見出し画像

38 なるべく挿絵付き 夕顔の巻㉖ (空蝉からの文~軒端荻への文)


・ 空蝉 

弟の小君が源氏の側近くに参上しても、以前のように空蝉に宛てた文を託されてくることはなくなりました。

かの伊予の家の小君 参る折あれど ことに ありしやうなる言伝ても したまはねば

空蝉の方も、本当は憎からず思っているのですから、いよいよ見限られたかと悲しい気持ちになっていたところに、源氏が重病だという噂を聞きました。
夫について任地の伊予に下ることになっているので、二度と出会えない源氏のような貴公子と本当に縁が切れてしまうのだという心細さが急に増して、「私のことはもうお忘れですか?」と試す心で文を書きます。

遠く下りなどするを さすがに心細ければ 思し忘れぬるかと 試みに

「御病気と伺ってお案じ申しておりますが、見舞いがないのはなぜかとのお尋ねも頂けない見棄てられた私は、思い悩み苦しんでおります (📖 承り 悩むを 言に出でては えこそ 問はぬをも などかと問はで ほどふるに いかばかりかは思ひ乱るる」
「益田の池の歌のように生きている甲斐もございません (📖 ねぬなはの 苦しかるらむ人よりも われも 益田の生けるかひなき)」

愛した女からの便りに心が浮き立って、夕顔への哀切なる服喪は服喪として、こちらの女への食指も動かないではない、病み上がりの源氏です。

めづらしきに これも あはれ忘れたまはず

「生きる甲斐がないなどとは、私の方が言うべき言葉です (📖 生けるかひなきや 誰が言はましことにか)」
「空蝉の恋の儚さを知った筈なのにまたあなたの言の葉に期待をかけてしまうとは、何と恃みがたい命であることよ (📖 空蝉のは 憂きものと知りにしを また言の葉にかかる命よ  はかなしや)」

まだ病後の震える手で乱れ書いた手紙がいかにも美しかった上に、脱ぎ置いた小袿のことを覚えてくれているのが気の毒やら嬉しいやらの空蝉です。

御手も うちわななかるるに 乱れ書きたまへる いとどうつくしげなり
なほ かのもぬけを 忘れたまはぬを いとほしうも をかしうも 思ひけり

こんな風に隙あり気に誘うかに見せながら、それ以上に距離を詰める気はなくて、ただ、頑なな女という記憶を書き換えて、いい女だったという思い出をあの貴公子に残して去りたいのです。
慎み深い人が最後に破調のような行動をするほどの、下向の心細さであったということでしょうか。

・ 軒端荻

もう一人の 西の対の女 は蔵人少将を通わせることになったようです。
処女でなかったことをどう思っているのだろうかと少将に同情する一方で、女の様子も知りたくて、
小君に、「死ぬほどお慕いしている心をおわかりでしょうか」なんて言わせます。

「一夜限りとはいえ軒端の荻を結ぶ契りをしたのですから、僅かばかりの恨み言を言う資格は私にもあるはずです。あなたはつれないじゃありませんか (📖 ほのかにも 軒端の荻を 結ばずは 露のかことを 何にかけまし)」

この文を丈の高い荻に付けて「こっそりね」と小君に言い付けますが、

高やかなる荻に付けて 忍びてと のたまへれど

「少将に見つかっても、相手が私だとわかれば、まあ許さないわけにいくまい」と、源氏は驕っています。

小君は気を遣ったのか、少将のいない時に届けました。
「今頃何なのよ」とは思いつつ、あの最高の麗人が思い出してくれたのは嬉しいので、女はとにかく急いで返事を書きます。
「あなた様が少しの風をそよがせてくださっても、賤しい下草の荻はもはや半ばは霜に萎れておりますのよ (📖 ほのめかす風につけても 下荻の半ばは 霜にむすぼほれつつ)」

下手なのをごまかして風流めかして書いている筆跡に品がありません。
火影に正面から覗き見た時のことを、「こちら側の嗜み深いあの人の姿態は忘れ難いが、向こう側のこの子は何の嗜みもなかった」「やかましくはしゃいでいたな」と思い出します。

火影に見し顔 思し出でらる ~
何の心ばせありげもなく さうどき誇りたりしよと思し出づるに 憎からず

それはそれで、やはり悪くない気がしてきて、
「我ながら懲りないものだな (📖 こりずまに またもなき名は立ちぬべし 人にくからぬ世にし 住まへば)」と浮気心が騒ぐ源氏です。

こりずまに またもなき名は立ちぬべし 人にくからぬ世にし 住まへば


📌 ねぬなはの

📖 ねぬなはの 苦しかるらむ人よりも われも 益田の生けるかひなき
じゅんさいの根を繰る人にもまして、お尋ねも頂けない生きる甲斐なさに苦しんでおります。

※ねぬなは(根蓴菜)とはじゅんさいのことで、じゅんさいを取る時に長い根を『繰る』ことから『くるしい』に掛かる。
※ねぬなはの『ねぬ』は『寝ぬ』に掛かる。
※益田池 …じゅんさいの縁語
※益田の生ける …益田の池、益して(まして)

📌 荻を結ぶ契り

📖 ほのかにも 軒端の荻を結ばずは 露のかことを 何にかけまし
草を結ぶのは、自分の魂を結び込めて、安全や幸運の持続を願う上代の呪術的な習慣だそうです。
下の歌は、草ではなくて松の枝を結んでいますが。痛切です。
📖 磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた還り見む (有間皇子)
   松の枝結んどくからね、生きて帰って来られたらいいなあ…
📖 たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとそ思ふ (大伴家持)
   寿命のことはわからないけど、松の枝を結ぶのは長命の願いなんだよ

📌 こっそり

こっそりと言うなら 📖高やかなる なんかに付けないで、字は似てるけどの小枝の先とか目立たない物に付けてやればいいのに。
源氏の軒端荻に対するぞんざいさは本当にひどいものです。

📌 こりずま

📖 こりずまに またもなき名は立ちぬべし 人にくからぬ世にし 住まへば(古今集)
性懲りもなくまたあらぬ浮名が立ってしまうなあ。だって恋しちゃうんだもん。

📌 相当回復

この後、夕顔の四十九日で源氏はまたひどく悲しむのですが、空蝉の未練の文を受け取ってから、ここでは一応、ついでに軒端荻への浮気心まで湧き起こって来たようです。
元気になってよかったね、と、つい思ってしまいます。

                          眞斗通つぐ美


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?