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母の涙


私は、母のような人を他に見たことがない。
人を言葉で表すことは難しいが、他人に関心があまりなく独自の世界観を持っている。しかし、愛がない人ではない。私自身、愛を受け育ててくれた。私自身が物証である。
様々な感動的な出来事、コンテンツに触れているはずだが母の涙を見たことは無かった。




去年の初夏の日、叔父が病で亡くなった。
病を患っていたことは知っていたが、正直急すぎた。
知らせを聞いた翌日か翌々日には、お葬式、お通夜等々が予定に入り現実だけが先走っていく。

こんなに早く出番が来ると思わなかった大学入学と同時に買った喪服を取り出し、足を盛大に捻っていたので片足の革靴と片足のクロックスも準備した。すべて黒。ワイシャツと足首の包帯だけは白かった。
そんな恰好をした大人がおおく集まった。
正直、お葬式の礼儀作法、段取りは分からないし、大変さは計り知れない。その中で、何度も心が追いつかないまま迫りくる現実の速さの残酷さ。大勢の大人の中でそれに向き合うことができている人はいるのだろうか。

無情にも別れの儀式は、始まる。自分も涙を浮かべながら現実に引きずられていく。全員で花を叔父に渡した後、奥さんと子供(私からしたらいとこ)のみが残り最後の家族の時間。ここでのシーンは、ずっと脳内にこびりついている。
部屋の外で待っていたが、部屋の中から奥さんの声が漏れ出てきた。

おいていかないで

前日から体調も悪く、気持ちも追いついておらず涙でぐしゃぐしゃな彼女の声は、雷のように大きく、恐怖の中にどこか美しさまでうっすらいた。


その後、お昼ご飯を皆で食べ火葬に移る。
この時だった、どんなことがあっても涙を見せなかった母が初めて私の前で涙を見せた。

心が追いついてないから、(叔父)に手を合わせながら『なんで(叔父)に手を合わせるっていう亡くなった人にする行為をしているんだろう』って思ってた

後に聞いた言葉だが、母は泣きながらこのようなことも考えていたようだ。母の涙を21年見たことない私からしたら、とてつもない出来事であった。とてつもないから、今でもこの言葉たちについて咀嚼しきることが出来ない。ずっと心に脳にこびり付くほど残っているが、考えても考えても飲み込めない。
飲み込まなくてもいいのかもしれない。ありのまま、叔父の死も義叔母の叫びも母の涙も心と現実とのギャップも、その重さを正面から受け止めようか。


叔父さん、たくさんたくさんありがとうね

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