体は跡形もなく消えている。
「どないなっとるんや」
 植田の言葉に上前津は外人のように肩をすくめた。それからあきれたというような口調で「もう帰りましょう。雨が降ってきそうだし」と言った。
 ブロック塀から降りた植田は悔しさをぶつけるように足元を蹴った。
 すると、何かがキラリと月明かりを受けて光った。植田はかがみ込み、それを拾い上げた。
 落ちていたものは黒縁の眼鏡だった。
 二人がモンキーに乗ると、雨が降り出して、アスファルトに黒いシミを作り始めた。

 

植田戸惑う


 植田は午前十一時に自分のアパートで目が醒めた。
 体は重く、気分は最悪だった。このまま二度寝しようかと思ったが、腹が減ってそれどころではない。
 六畳一間の部屋には冷蔵庫などという気の利いた物はなかった。
 学食で一番安い、三十円の素うどんでも食べに行くかと、布団から体を引きはがした。
 昨日、アパートに帰ったあたりから雨は酷い降りになっていたが、今はきれいな秋空が広がっている。

 昼飯の時間にはまだ早かったからか、学食にはあまり人がいなかった。素うどんに無料の天かすをたっぷり載せると、それなりの食べ応えがある。
 タバコを吸っていると混雑しはじめたので、いつものように映研の部室に向かった。
 文学部の校舎の前に珍しく立看板が出ていた。
「星河・エロ教授は学内から出て行け! 中城大学学生会」と書いてある。
 立看板の前に女子学生が三人いて、立ち話をしている。
「先生も可哀想に、昨日は東京に帰るからと休講だったのよね」
「あの先生が覗きなんてするわけないじゃない」
 植田は女子学生の話に聞き耳を立てると、立看板のほうに視線を向け「やっとこさベトナム戦争が終わったというのに、うちの学生会はしょうもないことやっとるわ」とつぶやいた。
 先週からフランス文学の教授星河が女子トイレを覗いた、というつまらないスキャンダルが持ち上がっていたのである。星河という男は長身で整った顔立ちをしているうえに、女子学生を引きつけるようなバリトンボイスの持ち主なのだ。植田は彼に同情する気にはなれないのだった。
 大学構内の片隅に古ぼけた木造校舎がある。
 無名の中城大にも学園紛争があって、数年前にそれは終焉を迎えてはいたが、そこかしこに痕跡が残っていた。
 木造校舎は学生運動をやっていた残党のアジトだったという経緯があって、一般の学生が出入りするような場所ではなかった。だからなのか、朽ち果てた校舎にはどことなく秘密めいた雰囲気がある。
 植田はどうにか原形を保っている扉を開け、中に入った。廊下には壊れた立看板や椅子、机が無造作に置かれ、破れたアジビラがあちらこちらに貼ってある。普通の学生だったら、そこで腰が引け、引き返すだろう。
 一階の廊下はそれ以上入れないように、バリケードがわりのガラクタや黒いゴミ袋が積み上げられていた。階段を上り二階にたどり着くと、ここは人が通れるくらいには片付けられていて、やっと人がいる気配がしてくる。
 安っぽいダイアル式の鍵が掛かっている部屋が『映画研究会』の部室だ。
 マジックインキで適当に書かれた『映研』の名札の下には、SF研究会・探検部・新聞部などが書いてある。
 体育会・文化会に対抗するために、名前だけの同好会を寄せ集めて『新聞会』という組織を存続させているのである。
 植田は正式には『法律研究部』に属しているのだが、留年をしてからは『法研』に居づらくなっていた。そんなこともあり、暇つぶしにここに出入りしているのだった。
 部室から騒がしい話し声が聞こえてくる。
 くそ、昨日のことで盛り上がっているのかと思うと、植田は腹が立ったが、自分が違う立場だったら、思いっきり茶化すだろうから、文句は言えない。
 ドアの隙間から顔を覗かせた植田に向かって、山手潔が「植田さん、どえらいことになってるぎゃー」と名古屋弁で叫んだ。
「どうしたん?」と植田は言いながら、皆の表情をうかがった。
「橋本さんの死体が見つかったんです。それも興正寺の石段の下で」
 上前津が照れたように言った。
 興正寺というのは大学の裏にある有名な寺で、緑が多く夏は涼しくて、植田はたまに昼寝をしたりする場所である。
「ほらな。俺の言ったとおりやん。えっ、興正寺ってなんやそれ」
「朝早くお参りに来た爺さんが見つけたらしいです。それで昨日の出来事を皆に話していたんですよ」
「この部室の下で死んでいた人間がどうやって、興正寺まで移動したんや、けったいな話やな」
 植田は胸のポケットからハイライトを取り出しながら、誰に言うともなくつぶやいた。
「おそがい話もあるもんだわな。それにしてもどうして橋本さんが死んだんだがや」
 山手が太い腕を組みながら言った。彼は探検部に所属する二年だ。新聞会のなかの武闘派で、筋肉をみせびらかすようにTシャツ一枚の服装だ。出身高校がヤンキー漫画に実名で出てきたというのが自慢の男である。
「俺が死体を見つけたことは事実だったわけや。カミには信じてもらえなかったけどな」
「私だって、植田さんの話を信じてましたけど、実際に死体がないんじゃ、しょうがないじゃないですか」と上前津は抗議した。
「これはおもろいことになってきたで。どうして橋本が死ぬことになったのか、それは殺人かあるいはただの事故か。それともうひとつ、どうして死体がここから、興正寺まで移動したのか」
 植田はそこまで言ってから、もてあそんでいたタバコに火をつけた。
 橋本はいたるところに出入りしては植田たちみたいな貧乏人を喫茶店に連れて行ってくれたり、差し入れをしてくれた。自慢話が過ぎるのが欠点だが、おごってくれる人間は貴重な存在である。
「あの人、バイトもしていないようなのに、結構金回りがよかったですよね」
 上前津が不思議そうな表情をして言った。
「タバコもラークを吸っていたし、親が裕福なんじゃないっすか」
 山手と同じ探検部で二年の萩原淳二が断言した。
「そんなことあらへん。昔は俺と同じくらい貧乏やったはずだ。エスやなんて噂もあったから、公安から金をもらっていたかもしれへんで」
 植田はもったいをつけるような口調で言うと、皆の顔を見回した。
「植田さんの話は、あんまり当たりませんからね。このあいだもアイツとあの女は出来ているとか言っていたけど、違っていたじゃないですか」
 上前津の言葉に、植田は苦笑いをした。
「まあ、なんや。俺が小説で一発当てたら、みんなに酒でも女でもおごってやるからな」
 いつものホラ話が始まったというように、笑いが起きる。
 植田は、名古屋で「えーころかげん」と表現される、いい加減な性格で、どこまでが本当で嘘なのかわからないところがある。おかしな関西弁もそれに拍車をかける。
 以前、映研の後輩が体験したものが、いつのまにか植田が経験した話になっていたことがあった。本人の前で、自分の経験談として得意げに語っていた。話が巧みに脚色してあって、最後のオチまで聴いてから、体験した本人が自分の話じゃないかとわかったのだった。
 小説を書いて新人賞を取るというのが夢らしいが、大学中退への布石なのかもしれない。作家というのは中退者が多い。
「それはそうと、警察に植田さんの話をしなくてもいいんですかね」
 萩原が皆の顔色をうかがうように言った。
「サツなんかにたれ込まんでもいいやろ。それよりも俺たちでこの事件を解決しようや」
 匿名で電話しようとしたことも忘れて、植田は弾んだ声で言った。
「橋本さんには皆、ずいぶんとおごってもらったりしてましたからね」
「だけど、あの人、ちょっと変わっていたがね。萩原にも話をしたことがあるんだけど、少し前に名城公園ってあるが、あそこに覗きにいこまいって誘われたことがあって、どんな人なんだろって思ったがね」
「覗きってか。そういえば俺も『植田、面白いとこがあるんだ』って聞いたことあるわ。そういう趣味があったんかい」
 そこまで話してから、植田はショルダーバッグから眼鏡を取り出した。
「昨日現場に落ちていたんやけど、橋本のものやないかと思うんや」
 眼鏡をかけた植田は「やっぱりな」とほくそ笑みながら言った。
「なにがやっぱりなんですか」
 そう質問してきた上前津に植田は眼鏡を渡した。
 サングラスの上から眼鏡をかけた上前津は「なるほど、これは素通しになってますね」と答える。
「そやろ、前に言ったと思うけど、橋本の眼鏡はやっぱり伊達眼鏡やったな」
 残りの二人も順番に眼鏡をかけてみた。
「だけど、いいんですか、皆でべたべたと証拠物件にさわっても」
 萩原が植田の顔を見ながら言った。
 植田は萩原から眼鏡を取り返すと、バッグにしまいながら「俺たちのやり方で真相を見つけるんやさかい、ええって」と軽薄に言った。
「だけど、この眼鏡が橋本さんのものだとしたら、おかしなことになりますよね」
「なにがおかしいんや」
「だって、橋本さんはインテリを気取るために素通しの伊達眼鏡をかけていたんでしょ。まっ、彼の象徴的なアイテムだったわけで。すると、彼の死体を移動させた人物はどうして死体が眼鏡をかけていないことに気がつかなかったんでしょうか。現場に眼鏡を残したら、死体を別の場所に移動したことがばれてしまうでしょうに」
 上前津は小首をかしげた。
「そりゃ、犯人があわてていたからだろうな。それに死人の顔なんかジロジロ見ないやろ」
 植田の言葉に、上前津は納得いかない様子で、姿勢を正すと、口を開いた。
「こういうことは考えられませんか。死体を運んだ犯人は橋本さんの顔を見たことがなかった。だから眼鏡をかけていたことを知らなかったので、気にも留めなかった」
「なるほど、だったら俺たち全員、犯人じゃないということになりますよね。みんな、橋本さんをよく知っているんだから」
 そう言った萩原は手でも叩きそうなほどうれしそうだ。
「カミよ。犯人はどうして顔も見たことがない橋本を手間をかけて移動するなんてことをしたんだ。そんなアホなことがあるかい」
 憮然とした植田は言った。眼鏡を拾っておきながら、どうしてそんなことに気がつかなかったのか、と自分のうかつさに腹が立ったのである。
「移動させる動機ですか」
 顎に手をあてて考え込んだ上前津を見ながら、植田は皆の注意を惹くように手を叩いた。
「よっしゃ。ここでちょっとまとめてみるな。最初にどうして橋本が部室の下で死んでいたのか。次に、死体を運んだのは誰で、どうして移動させたのか。とりあえず、三つの謎が存在するわけや」
「動機というのかどうかはわかりませんが、最初の現場と発見された現場を比較してみると、こうなります。興正寺で死んでいれば、雨で濡れた石段を踏み外して落下した事故と思われる。だが、タバコ屋の路地で死んでいたら、事故ではなく他殺だと思われてしまう。ようするに、事故死に見せかけるためにわざわざ興正寺まで運んだ、というのはどうです」
「とりあえず、つじつまはあっとるわな。次は誰がそんなことをしたのかやな」
 萩原が律儀に手を上げてから発言した。
「一番楽な方法は自動車で運ぶことですよね。犯人は自動車を持っている人間ということになりませんか」
 ここにいる連中で自動車を持っているようなリッチなヤツはいないし、自動車免許を持っているのは上前津だけだ。
「公安とかだったら、車を持っているやろうし、橋本はスパイで下手をうって、事故死として始末されたのかもしれんな」
「そんな連中だったら、もっとスマートに金城埠頭にコンクリ詰して捨てるんじゃ。わざわざ車を使って死体を石段のところまで運ぶようなトロくさいことやりますかね」
「ちょっと本で読んだんですけど、死体というのは意外と重くて苦労するみたいすよ」
 萩原の言葉に、皆の視線が山手に集まった。こいつの体格と体力ならばなんとかなるんじゃないかといわんばかりだ。
「例えば、酔っぱらいを介抱するふりをしながら寺の近くまで運ぶという手もあるわな。二人くらいで両脇から支えれば可能なんとちゃう」
 植田は隣にいた萩原の腕を掴まえると、抱える仕草をしながら言った。
「たしかに飲み屋街あたりでよく見かける光景ではありますが、どうなんでしょうか。もっとも、夜中だし大学の裏を通れば案外目立たないかも知れませんね」
 上前津が答えたが、全て納得したわけではないというように不満げな表情だ。
 しばらくすると上前津が話題に飽きたのか「アイドルは歌が下手であるべきだ」という、どうでもいいことを真剣な表情で萩原を相手に議論をはじめた。
「やっぱり、アイドルというのは歌が下手で、未完成なところが我々の心情をくすぐるので、岩崎宏美となると、ちょっとなにか違うなという気がするんですよね」
 と、上前津が照れるような口調で言った。
「だけど、可愛いだけじゃなくて、大人っぽい雰囲気の女性が僕は好きなんすよね」
 生真面目な表情で萩原が答えた。彼は変わり者揃いの映研メンバーの中ではいたって普通に見える。服装もネルシャツに綿パンと平凡だ。
「というと、やっぱ岡田奈々くらいがちょうどええということやん。とにかく可愛ければ、なんでもいいわな。それに萩原は櫻子ちゃんしか頭にないんやろ」
 植田は手を頭の後ろで組み、投げ出した足をぶらぶらさせながら、からかうように言った。目がくりくりとしていて、なにやら少年ぽい愛嬌がある。
「植田さんだって、ええ女やって言っていたじゃないですか」
「そやけど、櫻子ちゃんは東京でメジャーデビューするんやろ。もう俺たちには手が届かない存在になってもうたからな。萩原もあきらめたらどないや」
「それにしても、うちの大学から一流企業のイメージガールが出るなんて、奇跡みたいなものですよ」
 上前津がサングラスを指で直しながら、夢見る表情で言った。
 櫻子というのは掛水櫻子といい、文学部の二年生だ。中城大学の劇団「|厳物(いかもの)」の劇団員である。
 二十歳とは思えないほどの健康的な色気と、モデルのように恵まれた体形をしている。
 アイドル話に疲れたのか、植田がハイライトを取り出して火を付けると、口を開いた。
「今度、うちの新聞部と意見交換ということで、S女学園大学の新聞部に乗り込もうやないけ。いいアイデアやろ、カミの意見はどうなん?」
 一瞬言葉に詰まるというように体をのけぞらした上前津は、間を取ってから答えた。
「また大それた事を……だけど、意外と面白いかもしれませんね。一考の余地ありというところでしょうか」
 上前津は一瞬にやけた表情を見せたあと、口元をゆがめて皮肉な笑いを浮かべた。

 講義があるからと皆が席を立ったので、植田も釣られて部屋を出た。
 一人になってから、俺はなにをやっているんだろうと、苦い思いがわいてきたが、いまさら講義に出るつもりはない。
 とくに用事もないので昨日死体を見つけた場所に行ってみることにした。
 橋本が死んでいた場所は、ビルの陰になっているから、暗かった。なにかジメジメとして湿気が多い。そういえばと深夜の豪雨を思い出した。
 何か落ちているかもと探したが、空き瓶、タバコの空き箱とゴミはあっても、それらしいものはない。あったとしてもこれだけ雨で濡れていたら証拠としては使い物にならないだろう。
 幅の狭いブロック塀では足場が悪くここに立つのは難しそうだ。落ちたとしても、一メートルほどの高さでは、怪我をしても死ぬようなことはなさそうだ。
 一番の疑問は、どうして橋本がこんな場所にいたのかということだ。
 植田は、あたりを見回しながら、そんなことを考えた。
 ビルとビルの間から這い出ると、ガードレールにもたれながら、全体を眺めた。
 向かって左側はたばこ屋兼雑貨屋の三階建てのビル、右側は四階建ての商業ビルになっている。
 冬を感じさせる冷たい風に植田は肩をふるわせた。
 変な意地を張らずに、真面目に授業を受けてみようか、校舎を見ているうちにそんな考えが浮かんできた。

 

植田罠を仕掛ける


 橋本の事件は新聞の片隅に小さく出たが、すぐに世間からは忘れ去られてしまった。
 警察の動向はわからないが、どうやら雨で濡れた石段で足を滑らせた事故死とみなしたらしく、大学にまで捜査は入り込まなかった。橋本が酒を飲んでいたことや、事件の夜に降った豪雨がすべてを洗い流していたこともあったからだろう。
 そのころ名古屋市内では連続殺人が発生していて、学生の転落死にかかわっているような余裕が警察になかったことが一番の要因だったに違いない。
 植田は日曜日というのに、大学付近をうろうろしていた。昼過ぎに起きると、アパートには誰もいなくて、ひっそりとしていた。自分だけが何もやることがなく、世界から取り残されたような孤独感から部屋にいたたまれなくなったのである。
 タバコ屋に行くと珍しく若い女性が店番をしていた。それで今日が休日だったのだと植田は気がついた。
「茜ちゃん、久しぶりやん。なにやってたの」
 植田は愛想良く、店番の娘に声をかけた。
 彼女の名前は前に婆さんがそう呼んでいたから覚えていた。そうしたことには気が回るのである。
 長い黒髪に健康的にほどよく焼けた肌。彼女の屈託のない笑顔を見ているだけで、心が癒される。
「いらっしゃい。ハイライトですね」
 嶋村茜がタバコの好みを覚えていたことに気をよくした植田は、ポケットの小銭を探る仕草をしながら「日曜日に店番とは寂しいな。デートする相手はおらんのかい」と軽口を叩いた。
 茜が笑いながらハイライトを差し出した。店の奥から「茜、芳夫さんから電話。早く出ないと気を悪くするが」と、年寄りじみた声が聞こえた。
「はい、すぐに行くから。お婆ちゃん、お客さんの相手をして」
 入れ替わりに、老婆が現れた。突き刺すような視線で植田を見つめる。
「あんた、ここの学生さんかい。うちの孫につまらんこと言わんでちょ。もうじき嫁入りするんだで」
「なんや、結婚するんかい。それでしばらく見かけなかったんやな」
 不機嫌になった植田は百円玉を婆さんの目の前に置いた。
 婆さんは二十円の釣りを返すと、奥を覗かれたくないといわんばかりに、大きく構えて座り込んだ。七十近くに見えるが、背筋を伸ばした姿は頑強そうだ。
 店を離れた植田は、いつもは耳が遠いようなそぶりをしているが、茜への戯れ言を聞きとがめるほど、婆さんの耳が良いことに驚いた。秘かに可愛いと思っていた店番の娘が結婚するというのもショックだった。返事をしたときの弾んだ声からして、電話の相手が婚約者なのだろう。
 石でも蹴り飛ばしたい気分だった。タバコ屋に石でも投げたろか、そんなことを考えながら店舗を眺めて、気がついたことがある。
 一階は店舗になっていて、二階から上は家族の部屋にでもなっているのだろう。その二階部分に小窓がついているのだ。ビルの通路に面してそれはあった。
 植田は婆さんに気がつかれないように、こっそりと通路に戻った。それから二階の小窓を見上げた。
 ブロック塀に登っても、あの窓はのぞけないが、すぐそばにある電柱に登ればなんとかなりそうである。
 覗くという言葉が頭に浮かぶと同時に、山手が橋本に公園の覗きを誘われたという話を思い出していた。
 植田の脳裏でさまざまな情報が交錯して、ひとつの形をつくりあげた。

 月曜日の昼休み、植田は映研の部室に来ていた。
 部屋にいたのは上前津と山手の二人だった。
 観客の少ないことに不満を感じたが、植田はもったいをつけてソファーに座った。おもむろに二人の表情を眺めてから「橋本事件な。あの謎が解けたで」と言った。
「植田さん、本当ですか」
 愛用の一眼レフカメラを掃除していた上前津は、カメラを机に置くと、信用できないというふうに植田の顔をのぞき込んだ。
 山手は興味を惹かれたのか、体を乗り出した。
「あそこに嶋村たばこ店があるやろ。たまに店番をしている茜ちゃんっていう可愛い子がおるやん」
「あの子、茜ちゃんっていうんだ。知らなかったがね」
 そう言うと山手は窓のほうに視線を向けた。
「で、茜ちゃんが結婚するらしいんや。それで俺は閃いた。橋本が最初の現場でなにをやっていたのかってな……」
 もったいをつけるように植田はハイライトに火をつけた。
「だから、なんですか、じらさないでズバッて言ってちょ」
「そうあわてんでもいいだろ。橋本があそこで茜ちゃんの部屋を覗こうとしていたと考えてみたんや。山手が言ってたろ。橋本に覗きを誘われたって」
 山手は窓に近づくと、体を乗り出した。
「植田さん、たしかに小窓があるけど、ここからだと電柱が邪魔してよく見えんが。どうやって覗きをするんだがや」
「問題はそこやわな。電柱が建ってるやろ。あそこに登って窓から覗きをしようとしたんだろう。そして、足を滑らせて落ちてもうたんや。あの高さから落ちたら、そりゃ、ひとたまりもないで」
「なるほど、だからあんな場所で死んでいたというわけですね。ようするに自業自得の事故死というわけか」
「さすがはカミ、理解が早いで。そればかりじゃないんや。どうして死体が移動したのか、それも解決済みや」
 皆の視線が集まっていることを確認すると、植田は話を続ける。
「俺の考えだと、死体を運んだのはタバコ屋の婆さん。動機は孫娘の結婚話を守るため」
「それで、最初の茜ちゃんとやらの結婚に繋がるわけですね」
「そうや。あの事件のとき、隣のタバコ屋から物音が聞こえたんや。俺が現場を離れたあとに、戸締まりでもしていた婆さんが橋本の死体を見つけた。そこで婆さんはこう思った。警察沙汰になったら、店の横で学生が死んでいたということで、おかしな噂が立って売り上げが減るかもしれへんし、結婚を控えている孫娘に悪影響が出ないともかぎらない。だから死体を移動させて、自分の店から離れた場所に捨てておこう。こんな動機やろな」
「ちょっと待ってくださいよ。あんな婆さんがどうやって小柄とはいえ、五十キロはありそうな橋本さんを興正寺まで運んだんですか」
「カミよ。まだまだ甘いのう。ヒントをやるからちょっと考えてみ。あの婆さんが正門の横にある花壇の手入れをしているのを見たことがあるやろ」
 植田の言葉に、上前津は膝に手をあてて空中をにらみ付けるようにして考えている。
「そうか、あの肥料や道具を積み込んでいる一輪車みたいなヤツ、あれで死体を運んだんですね」
「なんや、簡単だったようだな。あれは猫車っていうんや。あの婆さん結構がっしりとした体格をして、足腰も丈夫そうやからな。死体の上にシートをかぶせて動かないようにロープで縛ったんだろ。そうしとけばわからんやろ」
「だけど、橋本さんの眼鏡がないことに婆さんは気がつかなかったんでしょうかね。僕もよくあそこでタバコを買うけど、銘柄をいわなくともスッと出してくれるがね」
「橋本さんはラークを吸っていたから、あの店では買わなかったんじゃないかな。あそこでラークは売ってないから。私と同じで交差点の向こうにあるタバコ屋で買っていたと思うよ」
 植田はギリギリまで吸っていたハイライトを灰皿で押しつぶすと「あのタバコ屋は俺たち貧乏人御用達ってわけかい」とつぶやいた。
「まあまあ、そういわないで。ともあれ、筋の通った話ではありますよね。だけど問題は植田さんの素晴らしい推理に閃きはあっても、証拠がいっさいないということですかね」
 上前津はそう言うと、クリーニングクロスでカメラのレンズを拭き始めた。
 植田は反論しようとして、口を開きかけたが、たしかに推理だけで物証がないという指摘はあたっていると思い直した。

 植田は不機嫌だった。せっかくの名推理に上前津がケチをつけてきたことが気に入らなかったのである。
 この事件をもとにしていっちょミステリ小説でも書いて新人賞に応募したろ、と意気込んでいたところもあったのだ。
 そこで、自分の見立てが合っていることを証明しようと、再び現場に戻ってきたのだった。
 狭い通路を眺めているうちに、あることに気がついた。死体を発見したときにあったブルーシートとロープが無くなっている。
 事件当夜に降った雨で証拠が洗い流されたうえに、証拠品を処分されているかもしれない。
 ビルの壁に立てかけられている猫車を調べると、きれいに掃除されている。
 なんでもっと早く真相を見抜けなかったのかと後悔した。警察にたれ込んで現場検証でもすれば、血の跡くらいは見つかるかもしれないが、警察にいうわけにもいかない。
 橋本は覗きをしようとして電柱から墜落したのだ。そんなことが遺族に知れたら、いい恥さらしだ。それならば石段から足を踏み外した事故死というほうが世間体がいい。
 植田は未練たらしく現場を振り返りながら、考えを練った。なにかいい方法があるはずだ。植田は頭を振りしぼった。

 大学図書館に植田は来ていた。法医学や犯罪学の本を拾い読みしたが、文学書と違ってこの手の本はなんて読みづらいのだろうと、自分が法学部であることを忘れて思った。
 簡単に血痕を検出する方法はないか、それを調べることが目的だったが、学術書にはそうしたことは載っていなかった。
 退屈な書物を読んでいたので、少し眠くなる。
 図書館で寝るわけにもいかないので、眠気覚ましになりそうな気楽な本を求めて、植田は立ち上がった。

 雑学の本を読んでいた植田は「これや」とつぶやいた。持っていた手帖にメモを取ると、獲物を目にした猫のように真剣な表情になった。よからぬことを企んでいるときの顔である。
 図書館を出ると、映研部室のある木造校舎に入った。
 一階の奥にはパイプ椅子、机、古い立看板、角材、鉄パイプなどが散乱している。
 植田は立看板を手に取ると、隅まで調べ回してから悪態をついて看板を放り投げた。
 それからあたりをキョロキョロと眺めまわして、板に打ち付けられている一本の釘に目を留めた。
 手近にある鉄パイプの口を器用に使って、梃子の要領で釘を引き抜いた。手のひらに乗せた錆び付いた釘に目をやった植田はニヤリと笑った。
 植田が二階にある部室に入ると、いたのは萩原一人だった。
 ソファーに寝転んで文庫本を読んでいる萩原に、植田は「どこかに救急箱があったはずやけど、知らんか」と尋ねた。
「そのあたりにありましたよ。植田さんケガでもしたんですか」
 起き直って答えた萩原に植田は手をひらひらと振って「いや、たいしたことあらへん、ちょっと手を切ったから消毒しとこうかなと思ってな」と返事をした。
 萩原の指さしたのは入り口の左側で、あたりにはガラクタが積み上げられている。
 植田がしばらく探すと、十字マークのついた木製の救急箱が出てきた。そこから植田はプラスチック製の容器に入った殺菌消毒薬を取りだした。

 土曜日の朝、植田は早起きをすると、大学に向かった。
 嶋村たばこ店の店先に婆さんが座っていることを確認すると「婆さん、ちょっと話があるんやけど、すぐそこまで付き合ってくれへん」と猫なで声で言った。
 不審げな表情をした婆さんを通路に連れてくると、植田は口を開いた。
「興正寺で死んでいた学生がいたやろ、橋本っていって俺のツレなんやけど。あの夜、ここで橋本が死んでいるのを見つけて、警察に電話しようと思ったら小銭がない。そこで知り合いのところに借りに行ってここに戻ってくると死体があらへん。そんなバカなと思っていると、次の朝、興正寺で死体が見つかったというやん。これは誰かが死体を移動したなと気がついた。で、婆さんあんたやろ、死体を動かしたのは」
 婆さんは怯えたように首を振り「トロくさいこと言ってたら、おまわりさん呼ぶで。それに一一〇番ならタダで掛けられるがね」と強い口調で言った。
「そういえば、そやったな。それはおいといて。婆さんこれを見てもらおうか」と言うと、ポケットから消毒薬を取りだした。
「これは婆さんでも知ってる消毒薬や、これは消毒する以外にもう一つ使い道があるけど知らんやろ。血痕にこれをつけると泡が吹き出すんや。これを使って一つ実験してみようや。あそこに石があるやろ、あれにこれをつけて、何も変わらなかったら、俺が間違えていたということになる」
 植田は消毒薬を婆さんの目の前に差し出した。婆さんの顔色が変わり、日に焼けた顔から血の気が引き、唇の端が震えだした。
「たしか、このあたりに橋本が倒れていたんやけどな」
 植田はそう言ってから、石を取り上げるとなで回した。消毒液を石の上に垂らした。すると、白い泡が表面に吹き出した。
「やっぱりな、ここに血痕がついとったわ」
 植田は泡の付いた石を婆さんの目の前に突きだした。
 食い入るように石を見つめていた婆さんは「わたしゃ何も知らんがね」と後ずさると猫車に背を預けた。
「別に婆さんを責めているんやない、ただ死体が移動したその謎を解きたかっただけや。どうしてそんなことをしたのかも、推理はついている。孫娘の結婚話があるから、店の隣で死体が見つかったりすると、世間体も悪いし、死んだ学生となにか関係があったんじゃないかとか変な勘ぐりをされるのが嫌だったんだろ。わかるで、その気持ち。最初はどうやって死体を運んだのかと思ったが、そこにある猫車を使ったんやろ。俺が死体を見つけたときにはあったブルーシートも無くなっているから、それで死体を覆って見えないようにしたんやろな。正直に言ってくれればいいんやで、こっちは警察とは敵対関係にあるんや。絶対にいわへんて。なんならそこの猫車にもこれをかけてみようか、ほれそこに茶色いシミがあるやろ。血痕は水で洗ったくらいでは落ちへんで」
 植田の言葉に婆さんは観念したのか深いため息をついた。
「戸締まりをしていたら、おかしな物音がして、ちょっと見に行ったら、学生さんが倒れていて、あんたの言うように面倒ごとに巻き込まれたくなくて……勘弁してちょ」
「その物音は俺が出て行ったときのものやろな。婆さん気にせんでいいんや。橋本かて覗きをしようとして、電柱から落ちて、まあ言ってみれば自業自得というヤツや」
「えっ、覗き。わしはてっきり学生同士でケンカでもしたと思ったんだわ」
 罪の意識が少し軽くなったのか、顔色が良くなった婆さんは、ゆっくりと立ち上がった。
 植田はタバコを探す振りをしてポケットをいじっていたが「タバコを切らしてもうたが」とつぶやくと、婆さんのほうを見つめた。
「タバコくらいなら、よかったら少し持っていくかい。あんたはハイライトだったがね」
「すまんな。ついでにライターもおまけしてもらえるとありがたいんやけど」
 植田は勝ち誇ったように言った。

 

植田行き詰まる


 月曜日、映研の部室にはいつものメンバーが揃っていた。十月下旬に行われる学祭の準備についての話し合いがあったからである。
 話が終わった頃、紙袋を抱えた植田が姿を現した。
 ソファーに座った植田は、紙袋から包装されたままのタバコを取りだして、机に置いた。
「山手と萩原はショートホープやったな、ほれ持ってけや」
 そう言って、包装を破ると十本入りの小箱を十箱づつ、二人の前に押し出した。
「どうしたんだがや。植田さんがタバコをくれるなんて」
「俺かて、後輩におごることくらいあるわい。カミにはないけど悪く思わんでな」
 上前津は口をゆがめて笑った。
 いつもとは違う『ハイライト』とネームが入ったライターでタバコに火をつけると、植田はうまそうに一服してから口を開いた。
「この間の話な。やっぱり俺の推理通りだったわ。土曜日にあの婆さんを問い詰めたら、全て白状したで」
「えっ、本当ですか。それで証拠はどうしたんです。まさか拷問して……」
 萩原が真剣な表情で植田に尋ねた。
「アホか。そんなポリみたいな真似するかい。これを使ったんや」
 ポケットから消毒薬を取り出すと、自慢げに皆の前で振った。
 それから、そのときのことを話しはじめた。

「へえ、そんなもので血痕があるかどうかわかるんですね。さすがは植田さん」
 山手が手を叩いて褒め称える。
「私もそんなことは知りませんでしたよ。それに雨が降ったり、何日も経っていても血痕が検出出来るんですね」
 珍しく上前津が感心したように言った。
「みんな、わかってないな。そんなものハッタリや。あの消毒液は鉄分と反応すると泡が出るようになっとるんやで。だから石に古釘から取った鉄さびを振りかけておいたんや」
 植田は手の甲に鉄さびをこすりつけて、それから消毒液をつけた。すると白い泡が手の甲を覆った。
「それって、イカサマトリックを使って、婆さんの自白を引きだしたってことですよね。植田さん、悪党すぎませんか」
 上前津の言葉に同調するかのように、皆の冷たい視線が植田に集まる。
「このタバコ。ひょっとして口止め料でタバコ屋から巻き上げたんですか。そりゃ、まずいですよ。そんな強請りみたいなことをするなんて」
 萩原はそう言うと、目の前にあったタバコを植田のほうに押し返した。
「みんな、いつから善人になったん。俺たちプロレタリアートが小金持ちのプチブルから少しくらい巻き上げてもいいやんか」
「あの婆さん、たまに賞味期間が切れそうなパンを半額にしてくれたり、顔に似合わず結構いい人なんすよ」
 萩原の言葉に植田以外の人間は皆肯いた。
「わかったわ。返してくればいいんやろ」
 憮然とした表情の植田は投げやりに言った。
「そういえば植田さん、私もあのタバコ屋に新聞会で記事にするからと言って、取材してきたんですよ。概ね植田さんの話を裏付けるものだったんですけど、一つだけ腑に落ちないところがあるんですよね。あの小窓、あそこは息子が書斎として使っていて、しかも窓から覗いても、段ボールが積まれていて、室内はよく見えないんですよ。写真を撮って現像してあるから、それは確実です。つまり、橋本さんはそんな部屋をなんのために覗こうとしたんでしょうかね」
 封筒から写真を取り出して机の上に並べると、上前津はそう言った。
「なんやて、てっきり茜ちゃんを覗いていたと思っていたんやけど。そうなると橋本はあんなところで何をしていたんや」
「ふと、思ったんですが、さっき植田さんの強請り疑惑が出ていましたが、橋本さんは強請りでもやっていたんじゃないでしょうか。分不相応に金回りが良かったり、覗きというアブノーマルな趣味を持っていたようですし」
「なるほど。いろんなところで覗きをしていたら、人の秘密を探り出すこともあるわな。趣味が高じていつしか実益も兼ねるようになったというわけかい。なんちゅう見下げ果てた男やねん」
 自分のことは棚に上げて、植田は憤慨してみせた。あたりにしらけた空気が漂う。
「ということは、あそこで強請りのネタを探すために覗きをしていたってことになるがね。だけんどよ。なんのためにタバコ屋なんか覗こうとしていたんだろ」
 山手の言葉に植田は手で制すようにして考え込んだ。
「今思い出したんやけど。俺が部室の近くで物がぶつかるような音を聞く前にここから明かりが見えたんや。だから、なんやろと興味を惹かれたわけや。ひょっとして橋本が覗こうとしていたのは、タバコ屋ではなくてこの部室だったかもしれんな」
 植田の言葉に上前津と山手が部屋の様子を探るように見回した。
「こんな小汚い部室を覗いて、どうしようとしていたんですかね。それにあの晩は誰もいなかったでしょ」
「情報が欠けている部分があるんや。それがわかればスパッと解決するような気がするんやけどな」
 失望のため息が部室に響いた。

 

植田閃く


 十月下旬の週末、中城大では大学祭が催されていた。
 有名大学でもない学祭では、たいして人が集まるわけでもなく、金曜日からということもあって、旅行に行ったりバイトに精を出す学生も多い。
 サークル活動に携わっていると、そうはいかない。なにしろ学祭に模擬店を出すのは、一年を通じて最たるイベントだ。それに模擬店の売り上げもバカにならない。貴重な部の資金源でもある。
 植田は映研の模擬店を冷やかすつもりで、木造校舎のほうに向かった。
 入り口に黒く塗られた立看板が置いてあり、サイケデリックな文字で『ロック喫茶 ソドムの市』と書いてある。映研は、ロック喫茶をやることにしたようだ。
 退廃的な店名が怪しさを醸し出していて、いかにもという雰囲気が出ている。得意げに立看板を作っている上前津の顔が浮かんでくるようだ。
 二階に上がると、部室の隣が模擬店になっている。
 入ると、窓は全て暗幕で覆われ、あるかなしかという程度の照明がついているだけだった。
 薄暗いなかをつまずかないように注意しながら、あいている席に座る。大音量でロックが掛かっているが、植田はこの手の音楽には詳しくない。
 部屋の奥に厨房が作られ、レコードプレイヤーやアンプ類の器械が置かれていた。上前津が忙しそうに、コーヒーを入れたり、レコードを用意したりと、動き回っているのが見える。
 日頃は鉢植え植物のように、ソファーに座っているだけの男が、初めて自分の店を持ったマスターというように、実に楽しそうだ。
 まわりを見渡すと、それなりに席が埋まっている。上前津は人脈が広いので、その関係で客が来るのだろう。
 ウェイトレスが注文を聞きに来た。化粧けのない無愛想な若い女性だ。
 新聞会で女子学生がいるとしたら劇団「厳物」くらいなものだ。きっとそこの劇団員なのだろう。彼女は上前津とは違い、やる気が感じられない。無理矢理に連れてこられて、しかたなくやっているという印象がある。
 劇団「厳物」は財政が厳しいというから、わずかばかりのバイト料を目当てに女性劇団員を上前津に差し出したのにちがいない。
 三十分ほど暇をつぶして、植田は模擬店を出ることにした。鼓膜がロックの音量に耐えられるか不安になったからである。

 学祭の最終日は日曜ということもあって、初日よりはずいぶんと人が多かった。そこかしこから模擬店の呼び込み、歓声が聞こえてくる。
 学生以外の見物人も多く、家族連れや高校生のグループも目立っていた。
 今日はおもわず外に出たくなるほどいい天気で、上着がいらないほど暖かい。学外の看板を見て入ってきた人もいるのだろう。
 カラスと呼ばれている黒い学生服姿の連中も、肩で風を切っている。彼らは体育会に所属している学校側の飼い犬のような存在だ。
 様々な人間が集まって、まさに祭りというわけだ。
 その日の夕方、植田は新聞会の打ち上げに行くために学内を歩いていた。
 日が落ちて、キャンパスは闇に覆われている。
 所々で打ち上げをしているのか、模擬店を取り壊した廃材をたき火代わりにしている連中や、外灯の下に集まって酒盛りをしている学生もいる。
 ロック喫茶をやっていた所が宴会の会場だった。
 器材や厨房器具は片付けられて、机の上に一升瓶やビール瓶、つまみ類が雑多に並べられている。
 昼間と違って照明がつけられているから部屋は明るい。メンバーは映研組と、他に部外者が三人いた。女性陣は、ロック喫茶のウェイトレスをやってた女性が一人いるだけだ。名前を聞くと小林智江という答えが返ってきた。
 植田のバカ話で、座は盛り上がる。上前津はいつになく上機嫌だ。何かをやり遂げたという達成感で幸せいっぱいといった表情をしている。
 一時間もすると、植田の目がとろんとなり、好色そうな目つきになっていた。
 植田は場所を移動して、さりげなく智江のほうに近づいていく。
 他人行儀な態度だった智江だが、酒とこの場に慣れたせいなのか、時折笑顔を見せるようになっていた。笑っている姿は普通の若い女性だ。肩の力を抜いて、自然に振る舞えば、意外と親しみやすそうな印象がある。今日は薄い化粧をしてしゃれたイヤリングをつけている。
 智江を相手に怪談話をしている鎧谷は劇団の主宰者で八年生を自称している。
「やだあ、わたしそうした話が苦手なんだよね」
 ただ一人の女性が黄色い声を上げた。
「智ちゃん、俺がついているって」
 すかさず、植田がすり寄っていく、いつのまにか親しげに名前を呼んでいる。
「植田、おまえのほうが幽霊よりも怖いだろうが。智ちゃん、こいつには気をつけろよ。なんといっても生きている人間が一番恐ろしいからな」
 鎧谷がからかうように言った。
「それはそうと、この間興正寺で死んでいた橋本っておるやろ。おまえはそいつのことを知ってるか」
「ちっこくてうさんくさいヤツだろ。うちにも出入りしていたんだが、差し入れとか持ってきてくれるのは助かったけど、櫻子のことを嗅ぎまわっていたので出禁にしたところだった。おまえんとこの人間だってな」
 急に不機嫌になった鎧谷は植田をにらみ付けた。
「ちょい待てって。たしかにうちの人間だけど、こっちでも迷惑しとったんや。ここだけの話、どうもアイツは裏で強請りみたいなことをしてたんやないかと思っているんやけど、櫻子ちゃんにおかしなことはなかったんやろな」
「植田、おまえは口が軽いからな。櫻子のことが大事だと思っているんだったら、そこまでにしておけ。いいな」
 突き放すように鎧谷は言った。それから立ち上がり、トイレにでも行くのか部屋を出て行った。
 露骨な聞き方がよくなかったなと植田は頭をかきながら反省した。すぐに気を取り直して、女性のほうに話を向ける。
「智ちゃん、こんなことを訊いたらなんやけど。櫻子ちゃんは誰かと付き合っていたんやないかな」
 智江はどうしようかなというように上目遣いで植田を見たあとに、部屋を眺め回した。鎧谷の姿を探しているようだ。
「鎧谷のおっさんはおらんから、正直に言えばいいやん」
「ここだけの話ですよ。絶対によそで言わないでくださいね。実は不倫していたらしいんですよ。相手の名前は秘密。ヒントは、今学内で話題の人。だって彼女の服にあんな特徴的なタバコの匂いが付いていれば、誰だってわかるわ」
 囁くように智江は言った。
「わかってるって、俺は口が堅いことで有名なんやで」
 植田は安請け合いをすると、片目をつぶってみせた。
「ところで、智ちゃんにも俺の匂いをつけたろか」
 調子に乗って植田はハイライトに火を付け、智江が着ているパーカーにタバコの煙を吹きかけた。
「やめてください。タバコの臭いは一度服につくと、なかなか落ちないんですよ」
 後ずさりした智江が眉をひそめ迷惑そうな表情を浮かべたので、植田は「智ちゃん、いいイヤリングしとるやんけ」とすぐに話題を変える。
「これ、素敵でしょ。櫻子ちゃんが東京に行くときに、記念にって私にプレゼントしてくれたんですよ」
 イヤリングをいじりながら、智江ははにかんだように笑った。
 鎧谷に見つからないうちにと、植田は場所を移し、ぬるくなったビールを飲みながら、考えてみた。
 櫻子とつきあっていたのは、女子トイレを覗いたというフランス文学教授の星河だろう。たしか妻子がいるはずだが、それを感じさせない優男だ。あの二人なら悔しいがバランスが取れたカップルといえる。星河がどんなタバコを吸っているのか、文学部のヤツに聞いてみるか。
 東京進出が決まった彼女と時期を合わせて、星河のスキャンダルが広まったのは、偶然といえるのだろうか。そこに謀略めいたものを植田は感じた。さらに、櫻子につきまとっていたという橋本が事故で死亡するというのも出来すぎた話だ。
 ひょっとしたら、橋本は事故ではなくて殺されたのかもしれない。
 そんなことを考えていると、口に入れたさきイカがゴムでも噛むような嫌な味になる。

 十一時過ぎに、宴会はお開きとなった。
 植田は二次会に行くという連中と別れ、一人になった。少し考えたいことがあったからである。
 下宿に戻りながら、事件の発端になった場所に立って、当時を思い出してみた。
 最初に部室に明かりが見えて、それからすぐに物音がした。そのまましばらく見ていたが、路地から誰かが出てきた様子はなかった。
 もし犯人がいて、事故を装って殺したのなら、すぐにでも現場を離れたいはずだ。通路は狭いから身を隠すような場所もない。
 現場に行くまでに数分かかったから、その間に逃げ出したという可能性もあるが、そんな物音も気配もなかった。
 二メートル近いフェンスを越えて、校舎に逃げ込むことも出来ないだろう。
 犯人がいたとして、どうやって通路から消え去ったのか。
 植田はきびすを返すと現場に向かった。
 暗い路地に建っている電柱はかなり高い、七・八メートルくらいはあるだろう。二階の部室が見えるところまで登っても、四メートル以上はありそうだ。
 あんなところから落ちたら無事でいられるはずもない。
 電柱には作業員が登れるように取っ手が付いている。あれをつかめば素人でも登れそうだが、慣れないと体のバランスを保つのは難しそうだ。
 取っ手をつかんで、部屋を覗こうとしているところへ、棒みたいなもので下から突かれたら、バランスを崩して落下する可能性は高い。
 橋本は酒臭かったから、覗きの前の景気づけにポケットに入れたウィスキーの小瓶から酒を飲んだのだろう。そんな無防備な状態だったら防ぎようがない。
 犯人が使ったトリックの見当はついた。死んでいた状況から足を滑らせて落下したと思われるだろうから、殺しの方法としてはうまく出来ている。
 となると、どんな方法で橋本を電柱に登らせたのか、犯人はどうやって現場から人目につかないで逃げ出せたのか。
 湧き上がる疑問に植田は首をひねった。

 秋が深まり、キャンパスは宴の後の寂しさに包まれていた。講義にでるわけでもないのに、どうして俺は大学に出てくるのだろうと植田は思った。
 文学部の知り合いに星河が吸っているタバコについて聞いてみると「ゲルベゾルテ」というドイツタバコを愛用していると答えがあった。パイプタバコや葉巻のような甘い香りがすることが特徴のタバコらしい。
 キザなタバコを吸いやがって。植田は憤慨したが、結局そんな目立つタバコのせいで不倫がバレたのだから自業自得、少し溜飲が下がった。
 いくところもないから、映研の部室に足を向ける。
 一階の廊下から二階へ上がろうとして、立ち止まった。
 通路にあるガラクタのなかに角材や鉄パイプがあることに気がついたのである。
 植田は通路に積まれたゴミをかき分けて、角材を見つけた。背丈以上もある角材ならば電柱の下から突くことも可能だ。
 手に持った角材を、斜めに突きだしてみる。
 手応えは十分だが、角材は長いだけあって、持ち歩いたら目立ってしょうがない。
 犯人は犯行の後、凶器をどうしたのだろう。現場に捨てておけば簡単だが、それらしいものはなかった。あの場所に角材があったら、これを使ったと連想される危険性もある。
 植田は考えているうちに、あることを思いついた。
 そうや、こうすれば犯人は目撃されずに逃げられるし、凶器を処分するのも簡単だ。だが、考えが正しければ事件の全体像がまるで違ってくる。
 植田は嫌な予感に肩をふるわせた。
 二階に上がり、部室の前に立つ。ドアには鍵がかかっている。
 ダイアル式だから、番号さえ知っていれば誰でも開けることが出来る。もちろん植田もそれを知っていた。
 部屋に入った植田は窓に近寄った。窓を開け放すと、冷たい風が入ってくる。
 ハイライトに火をつけてから、外を眺めた。
 ここからブロック塀の脇に設置された電柱までの距離は一メートルほどだ。これなら角材でも鉄パイプでも窓から伸ばせば届くだろう。
 頭の中で電柱に登っている橋本を突くイメージを作った。
 事件が起きたのは夜だったから、鉄パイプを黒く塗っておけば、突き出したときに目立たない。角材を黒く塗るよりも、鉄パイプに黒のビニールテープを巻いたほうが簡単だし、作業しやすい。
 部屋を覗こうとしたときに、暗闇から鉄パイプで突かれたらひとたまりもないだろう。橋本が電柱から落下していく姿が目に見えるようだ。
 この部屋でやれば電柱の下からやるのと違って、すぐに逃げられるし、姿を見られることもない。凶器の鉄パイプはビニールテープを剥がして、ガラクタのなかに隠せば、見つかることもないだろう。
 ここまで考えて、植田は胃の辺りに石でも詰め込んだような気分になった。
 自分の推理が正しければ、橋本を突き落とした犯人は部室に出入り可能な人間に限られてしまう。ようするに、映研関係者しかあり得ないということになる。
 植田は映研の連中を順番に思い浮かべた。それから灰皿でタバコをもみ消した。ふと灰皿の中にある吸い殻を見ているうちにあることを思い出していた。
 あいつらのなかに犯人がいる――どうして俺は余計なことに首を突っ込んだんや、世界でたった一人になったような孤独感が押し寄せてくる。
 それでも植田の好奇心は止まらなかった。最後までやらないと気持ちが悪い。これをネタに小説家デビューするという野望もある。
 どうやって犯人をあぶり出したろか――アイデアが閃いた植田は手を叩いた。表情は悪戯をする猫のように変わった。それから部屋の奥にある段ボール箱から新聞会の集合写真を探し出した。

 

植田推理を披露する


 映研の部室にはいつものメンバーが集まっていた。
「俺の推理だと橋本に強請られた櫻子ちゃんが犯人に違いないと思うんや。あの日、映研の部室で星河と密会するという情報をわざと流して、電柱に登らせて覗き見させるように仕向けたんや。その後、窓から鉄パイプみたいなもので、突き落としたんやろ。それだったら女の子でも出来るからな」
 植田は自信満々に語った。
「植田さん、それは違うと思いますよ。だって櫻子さんにはアリバイがありますから。あの日の朝から仕事の打ち合わせで東京に出かけて、帰ってきたのは次の日の夕方だったんですよ」
 萩原が即座に反論した。
「夜にこっそりと帰ってきたかもな。それにこっちには櫻子ちゃんがやったという証拠があるんや」
 バッグからイヤリングを取り出した植田は、机の上にそれを放り投げた。
「智ちゃんに見せたら、櫻子ちゃんがしていたものに間違いがないって、証言してくれたわ。これが部室に落ちていたということは、ここに彼女がいたということやろ。これこそ動かぬ証拠というわけや」
 萩原がそのイヤリングに手をかけようとしたとき、植田は素早くイヤリングを取り上げバッグにしまった。
「大事な証拠や。櫻子ちゃんにいずれは訊いてみるつもりやさかい、誰にもさわらせるわけにはいかんな」
 植田はそういうと、窓際に立っている上前津にこっそりと目配せをした。
 窓のほうからパトカーのサイレンの音が響いてきた。植田はすばやく窓に近づくと、大声で叫んだ。
「なんかあったらしいな。こりゃ、おもろそうや。はよ外に見にいこうや」
 窓に首を突っ込んでいた植田は向き直ると、皆をあおり立てるように大げさにドアを指さした。
 肩にカメラをかけた上前津と、好奇心に目を輝かせた山手が部屋から出て行った。その後に続いて植田も部屋を出ると、すぐに立ち止まり、閉めたドアの隙間から部室をのぞき込んだ。
 顔を青ざめた萩原が、落ち着きなくあたりを見回してから、植田が忘れていったバッグに視線を向ける。
 部屋から出るそぶりをしながら、植田のバッグに手を入れると、イヤリングを素早くつかみ、ポケットに入れた。すぐに駆け足で部屋の外に出てきた。
「ちょっと待てや」
 植田がドアの陰から姿を現すと、萩原に厳しい口調で言った。
「ポケットの中に入れたもんを出してみい」
 萩原はうろたえるような格好で階段に向かおうとしたが、すぐに足を止めた。
 一階から上前津と山手の二人が上ってきたからである。
「植田さん、冗談はやめてちょ」
「山手よ、嘘をついて悪かったな。カミに頼んで、ラジカセからサイレンの音を鳴らしてもらったんや。真犯人を罠にかけるためにな」

 全員が部屋に戻ると、植田はポケットからハーフサイズカメラを取り出して「これにバッチリ写っているからな。嘘は通用せえへんで」と萩原に言った。
 萩原は諦めたのか、虚ろな瞳でソファーに座り込んだ。それを見た植田は優しい口調で言った。
「俺の思ったとおりや、おまえが橋本をやったんやろ。悪いようにはせえへんで、全部話してみろや。それとイヤリングは返してくれるか、智ちゃんに無理を言って借りたヤツだからな」
 悄然とした様子の萩原はポケットからイヤリングを取りだして、テーブルに置いた。それから皆の表情を確かめるように眺め回すと、やがて話しはじめた。
「櫻子さんが妻子ある星河と不倫していると橋本さんから聞いて、これがスキャンダルになったら困る。だから二人をなんとか別れさせる方法はないものかと考えて、それで星河の研究室に『櫻子のことで話がある。午後八時、法学部の女子トイレで』と伝言を残しておいたんです。あそこなら誰も来ないだろうし、そこで話をつけようと思っていたら、運悪く学生会の女子学生がやってきて、星河と鉢合わせして……」
「そうか、それで星河の女子トイレ問題が起きたってわけや。教え子と不倫するようなヤツに天罰が下ったというわけやな」
「あんなスキャンダルが出たから、彼女も星河とは別れるだろうと、そこまではよかったんですが。橋本さんが欲を出して、僕の知らないところで強請りを始めたんです。で、何度もやめるよう説得したんですがダメでした。彼女に迷惑がかからないように、東京にいる間、アリバイがあるときを狙って、橋本さんをそこのタバコ屋の路地に呼びだしたんです」
「橋本が食いつくような美味しい餌を用意したわけだな。この部室で誰かが密会するみたいなことを教えたんやろ」
「ええ、智ちゃんと男が部室でみたいなことをそれとなく言ったら、すぐに飛びつきました。それから、電柱に登れば二階の部室が丸見えですよ、と付け加えておいたんです」
「なんか、橋本の表情が浮かぶようやわ。猫に鰹節ってわけや」
「部室に潜んで、じっと橋本さんがくるのを待っていると、通路のほうから足音がしたんで、懐中電灯をつけて、映研の小道具から借りた女性の衣装を窓越しに見せたんです。すると、電柱に登る音が聞こえてきて、それから黒いゴミ袋を巻き付けた鉄パイプを窓の隙間から思い切り橋本さんめがけて突きだしたんです」
「そうか、ゴミ袋を使ったんかい。あれなら外すのも処分するのも簡単やからな。暗い部屋を覗こうと身を乗り出したところに、黒い鉄パイプがぶつかってきたら、そりゃ、ひとたまりもないやろな」
 皆、橋本が電柱から落ちていく姿を想像したのか部屋は静まりかえった。
「窓から、橋本さんが墜落して倒れているのを確認してから、この部屋から逃げ出したんです。殺すつもりはなくて、とにかくケガでもいいから入院でもしてくれればそれで良かったんです。そうすれば橋本さんも櫻子さんにちょっかいを出すことはないだろうって」

 萩原が告白し終えると、部室は再び静かになり、窓から入ってくる自動車の騒音だけが聞こえてくる。
 どこか遊び半分な気持ちがあっただけに、これが本当に起きたことだと認識すると、あらためて現実の厳しさを突きつけられた気がしたからである。
 植田は皆の顔を見回してから、切り出した。
「萩原よ。まだ隠していることがあるやろ。たしかに橋本を殺そうとまでは思っていなかったことは事実だろうけど。それはまだ動機の半分と思うけどな。俺は事件の少し前にこの部室に来たんや。そのときになんや甘ったるい香りが部屋に漂っていた。あとから調べてわかったんやけど。それは星河が愛用する『ゲルベゾルテ』というドイツタバコの匂いだったんや。星河がこの部室に来るとは思えないから、誰かが部室で吸ったんやろな。つまり星河が橋本を突き落とした、そんな構図を練ったから、証拠となるタバコを試しに吸ってみたんやろな。俺はゲルベゾルテを売っているタバコ屋で聞いてみた。この写真を見せてな」
 植田はバッグから部員たちの集合写真を取り出すと、ヒラヒラとさせた。
「タバコ屋の店員が覚えてたで、萩原の顔をな。珍しい銘柄を不釣り合いな貧乏学生が買っていったから印象に残ったんやろな。部屋のなかに印象的な匂いを残しておいて、橋本に犯人は星河だと思わせたかったんやろ。そうすれば、星河は職を失い、櫻子とも完全に手が切れる。ひょっとして櫻子が東京進出するのに星河が邪魔になっていたかもしれんな。だから、本当は橋本には怪我くらいで生きていて欲しかったんだろ」
 植田の指摘が図星だったらしく、萩原は無言で下を向いたままだ。
「あの日、星河は休講して、嫁さんの実家のある東京に帰っていたらしいな。萩原よ、チェックが甘かったな。俺たちは警察でも探偵でもないんやから、萩原の好きなようにしたらええ。そやろ。それに俺たちの希望の星『掛水櫻子』がスキャンダルでマスコミの餌食になるのだけはやめてほしいわ」
「自首するも、このまま黙って部屋を出て行くも、私はどうこうするつもりはありませんよ」
 上前津は吐き出すように言うと、ソファーに体を預け、天井に視線を向ける。
「俺は信じられないがね。こいつがそんなことをやったなんて。電柱に登った橋本さんが突き出された鉄パイプに驚いて、それで落下したのかもしれないじゃないですか。そんときは刑法的にどうなるんですか、植田さんは法学部でしょ。教えてちょ」
 山手の質問に植田は頭を掻きながら講義を思い出すようにして言った。
「殺そうという確たる意志がなくて、ただ悪戯するだけの気持ちだったら過失致死くらいやろ。そうなると刑はずいぶんと軽くなるわな」
「例えばですよ。鉄パイプが突き出される前に思わず手を滑らせて橋本さんが落下して、たまたま下にあった石にでも頭をぶつけたとなると、本人の過失にしかならないが。それにもともと覗き行為をしようとした本人が悪いことになるがね」
 必死の形相をした山手に、植田は思わず腰を引きながら口を開いた。
「こんなことをいうのもなんやけど。刑法ってのは、裁く相手の心理というのか心情なんかは考慮しないもんなんや。そりゃ、悲惨な境遇とか犯行に至る動機なんかは別にして、誰も犯人の心の中まで覗けんやろ。あくまでも客観的つうか外から見たものでしか判断しないわけや。だから萩原が殺すつもりはなくて、ただ脅かすつもりやったんです、というんやったらそれまでって話やろ」
 植田が話し終えると、自然に皆の視線は萩原に集まった。
「心の中ですか。今考えると自分がなんのためにそんなバカなことをしたのかわからないっす。櫻子さんのためにとは思っていたんだけど。ひょっとしたら一方的な思い込みだったのかも。こんなダメダメな俺の代わりに彼女には有名になってもらいたい。俺の夢を彼女にかなえてもらおうなんて考えていただけだったかもしれません。とにかく櫻子さんだけは事件に巻き込んで欲しくないんです」
「そんなことはここにいる連中はわかってるって」
 植田は怒ったように乱暴な口調で言った。
「なんや、しょうもない。もう萩原のこととかどうでもよくなったわ。とにかく俺の推理力が正しかったことは証明されたわけや。小説にでもしようかと思ったけど、俺はミステリはよう書かへんし、取るなら芥川賞しかないやろ」
 植田はソファーに体をぶつけるようにして座り直した。それからカメラを手に取ると「カミよ。貸してもらったカメラ返すわ。フィルム買う金なかったから、撮影するときはフィルムを忘れずにな」と言った。
「やっぱり、ハッタリでしたか」
 カメラを受け取った上前津は苦笑いを浮かべた。
「気が抜けちゃったがや」
 薄笑いを浮かべた山手は脱力したような声を出した。
「こうなったらみんなで飲みに行くというのはどうや」
「いいですね。少しくらいならおごりますよ」
「じゃ、バーボン牧場にいこまい」
「まだ、飲むには早いからサテンでヒマをつぶしてからにしようや」
「そういえば、S女学園大学の新聞部に行く話はどうなったんだがね」
「そうやな。それの打ち合わせでもしようか」
 三人はそんな会話をしながら、萩原を残して部室から出て行った。

               完

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